幕間・Ⅱ 王と白猫
その日、彼はいつもより早く床に就いた。
否、具体的には奥の間に下がっただけだ。
就寝などできようはずもない。ほぼ確実に、来訪者が現れるとわかっていたのだから。
ささやかでも宴席を設けようかと考えて――やめた。
彼からすれば歓待すべき相手だが、向こうはそう思っていない可能性が高い。
身体能力に関しては多少なりと人より優れている自負はあったが、そんなもの、これから出迎える相手からすれば鼻で笑える程度のものだろう。
――と、そんな他愛もないことを考えている間に、来たようだ。
彼女は音もなく、窓から彼の寝室に舞い降りた。
「やあ、来たね。そろそろだと思っていたんだ」
銀色の月明かりに照らされて、夜闇になお映える美しい純白の毛並。質のいい紅玉のような、深紅の瞳。
寝室の主、ト
「ふぅん。宴席の準備、みたいなズレたことしてるのかと思ったのだけれど、取り立てそういうわけでもなさそうね」
「正直、それは一度考えた。けれども、寝室で宴席を設けるのもおかしな話だと思ってね。ああ、申し訳ないけど寝間着で失礼するよ」
「ええ、構わないわ。押しかけているのはわたしなのだし」
白猫は一歩、トーマに歩み寄る。
と、その体躯がするりと縦に伸びた。
二本足で立ち上がっただけではない。輪郭そのものが音もなく変化していく。
病的なほどに白く、それでいて生命力に満ちあふれた張りのある肌。
腰ほどまでの長さの、絹糸のような純白の髪。
質のいい紅玉のような、どこまでも紅く紅く紅い瞳。
体躯は十二、三歳程度の少女のものながら、内側に秘めた力は全くもって底が見えない。
白猫の姿からいつもの少女の姿になった彼女――ゼクスは、改めてトーマと視線を絡ませた。
「久しぶり――と、言っていいものか迷うね、これは」
「ああ、あなたはわたしと面識がある『新上当麻』なのね」
得心が言った、とばかりにゼクスは頷いた。
ゼクスを見たときにトーマが浮かべた、ほんの少しの困惑。それはあり得るはずのないモノを見たことによる動揺だった。
彼女は、トーマ・ゼノ・ウィンザード・アーシュラウムがこの世界に呼ばれる前――「新上当麻」だった頃に邂逅したことがあるモノであり、この世界の住人であるはずがないものだった。
「その口ぶりからすると、君は『君と面識のない僕』にも心当たりがあるようだね」
「そうね。厳密に言えば、『ここに至ったわたし』はあなたと直接の面識はないわ」
「ふむ。つまりあれかい? 平行世界の同一人物、というやつかい?」
思いついた単語をそのまま口にしてみたが、ゼクスはそれに答えることなく、別のことを口にした。
「それで、今日のあれはどういうつもり?」
今日のあれ――突然王城に呼び出したことか、身分の保証を約束したことか、はたまた変装して酒宴を開催したことか。
思い当たるものはいくつかあったが、やはり最たるもののことだろう。
「ああ、希望くんをスカウトしたことかい?」
理由はいくつかある。
彼女たちに話した通り、彼女たちに興味が湧いたこともそうだし、面識がないとはいえ自分が治める国の子供を救ってくれたことに感謝の念があるのも事実だ。
とはいえ一番大きいのはやはり、明言を避けた個人的な理由。
希望本人に話すのはともかく、目の前の白い少女に話す分には問題ないだろう。というよりも、迂闊な対応をすれば首や心臓が物理的になくなってしまいそうだ。
「ええと――ゼクスくん、で通して構わないかい? 僕の記憶だと、君の名前は別のものだったはずだけど」
「構わないわ。こちらで希望に付き合うときは、ゼクスで通すつもりだもの」
「そうかい。ではゼクスくん。君ね、君と希望くんがこの世界にとってどれだけイレギュラーな存在か、きちんと認識しているかい?」
「ああ、そういうこと。この世界の管理者に頼まれでもしたのね」
「察しが良くて助かるよ」
桜井希望、という少女自身は、特筆すべきものがない至って平凡な少女なのだろう。その輝かんばかりに飛び抜けた美貌を除けばだが。
いやあれ、この間会った女神ルミナスにまるで引けを取らない、ある意味人外とも言える美貌である。性格が残念なのはまあ、この際置いておくとしよう。
ともかく、桜井希望自身は飛び抜けて美しい少女ではあるがそれだけだ。
問題は彼女を取り巻く環境そのもの。
半魔半獣という、非常に珍しく難しい立場の彼――シルヴァ。
そのシルヴァを守ろうとする姿勢が気に入ったから声をかけたという、ライオネル。
自らもあまり人付き合いがうまくないが故に同調したというパーシバル。
こちらへ転生した直後に知り合い交友を深めた者が、ことごとく異彩を放つ者ばかりである。
「あの子は生まれ変わりのルールを完全に無視した状態で転生しているものね。警戒もやむなし、か」
