CODICE2 朧(おぼろ)に浮かぶ銀の月

 寝そべったまま感慨にふける時間はすぐに終わった。


 あっという間に四人の黒服の男たちに囲まれ、物陰に引きずり込まれたからだ。全員ガッティーニの下で共に働く警護仲間だった。


「まさかこいつまで犬だったとはな」

「お前はシレアの仲間だろ! とっととやつの居場所を吐いた方が身のためだぞ!」


 壁に押さえつけ銃とナイフを見せつけてくる。さっきの襲撃者と同じく、僕を暗殺者か何かだと思っているらしい。


 いや、「犬」と言ったか。シレアは警察の潜入捜査員?


 ふいに一人が、二十メートルほど離れた場所に現れた男の姿に吠えたてた。


「シレアだ!」「追えッ!」


 二人が走り出した。残りの二人は僕から目を離した隙に、同時に回し蹴りを食らって倒れ込んだ。


 一人は僕の右脚で。

 もう一人はの左脚で。


「こっち!」


 さっき去ったはずのスリングショットの彼女。片手で手招きしながら走り出す。


 彼女も僕の命を狙ってたはずだけど。

 僕はつられて一緒に走り出した。

 下卑た男どもよりずっといい。



  ◇ ◇ ◇



 彼女は街角の洒落た雰囲気のカフェに入ってしまった。

 人が一人通れる程度の狭い扉をくぐると、大勢の客で賑わう明るい空間が僕らを迎え入れた。


 エスプレッソや焼き菓子の香りが漂う中、彼女は慣れた様子でテーブル席に着く。

「どうぞ」と言われるままに、僕も向かい側に腰を下ろした。


「ここ来たことある?」

「ないけど……」

「ここね、スイートポテトタルトが美味しいの! おごったげるから食べてみて!」


 固まってる僕の前で、カメリエーレウェイターに手早く注文を済ませる彼女。さっきまでの状況を思うと、のんびりコーヒーやタルトを味わう気分にはなれないんだけど。


「ええと。さっきのは、助けてもらったってことでいいのかな」


 僕が問うと、彼女は楽しそうな目で僕を見た。


 明るい照明の下で見る彼女は、控えめなメイクに余裕のある笑みを浮かべた、スマートなキャリアウーマンのように見える。

 細身の黒いコートをセンス良く着こなし、少なくともスリングショット片手に格闘する女性には見えない。


「半分はシレアが引き受けたんだけどね」


 さっきの影はやっぱりシレアだったのか。


「君はシレアの仲間? 警察?」

「はっきり聞くねー。警察じゃないけど、シレアとは目的が一致してるの」


 彼女は声を落とし、ほぼ唇の動きだけで次の言葉を伝えた。


『ガッティーニを潰す』


 なるほど。


「僕を攻撃したのは?」

「本気じゃなかったよ。ただ、シレアが言ってた君の噂を確かめたくてさ」

「噂? ……ああ、僕の悪運のこと?」

「人呼んで『ミスター貧乏神』。日本じゃけっこう有名だったんでしょ、けいちゃん」


 京ちゃん?


 カメリエーレがカプチーノとタルトのセットを二つ持ってきた。芳醇なコーヒーの香りと甘い香りが鼻の奥まで染み渡る。彼女の笑顔も全開になった。


「このスイートポテトが美味しいんだよ~! ねっ、食べてみて」


 言いながら先に食べ始めてる。逆らわない方がよさそうだ。


 サクッとしたタルト生地の中のスイートポテトは、想像よりもクリーミーでとろけそうだ。でも、しっかり芋だ。


「どうよ」

「芋だね」

「当たり前じゃん!」


 軽く笑ってから、二人で黙々とタルトを完食。甘味をカプチーノで流し込んで、彼女は話を再開した。



  ◇ ◇ ◇



「私が落ちかけた時、助けてくれたでしょ。何でかなぁって思ったんだよね」


 そうだった。高台が落下した時、僕はとっさに彼女に向かって手を伸ばしたんだ。


「僕と一緒にいる人にはろくなことが起こらない。何せ『ミスター貧乏神』だから。これ以上犠牲者を増やしたくなかっただけだよ」


「犠牲者って。京ちゃん、別に悪くないじゃん」


「君も僕の運の悪さは認めてるだろ? 粕谷かすや警視長もシレアも、僕の腕じゃなくそっちを買ってガッティーニの警護に回したんだろう。残念ながら、逆にやつの運を上げてしまってるけど」


 彼女はカップから手を離し、ふうっと息をついた。


「そだ、約束どおり教えたげる。私の名前、光和みつわ世衣せいっていうの。たぶん本名じゃないけど」


「たぶん?」


「物心ついた時には外国にいたんだけど、父親が不法滞在者で、身分証明もなくふらふらしてて……だから私、戸籍も国籍もないんだよね」


「…………」


「自分の運が悪いと思ったことはないよ。ちゃんと元気に生きてるし。ちょっと裏稼業に精通しちゃったりしたけど。京ちゃんも、色々あったけど今日はすっごく幸運を呼んでるじゃん」


「幸運?」


「二人で一緒に、極上のタルトを味わえる。こんな幸運滅多にないよ!」


 当然のように、さっぱりとした笑顔を見せる彼女――世衣さん。つられて僕まで笑ってしまう。


「そだ、京ちゃんにぴったりの言葉をあげる。復唱してみて。『悪運を、好機チャンスに変える!』はい!」


「あく……え?」


「悪運を、好機チャンスに変える」


 僕が復唱すると、世衣さんは満足そうに頷いた。


「京ちゃんの悪運は、とらえ方次第でいくらでも好機チャンスに変えられると思う。京ちゃんにはそれだけの力がある。でなきゃそもそも警察官にもなれないって。また美味しいタルトを食べるために頑張れるよ」


 タルトが幸運。何だか本当にそんな気がしてきた。


 世衣さんは、おもむろにコートのポケットから小さなファイルを取り出した。中から取り出した写真を僕に見せる。


 写ってるのは、淡い銀の髪を持つ子供。

 透き通るような肌、物憂げな長いまつげの目元。少年とも少女ともつかず、誰もが認めるであろう儚い美しさをたたえた、一人の人間が表現できうる限りの至高の芸術。


 ――あの子だ。ガラスケースの人形。


「最近ガッティーニが手に入れた逸品。やつはこの子を人形、芸術品として高く売りさばく気なんだ。生きてるけどね」


「やっぱり人身売買……この子は、アルビノか何か?」


「じゃないみたい。最近髪の内側に茶色の毛が混じり始めて、ガッティーニは焦って早く売ろうとしてる。私はこの子を両親のもとへ返したい」


「君はそのためにガッティーニの護衛に?」


「そ。京ちゃんも手伝ってくれる?」


 改めて写真を見た。哀しみを内に秘めたように見える、弱々しい表情。誰かが救わないと、このまま本当に血の通わぬ置物になってしまいそうだ。


「子供を悪漢から取り返す仕事、か。悪くないね」


「そう来なくちゃ」 


「いざという時に『貧乏神』が発動してしまうかもしれないけど」


「さっき言ったでしょ。悪運は好機チャンスに変える。京ちゃんがいれば、今の成功率が丸ごとひっくり返りそうだよ。もちろんいい方にね」


 僕と世衣さんは、同時にニッと笑い合った。


 外に出て見上げた空は、さっきとは色を変えていた。

 黒い雲の中に徐々に輪郭を表し始めた月は、淡い銀の光を放っているように見えた。

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