ACT04 新堂由仁が、抱いたときめき


 ――少々、時を遡る。


「ふぃー。さ、早く戻らないと」


 校内の自動販売機でミネラルウォーターを二本、スポーツドリンクを一本、合計三本のペットボトルを買って、新堂しんどう由仁ゆにはパタパタと校内を駆けていた。

 兄の新堂しんどう源斗げんとが、飛来するサッカーボールから友達の鐘鳴かねなりえいを守ったのが五分前。

 顔色が優れない詠を、中庭のベンチまで運び終えたのが三分前。

 そして、その直後、


『うち、詠ちゃんに飲み物買ってくるから、ゲンさんは詠ちゃんのことを見といたってっ』

『お、おう?』


 源斗の返事を待たずに、由仁が飲み物を買ってこようと思い立って校内の自販機にダッシュして、今は帰り道の最中である。

 ただ、その道中で、


「……もしかしてこれ、ゲンさんが飲み物を買いに行く役で、うちが詠ちゃんの様子を見てあげる役の方が良かったんかな?」


 そのように思いついたのだが、それも後の祭りか。


「まあえっか。ゲンさんはそういう女の子の扱いに抜けてるトコあるし、うちが行った方が速い……いやいや、待たせている間、女の子の扱いに抜けているゲンさんが、詠ちゃんにどのように話しかけるのか……」


 とまあ、いろいろ考えがつかなかったところを今頃ブツブツ呟いている辺り、自分も大概であると思わずにいられない。

 ……兎にも角にも、早く戻らないと。

 そう思って足を動かし続けて、ようやく中庭に帰り着いたところで、



「そこで何をしている」



 別の方角から、剣道の胴着姿の男子生徒が、ツカツカと――ベンチにいる源斗と詠へと歩み寄っているのが見えた。

 由仁とはあまり変わらない身長ながらも、しっとり髪の中性的な顔立ち、隙のない立ち居振る舞い、何より意志の強そうなその黒の瞳に、


「――――」


 なんとなく、由仁の中でぴぴっと来た気がした。

 初めて詠を見たときと同じ感覚だ。


「お、お兄様」

「詠、大丈夫か」


 それもそのはず、詠が驚いた様子で男子生徒を兄と呼んでいた辺り、ああ、なるほど、と由仁は感じた。

 詠が可愛いなら、彼は……そう、とっても、カッコいい。

 瞬間、由仁としては一つ、胸が高鳴る思いではあったのだが、


「あ、はい。その、私は全然……で、でも、その人は」

「わかっている、皆まで言うな。この男に言い寄られて怖かっただろう」

「はぁ? ちょ、ちょい待ち。なんでそうなんねん」

「お、お兄様、それは誤解で……」


 困ったことに、どうやら彼は源斗のことをナンパ男か何かと勘違いしているようだった。

 確かに兄は身体が大きくてちょいワルな風貌ではあるので、よく知らない人から見たら、それも仕方ないことか。

 ここは一つ、自分が間に入って彼の誤解を解こう……と思っていたのだが、


「まさか女子を上から威圧して誑かすような、性根の腐った下衆な男だったとはな」

「!」


 彼の口から、悪意を持って兄を罵る言葉を聞いて。


「相変わらず喧嘩早いところに、貴様の程度の浅さが見えるな」


 由仁の頭の中で、


「そうやって暴力で詠を屈服させようとしたのだろう?」


 何かが弾けたような気がした。


「貴様はこれからそのように、誰かを傷つける人生を送るのだろうが――」



 バチィンッ!



 ――気がつけば。

 由仁は一直線に彼の駆け寄り、手に持っていたペットボトル三本を手放して、彼の横っ面をひっぱたいていた。


「!?」


 彼はグラリと足をよろめかせつつも、驚いた顔でこちらを見てきたが、それにも構わず、


「ゲンさんを、悪く言うなっ!」


 言葉を、ぶつけた。


「ゲンさんはちょっと悪く見えるかもやけど、小さい頃から、うちがいじめられてたら必ず守ってくれて! うちが悩んだときは一緒に悩んでくれて! うちが辛いときは一緒に泣いてくれて! めっちゃいいお兄ちゃんなんやっ!」

「――――」

「これ以上、ゲ、ゲンさんの悪口を言って見ろ! その時は、うちが……うちが……うぐっ……ひっぅ……」


 さらに続けようとしたところで、目の奥から溢れるものがあって、それ以上は言葉にならなかった。 

 感情が高ぶるとすぐに泣いてしまうクセ、高校生になっても治ってくれず、自分にとっては最も悪いところだとは思うが……もう、構うものか。

 泣き虫だの何だの言われようと、彼に何かを言わずには――


「ゆーちゃん、わかった。わかったからストップやで」


 居られない、と思ったところで、源斗が優しく肩を叩いて由仁の感情の暴発を遮っていた。

 次いで、


「鐘鳴、妹がすまんかった。オマエを叩いてしまったことについては、明日に謝るさかい、今は退いてくれんか」

「……否」


 源斗が冷静にこの場を納めようとするも、彼は頭を振って、



「大変、申し訳なかった」



「――――」


 源斗に向かって、深々と、こちらに向かって頭を下げていた。

 直立からの、腰が折れてしまうくらいの深さの、とても深い謝罪だったのに、源斗も、そして由仁も感情を忘れて瞠目した。


「新堂源斗。詠のことを心配するあまり、俺は大きな誤解をしてしまっていたようだ。先ほどの暴言の数々を、ここに謝罪する」

「お……お、おう?」

「そして……ええと」


 謝罪の途中で、彼がちらりと詠を見ると。

 詠は、彼がどうしたいのかを察したようで、


「お兄様。友達の、由仁さんです」

「了解した」


 その名前を聞いて、今度はこちらに向かって先ほどと同じく深々と頭を下げて、


「新堂由仁さん。キミの言うとおりだ。愛する家族を悪く言われて頭に来ないヤツはいない。そうとは考えずに、誤解でキミのお兄さんにひどいことを言ってしまった。申し訳なかった。この通り」