その上彼女だ。
今はゼクスと名乗っている彼女が、常軌を逸している。
トーマの記憶にある彼女も確かに強者の部類ではあったが、ここまで隔絶した実力差はなかったはずだ。正面切って戦わせてくれれば五分五分に持ち込める、それくらいの強さだった。
それが今はどうか。一切の強さが測れない。かろうじて自分よりも遥かに格上だとわかるくらいだ。
文字通り――次元が違う。
「まあ、わたしなんて希望のおまけでしかないのだけれど」
君みたいなおまけがいてたまるか。
「あの子、魔力はあってもこちらの魔法に適正がないんだもの。露払いは必要でしょう?」
「そうなのかい? 僕もそうだったが、日本出身だとこっちの魔法は使えなかったりするのかな」
もっともトーマの場合、魔力そのものがないようなのだが。
「あなたは完全に特殊な部類でしょう、『新上当麻』。日本人という括りで語るのにも語弊があるでしょうに」
「いや、返す言葉もないね」
肉体は50年間若さを保ち続けている。
毒や病、呪いの類は一切効かない。
傷を負ったとしても、その再生力は獣人や魔族すら凌駕する。スライム並だと言われた時はとても複雑だったが、まあそれはいい。
この肉体は日本人であることとは関係ない。トーマが「新上当麻」であるが故に、かくあれかしと定義されているものだ。
召喚されて所属する世界が変わろうとも、そこに一切の変化はなかった。
「あなたの肉体は『アラガミトウマ』だもの。その力の行使に魔力は必要ないのだから、魔力は持たなくて当たり前。だったら、魔法が使えないのも当たり前ね」
「随分詳しいじゃないか。君、僕と面識がなかったんじゃないのかい?」
「わたしはあなたと別の『アラガミトウマ』と縁があったわ。あの子は多分、あなたの子孫になると思うのよね」
こちらに召喚された時、トーマには子供などいなかった。恋人もいなかったのだから当然の話である。
だが、彼女がアラガミトウマと縁があったと言うのであれば、それは間違いなくトーマの子孫になるのだろう。そうでなければ成り立たない。
彼女が嘘を言っているようにも思えない。そんな嘘をつく理由がないからだ。
平行世界の同一人物という言葉が、にわかに信憑性を帯びてきた。
「僕は子を成さずにこちらに来た。であれば、君の会った『アラガミトウマ』は、僕の子孫ではないことになる」
「でもそれはありえない。『アラガミトウマ』は『アラガミトウマ』からしか産まれないのだから」
「正直、混乱してきたよ。君が僕の知っている君の、平行世界の同一人物であったとして、それでも『アラガミトウマ』について知りすぎている」
その上、彼女はトーマと直接の面識がないという。トーマはトーマ、トウマとしか名乗っていなかった。
にも関わらず、彼女は「新上当麻」と呼んだのだ。
降参とばかりに両手を挙げたトーマを見て、ゼクスはくすりと妖艶な微笑を浮かべた。
「わたしはね、到達点なのよ」
「到達点……?」
オウム返しの問いに、ゼクスはこくり、と頷く。
「生まれ変わりは要らない。消滅したっていい。どれだけの数平行世界があろうと、どんな終わりを迎えていようと、どんなわたしであっても、わたしという可能性は必ずわたしに辿り着く。わたしという魂の到達点。ありとあらゆるわたしの可能性、記録の集合体とも言えるわね」
そう成った時点で、彼女という存在は位階が上がった。
同時に、彼女という存在はそこで終わってしまった。
これ以上は進まない。これ以上にはなれない。「可能性」という抜け道をなくしてまで辿り着いた、最果て。
「……つまり、平行世界の同一人物、なんてものじゃなく」
「わたしは『全てのわたし』の記録を所持しているわ。実体験の有無に関わらず、ね」
すとん、と。
これまでの違和感の全てが腑に落ちた。
彼女自身はトーマと会った実体験がないとしても、トーマと会った記録はある。それも話の通りであれば、無数にあるはずだ。何しろ可能性の数だけあるのだから。
彼女からすれば、トーマが「新上当麻」であることはすぐにわかるが、どの新上当麻かはわからない。わからなくてもさして問題ない。
そして、あらゆる可能性の集合体であるならば、その底知れない強さにも合点がいく。
とはいえその選択は相当に覚悟が必要なものだっただろう。それはつまり、忘却が許されないということだ。新しい生はなく、未来はなく、既知の可能性をひたすらリピートするだけの観測装置に他ならない。彼女が選んだのは、そんなゴール。
「――彼、かい?」
彼女がそんな道を選ぶ理由があるのであれば、それは一つしかない。少なくとも、トーマはそれしか思いつかない。
彼女が寄り添っていた、主人と呼んだ、あの少年。
「ええ」
