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 それから一週間が経っても、先生は元に戻らなかった。

 僕たちはみんな先生のことが大好きだったけれど、そうは言ってもそろそろ限界が来ていた。

 安生あんじょうさんが、どこからか先生の噂を聞いてきた。

「先生、旦那さんに浮気されてたんだって」

「えー!」

「ひどーい!」

「先生よりうーんと若い女だって。それで先生が怒ったの。でもね、旦那は『何が悪いの?』って言うんだって」

「サイッテー!」

「死ねばいいのに!」

「先生それで心が壊れちゃったんだって。毎日教室に来る前に、職員室でお酒飲んで泣いてるんだって」

 大山さんが言ってた、と言って、安生さんは情報提供を終えた。それからは女子同士で輪っかを作ってひどいよね、とか、かわいそう、とか言い合っていた。

 ちかちゃんはその輪に入らず、席に座ったまま、不機嫌そうに安生さんを睨んでいた。


 その日の帰りの会、連絡係の飯田さんが座ると、誓ちゃんがスッと手を挙げた。

 太刀花先生が鋭い目を向けると、誓ちゃんは呼ばれてもいないのに立ち上がった。

「先生は間違ってます!」

 先生はピクリとも動かないまま、誓ちゃんを見ている。

「先生のおうちのことは私たちには関係ありません! 八つ当たりはやめてください!」

「先生の教育方針と家のことは関係ありません」

 心のこもってない声に、誓ちゃんが小さく肩を震わせる。あ、謝んなよ、と近くの席の子が言う。誓ちゃんは振り払うように、頭を横に振る。

「先生はやさしかったのに、急に怖くなりました! 先生の旦那さんが浮気をして、先生を傷つけて、先生は怒っているからです!」

「違います」

「でも私たちは悪くありません! 竜太郎くんも悪くなかったです! 先生おかしいよ! 八つ当たりじゃん!」

「違います」

 言いながら、先生は動き出した。

 教卓を、机を、飯田さん、山仁多くん、快翔を押しのけて、ゆっくり、まっすぐに、誓ちゃんの正面まで歩いていった。

 近くの席の子たちが席を立って逃げ出す。僕は動けなくて、二人を見つめたまま、ぎゅ、とつばを飲む。

「先生はただ、あなたたちに、容赦することをやめたのです」

 先生は、誓ちゃんを見下ろしたまま言う。

 誓ちゃんは先生の顔をジッと睨みつづけたけれど、それでも怯えているのが表情にまで出てしまっていた。

 先生の両手が、誓ちゃんの肩に置かれる。誓ちゃんが、震える声で言う。

「わたし、しつもんしてません……」

「本質が解っていない」

 僕たちは、みんなそれを見た。

 先生の背中のあたりが、ぼっ、と膨らんで、そこから五つ、黒い、影の塊みたいな腕が生えてきたのを。そして、先生の頭が、いつの間にか犬の頭になってしまっているのを。

 黒い手が誓ちゃんの顔へと伸びる。

「質問は悪です」

 悲鳴をあげようとする誓ちゃんの口を、先生の手の一つが塞ぐ。誓ちゃんは、塞がれた口でもごもご泣き叫んで、首をめちゃめちゃに振った。

 腕が伸びて、誓ちゃんの目を覆い、鼻をつまみ、両耳を塞ぐ。

「質問とは、すべて、エゴイスティックな行為であるからです。質問するとき、人は相手のことを決して考えません。自分自身のためか、あるいは自分と相手がいる、ある特殊な場のために質問をします。特殊な場とは、たとえば、授業空間などがそうです。帰りの会なども、そうです」

 暗闇に包まれて、誓ちゃんが泣いている。

 泣きながら、ずっと謝っている。

 黒い掌の隙間からこぼれる音は、もう言葉としては聞き取れなかったけれど、ごめんなさい、ごめんなさい、と言っているのは分かった。

「質問とは、他者から自分一人で在る権利を奪い、奉仕を要求する行為です。相手を自分の天秤の上に引きずりだす行為です。人のことを軽んじた、厚かましい、許されざる行為です」

 誓ちゃんが身をよじろうとするのを、肩においた両腕が抑え込んでいる。ごめんなさい、やだ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、やだ。

「質問の本質はあなたの挑発と同じ、悪です。許したほうが便利だから許されているだけの、間違った行為です。一週間、自分の頭で考えれば、これくらいは分かったはずです」

 ママぁ!

 そう、誓ちゃんが叫んだ瞬間、勢いよくドアが開いて、隣の先生が飛び込んできた。

「考えなさい、それくらい。先生は一生、質問を許しません。あなたたちみんなです。ずっと許しません。先生がいなくなってもそう。ずっと、永遠にです」

 他の先生も次々と入ってきて、太刀花先生を誓ちゃんから引き剥がした。いつの間にか、黒い腕はなくなり、顔もいつもの先生に戻っていた。

 先生たちに引きずられて、教室から出ていく。

 ドアの向こうで先生が叫ぶ。

「私たちは、誰一人として、あなたのママなんかじゃないんですからね!」

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