第2話

 あなたと出会う直前の私は、もともと気が弱い性質ではありましたが、あの頃は急激に人との距離のとり方がわからなくなっていたときでした。例えば、「なに馬鹿なこと言ってるの」。そう言って誰かが笑う。そんなの、あまりにありふれすぎた出来事です。その場で一緒に笑ってはみたものの、その夜眠れなくなり、私が馬鹿なら、あんたたちなんて大馬鹿者よ! と心の中で叫んでしまいます。しかしその叫びはただ自分に跳ね返ってくるだけで、なんの解決にもなりません。そういった瑣末な出来事を、にこっと笑って済ませることができたらどんなにいいでしょう。二十歳を過ぎてもそんな習慣が抜けないだなんて、あまりに不便です。やがて私は、自分はノイローゼなのではないかと思うようになりました。最近では、簡単な算数の計算すらしにくくなっているようでした。そこで相談相手に選んだのは、悩み多き学生のために学校側がプロの臨床心理士を雇って運営している学生のための相談室ではなく、友達の友達が話していた、よく当たる手相占いの店でした。

「あなた、けっこうくよくよするタイプじゃありませんか? 根に持つというか」

「逆に言うと、粘り強いともいえるんですよね。細かいことに気配りできるともいえる……、でも、今はそういうのが、裏目に出やすい時期なんだと思うわ」

 占いは、それなりに当たっているのでした。しかし今後どうすればいいかということになると、「あまり他人のことを気にしすぎないように」「運動をして心を解き放ちなさい」など、月並みな意見に留まります。満足できなかった私は、図書館で手相占いの本を借りると、自力での鑑定を試みました。その結果さらに心配ごとが増え、あれもこれもと気になって、ますます混乱していきました。

 そうはいっても、研究室くらい行けないとさすがにまずいだろうと思い、三月三十一日に、リハビリのつもりでお茶部屋へ行きました。四月一日だと失敗しそうな気がしたからです。そこにいる見知った人たちと話しながら、よしと思っていると、突然あなたが現れたのです。「誰、この人」と思ったものの、あいさつすらできません。あなたもただ、私を一瞥しただけでした。あなたが去った後、ほかの人に今の人は誰だかと尋ねると、四月から四年生として研究室に所属する人だけど、一年間休学していたので、入学年度は一年早い、ということがわかりました。ややっこしいやつが現れたと思いました。それがあなたとの出会いでした。

 翌日、人が多いと思いのほか緊張することがわかって早めに研究室へ行ったときのことでした。湯でも沸かそうと水道の蛇口をひねると、なんと水道水にさびが混じっているのです。部屋にはあなたしかいないようです。昨日誰かがあなたのことを「ダイちゃん」と呼んでいたので、おそらく名前がダイスケであろうことは予想がつきましたが、苗字は特に知りません。机に向かって何か作業をしているあなたを呼び止めるために、「ダイスケ君」と言わざるを得ません。男性を名前で呼ぶなんて、随分と久し振りのことで、それだけで緊張してしまいます。ほぼ面識がないせいでしょうか、あなたはよそよそしい態度で一声「はい」と言いました。

「あの、水道の水にさびが混じっているみたいなんだけど、大丈夫かな…」

 あなたは私をじっと見ると、「大丈夫だよ」と言いました。

「でも、みんな病気にならないかな……」

「よくあることだよ。朝はいつもそうなんだよ。少し流してれば透明になるから」

 私がまだ不安そうな顔をしていることを見てとったのか、あなたは「なるようになるさ」 と言い切り、明るく笑いました。

 私はあっけにとられていましたが、不思議と怒りは沸いてきませんでした。普段、こんな対応をされたら「失礼なやつだ」と一時間くらい頭に上った血が下がらなかったことでしょう。しかしそのときは、何故かそのことが、本当にとるに足らないことに思われたのでした。

 休学していたとはいっても、あなたは決して病んでいたわけではなく、バイトで貯めたお金で海外や日本国内を旅していたとのことでした。しかも、その後厭世的になるでもなく、気取るでもなく、平均的な日本の学生としての生活に復帰しているスマートな人なのです。同級生でありながら先輩でもあるという、複雑な関係ではありましたが、あなたはいつも穏やかな笑みを浮かべて「俺は本当は先輩なんだ」という態度を取るでもなく、「気にせず同期扱いしてくれ」とも言わず、人によって、ごく自然に接し方を変えられる人でした。そんなあなたといるうちに、みんなはそれぞれ、やや先輩扱いしたり、同期と同じ扱いしたり、ちょうどよい距離でもって接するようになるのです。特に人から好かれたいようにも見えないし、けっこうずうずうしいことも言っているのに、他人と衝突する気配はなく、いつも人に気を使いまくって、自分の思っていることは押さえ込んで、たまに言ってみては失敗する、そんな私とは大違いなのでした。

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