ゼクスは簡潔に、そうとだけ答えた。
「どこの世界だか知らないのだけれど、ヒトが到達してはいけない領域に到達してしまったみたい」
到達してはいけない領域。
ああ、確かにそうだろう。ヒトは未来を目指すものだ。前に進むものだ。
その歩みを止めて、ゴールはここだと定めてしまって。代償としての力を求めた最果てなのだろう。
「ヒトに到達できない領域ならいいわ。それは天才であれば到達できる領域だもの。でも、到達してはいけない領域は、可能不可能の話ではなく、本当に、到達してはいけなかった」
そう。彼の運命は決まってしまった。
どれだけヒトしての生を全うしても、行き着く先は変わらない。
ルミナスは、今回干渉してきた神が最上位の存在だと言った。それはつまり、自分が入る余地のない可能性を、永劫見続けることに他ならない。
それは――それは、なんと孤独なことか。
「だから、彼の後を追ったと?」
「彼は選択肢をくれただけよ。人だった彼を看取ってから三百年。死ぬ間際になって、ようやく迎えに来てくれた。嬉しかった……わたしはね、なによりもまず、嬉しかったの」
だから、とゼクスは続けた。
「細かいことはどうでも良かったわ。平行世界のわたしたちからすれば、それぞれの立場から言いたいこともあったのでしょうけど、そんなことどうでも良かった。それより、生まれ変わってまた始まる――そういう可能性もないことの方が問題でしょう?」
「そうか――ああ、そうか」
共に来るか来ないか。それはゼクスにとって選択肢であって選択肢ではなかったということだ。
結局のところ、彼女は恋をしているのだ。
トーマがかつて出会った彼女と同じように。話を聞く限り、あの少年と死に別れてなお三百年想い続けていたように。今度は永遠に、恋をしているのだ。
そう考えると、どことなく感慨深いものがある。
「ところで、希望くんはどこに絡んでくるんだい?」
それはそれとして、ここまでの話に桜井希望という少女はこれといって出てこない。
トーマは話を戻すことにした。
ゼクスはその問いに、極めて簡潔にこう答えた。
「身内の面倒を見るのに、大層な理由なんて必要ないでしょう?」
身内。
身内ときたか。
「彼はほら、ちょっと現界すると星がもたないから。わたしが意識の一部を切り離して希望に憑いてるのよ」
あとなんとも不穏なことを聞いた気がする。
星がもたないとか意識の一部とか、なんというか桜井希望のバックにいる存在が想像以上にとんでもない。
知らぬ仲でもないから敢えて言わせて貰うが、こんな連中に身内判定される桜井希望という少女にはつくづく驚かされる。
まあ、彼女自身は「え、何それ初耳! こわっ!」みたいなリアクションをするのだろうが。それをトーマも好ましく思えているあたり、彼女の人徳だろう。
「ああ、そういうことなら安心してくれ。彼女には快適な生活を保証するとも。なにしろ腐っても国王だからね」
「ええ。それについては心配してないわ。そのためにこちらの事情も話したのだし」
やはりその目論見もあったか。
とはいえ単純に惚気話に付き合わされて気がしないでもないが。
「それと、『仕事』はあなたの思うように振ってくれて構わないわ。余程無理な内容でなければ引き受けさせるから」
「いいのかい? 正直助かるんだけど」
「働かざる者食うべからず、よ。あれで本人も割と真面目な子だから、働かずに衣食住の面倒見られるのは落ち着かないでしょう」
「わかった。じゃあ、明日にでも早速仕事を回すとしよう」
トーマの言葉に頷くと、ゼクスは窓へ向かってとん、と跳躍した。
見る間にその体躯が縮み、ここへ来た時と同じように、艶やかな毛並みの白猫へ姿を変える。
「挨拶も終わったことだし、帰るわ」
「そうかい。酒宴はまた今度、改めて開催させて貰うよ」
「そうね――今日の酒宴は悪くなかったし、次の機会を楽しみにしておくわ」
「光栄だね」
「それじゃあ、おやすみなさい。良い夢を」
音もなく、ゼクスは窓からその身を踊らせる。
窓からは銀色の月明かりが煌々と差し込んで来るばかりである。
再び寝室に一人となったトーマは、ゼクスと普通の猫とで明確に異なる部分を思い返していた。
それが彼女の、本来の名前の由来となったであろうことも。
まるで絹糸のように艶やかな、どこまでも白い毛並み。
紅玉のように見るものを惹き付ける、紅い瞳。
そして――ゆらゆらと揺れる、七本の尾。
「……さて、寝るとしようか。今の彼女の相手は、さすがに老体には堪えるねぇ」
そう独りごちて、トーマは改めて床に着くことにした。
街は眠り、月は優しく見守っている。
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