第8話 『スプートニク』
次の月曜日、雄仁さんは絵を持って現れた。
相変わらず長く伸びた前髪に少し安心した。あの瞳が見えてしまったら、きっと僕は動けなくなってしまう。そんな確かな自信があった。
彼は荷物を適当なところに置いてしまうと、僕らに背を向けて、壁に掛かっている絵を片そうとした。
「スプートニク。」
と僕は声に出した。
というより、出た。
彼は、額縁部分を下から少し持ち上げたところで手を止め、振り返って僕の方を見た。恐らく、僕の目を。
同時に辻本さんが視線をこちらへ向けたが、すぐに手元のサイフォンに戻した。
スプートニク。
犬を乗せて宇宙に行ったロケットの名前だ。
衝動的に発した言葉に、僕は続ける。
「あの、その絵。スプートニクみたいだなあって思っていて・・・。」
「あぁ。」
雄仁さんは、固定されていた手の力を抜いて、同じように脱力した自分の絵と再度向かい合った。
「そういうの、知っている世代ではないと思ったが。」
「僕は読書が好きで。前に読んだもので、スプートニクを題材にした小説があったんです。村上春樹の。」
「『スプートニクの恋人』?」
「それです。ということは、やっぱりその絵は。」
「うん。」
頷くとまた絵に手を掛けて、今度はしっかり外し、いつの間に敷いていた布の上に伏せて置いた。そうっと。
そして雄仁さんは口を閉ざし、黙々と『スプートニク』を、下げてきた鞄に入っていた絵と取り替えた。慣れた手つきで。
店内にはその作業音と、サイフォンの、ぽおぽおという音が微かに、共鳴するようにして響いた。・・・ように感じた。
作業を終えてしまう頃に、僕はコーヒーをカップに注ごうとする。
嫌に緊張して、慣れてきたはずのこの動作が恐ろしく難しくなった。
手元が震え、焦点がずれ、耳が遠くなる。
が、丁度良い量に達した時、感覚が注ぐ手を止めてくれた。
見ると、雄仁さんは作業を完璧に済ませて、それでいて、そんなことが無かったかのように、隅の席にじっと腰掛けていた。
携帯をいじっている。
「『本日の珈琲』、マンダリンです。」
カウンター越しにそれを提供されると、携帯を閉じ、顔を少し上げ、まずコーヒー、それから更に顔を上げて僕を見た。
その一連の流れは、僕にはひどく遅く感じられた。
続く
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