「あ……そ、その……」

「何より、家族を守ろうと感情を暴発させながらも、俺みたいな暴言を吐く男に面と向かって言いたいことを言う勇気に、大変感服した。俺はキミを心から尊敬する」

「えっ……!」


 真っ直ぐに、誠実に、彼は言葉を告げてくる。

 その一つ一つが心に刺さって、先ほどの彼への怒りから一転して、由仁は別の意味で身体が熱くなっていくような心地を得て。

 いつしか、涙は引っ込んで、由仁の中で別の感情がせりあがってきそうで――


「む……」


 ただ。

 その謝罪の後に、彼が顔を上げた際。

 彼の整った顔の鼻から、一筋の血がツツーッと垂れていたのには、


『……ブフッ』


 由仁も、そして源斗も、吹き出さざるを得なかった。彼には悪いと思いつつも。


「く……はっはっは! オマエ、しまらんやっちゃのう! いくらスカしたこと言ってても、鼻血出しとったら単なる三枚目やで!」

「うるさい馬鹿。こっち見るな」

「お、お兄様、今ハンカチを」

「構うな詠。こんなものは自分で……むう、胴着で来るのではなかった……」


 八方ふさがりで、鼻を摘みながらもちょっとしょんぼりしている。

 おそらく、彼は詠のピンチを誰かから聞いて、部活中にも関わらずに慌てて駆けつけてきたのだろう。

 そんな風になりふり構わず家族を大切にするところがとてもカッコよく見えて、そのわりに抜けているところが、ちょっと可愛い。

 そう思ったからなのか、


「うちが、拭きますよ」

「え……」


 また、すぐに由仁は行動に移った。先ほどに暴発した涙もその名残も、もうない。大丈夫。

 スカートのポケットからハンカチを取り出して、


「!」


 彼の顔を拭いてあげる。

 想定していたよりも彼の顔が近いのに、由仁は少し緊張してしまうのだが、そこは勢いだ。 


「えっと……叩いちゃって、ごめんなさい。反省してます」

「この件については全面的に俺が悪い。キミが気にすることではない」

「でも。やっぱり、ケジメを付けておかないと。うち、そういうのモヤモヤしたくないんで」

「……キミは優しい子なんだな」

「え?」


 その顔に付いた血を吹き終わったタイミングで、今まで感情に乏しかった彼の顔が緩んで。


「そんなキミが詠の友達になったのならば、これからも詠は大丈夫なのだろう。これからも妹と仲良くしてほしい。よろしく頼む」

「――――」


 柔らかな笑みが、由仁を正面から捉えていた。

 先ほどから感じていたように、カッコよくてちょっと可愛い、そんな彼の笑顔が、視界、いっぱいに――


「では、俺は部活があるので失礼する。手間をかけさせてすまなかったな」


 感じたのは、数秒も満たしていない。

 もう、彼の表情は、先ほどのような乏しいものに戻っているし、彼が踵を返した今は、直近に感じることも出来ない。


「詠、気をつけて帰るのだぞ」

「はい、お兄様」

「新堂源斗……は、まあどうでもいいか」

「ちょいちょいちょいっ。こういう出来事の後も、俺の扱いは相変わらずかいっ!」


 となると、彼の笑顔は、もうこれっきりか?


「――あ、あのっ!」


 そんなのは、ちょっと、いやだ。


 出来るなら。


 新堂由仁は、もっと、彼の笑顔を見たいと思う。


「?」


 だから、振り向く彼に、由仁は、


「お、お名前、教えてもらえませんかっ!?」 

「…………」


 もう少しだけ、彼に踏み込んだ。

 今はこれくらいが由仁の精一杯で、実際、彼は少し驚いていたようだけど。

 ややあって、


「そういえば、自己紹介をしていなかったな。鐘鳴かねなりけい。二年生だ」


 そのように、教えてくれた。


「由仁さん。改めて、詠と仲良くしてやってくれ」

「は、はいっ。お任せください、慧センパイっ!」

「む……?」

「そんで! 慧センパイとも仲良くしたいと思いますんで! その辺りもよろしくですっ!」

「…………あ、ああ」


 ほとんど勢いでまくし立てる由仁に、彼――鐘鳴慧は若干気圧された感があったものの、しっかりと頷いてくれて。


「では、今度こそこれにて失礼する」

「はいっ」


 こちらに背を向けて、最初にも感じたように隙のない足取りで去っていく慧の後ろ姿を。

 由仁は、ずっと見ていた。


「ゆーちゃん?」

「由仁さん?」


 源斗や詠が声をかけてきても。

 慧の背中が見えなくなっても。


「………………はぅ」


 由仁は、息をこぼしながら。

 その方角を見ていた。

 しばらく、ずっと、見ていた。

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