第3話

 ***



 さて少しは世の渡り方も覚え、のんびりと降りかかる話をかわしている間に、わたしもそろそろ本格的に行き遅れという年になってきました。


 家族はわたしが強情であることを知っており、半ば諦めている気配はあったものの、それでもやはりどこかの貴族と結婚はしてほしそうでした。

 家庭を持って安心させてほしい、というのが本音だったのでしょう。



 そしてその頃ちょうど、とある伯爵様とわたしはデートに出かける程の仲になっていました。

 彼は早くに結婚した妻を亡くしており、八歳の男の子が一人ありましたが、まだ三十を過ぎたばかり。

 社交界に出たばかりでしたら微妙でしたが、行き遅れの相手としては悪くありません。


 わたしも軽率な若者達よりはずっと彼が好きでしたが、結婚となるとやはり躊躇するものはありました。

 一つには、やはり相手に既に子どもがあること。

 もう一つが、結婚したなら夫人として振る舞わねばなるまいこと。


 その頃わたしは、実は雑誌のコラムニストとなっていました。

 本を多く読むうち、いつしか日誌をつけたり、自分の考えを書き付けることが増えていきました。

 その積み重ねを、ほんの気まぐれで送ってみたところ、是非執筆してほしいと依頼が来たのです。

 社交界では嫌がられたわたしらしさを肯定されたようで嬉しく、こっそり家族にも内緒で原稿を送り続けていたのでした。


 手紙を分けるのは執事の仕事であり、ミスタ・ドノヴァンは当然のごとくわたしの秘密の趣味に付き合ってくれました。

 代わりに原稿を出しに行ってくれたこともあります。

 時折雑誌を買ってきて、階下の皆の感想を聞かせてくれたこともあります。

 貴族のことや女性のことをつづったコラムは、なかなか好評のようでした。


 そして婚約を打診されたまさにその頃、雑誌の一ページではなくもっと多くのページを――つまりは一冊の本を出してみないかと、出版社からも提案があったのです。


 伯爵様は落ち着いた方で寛容な方ではありましたが、いささか古風な所もありました。

 趣味で本を読んだり自分で書いているだけならば目をつむってくれるでしょう。

 ですが夫人がコラムニスト――まして本を出すような事があれば、眉をひそめるような人でもありました。


 何しろ貴族とは、働かない人間達なのです。

 出版ぐらいでしたら許容してくれる人も皆無ではありませんでしたが、わたしの場合内容もよろしくありませんでした。

 脚色は加えていたものの、わたしの書き物はかなり事実を元にしていました。

 その上載せられていたのは大衆向けの雑誌です。


 もし全てを打ち明けたとして、寛容な彼はきっと、過去に書いていた事までは許せるでしょう。独り身の手慰みですから。

 ですが妻として母としてはどうでしょうか。とてもふさわしいとは言えません。

 自分に嫁いだ女性が執筆を続け、お金を受け取り続けることを許容してくれるほど、先進的な人ではありませんでした。

 まして家庭のあれこれすら執筆のネタにするなら、破廉恥だと激怒し、息子への教育についてこんこんと説教してくることでしょう。


 結婚か、それとも仕事か。


 この問題は二者択一で、両方を逃す可能性はあっても、両方を得ることは不可能でした。


 わたしは選ばねばなりませんでした。


 悩み、考え――そしてやはり人生の節目では、ミスタ・ドノヴァンを相談相手に選んだのです。


 出会って十年以上の年が過ぎ、彼はまだまだ元気でしたが、頭髪に混じり始めた白髪といい、少しずつ老いてもいました。

 それでも相変わらず高潔で丁寧な人物で、むしろ年を重ねるごとにますます洗練されていくようだったのでした。


 晴れた日でしたが、快晴というほどでもなく、散歩にいい気候でした。

 わたしたちは庭に出て、ベンチに腰掛けました。

 そこでわたしは長い時間をかけて、二つのどちらかを選ばねばならない問題について述べました。


「わたし――わたしは迷っている。伯爵との結婚は、もちろん不安もあるけれど。きっとこれを断ったら、もう機会はないわ。子どもも産めない……」


 子どもの話題がわたしの口から出てくるとは、自分でもいささか驚きではあり、一度言葉が切れました。


 手袋を嵌めた両手を何度も組み直して、わたしはどこか祈るように口元に手を当てました。


「結婚したら、わたしのささやかな時間はきっと、家族のための時間になる。多くの女性がそうして来た。わたしの番が来ただけかもしれない。けれど……後悔したくない」


 季節は夏から秋にさしかかり、風が心地良い昼間の木陰でした。


 ミスタはしばし考えていたようですが、やがてぽつりと切り出します。


「レディ。選ぶということは、選ばなかった方を失うということ。後悔は絶対にします」


 それは残酷な真実で、冷ややかにわたしの胸を打ちました。

 けれど冷静な納得がまた、腹に収まっていくのです。


「いろいろな考え方がございます。お聞きしている限り、レディの悩みは――おそらく、ご自分の未来のことではないかと愚考致します。レディはどのように生きていきたいのでしょうか。それが選ぶ決め手になるのではないでしょうか」

「ミスタ。前に、昔は結婚を考えた事があると言っていたわね」

「はい」

「そのときミスタは、どうして結婚を選ばなかったの?」


 ひょっとしたら答えてくれない問いかとも思いましたが、案外すぐ返事が戻ってきました。


「ほしかったのです。他人によるものでない、自分の自信が」

「……それは。手に入れられた?」

「はい」


 穏やかな口調でした。

 そしてそれはすとんとわたしの中に落ちて、探していた答えへの道筋を照らしました。


 わたしは勢いよくベンチから立ち上がりました。

 かつて体の内側の衝動全てに対して、正直であった頃のように。


「彼に連絡するわ。そして話す。……それでだめだと言われたら、すっぱり諦める」

「レディ――」

「別にあなたの話を聞いたから、真似をしようってわけじゃないのよ」


 くるりと振り返り、わたしはミスタに向かって微笑みました。


「わたしはわたしらしさがわからなかった、ベッドの中の子どもに戻りたくはないの。我慢して、結婚したらきっとまた、わたしらしさを家族や家の人間に求めるようになる。このわたしは、もう手放さない」


 すると腰掛けたままわたしを振り仰ぐミスタが、灰色の目を細めました。


「ご立派になられました、レディ」


 それは誰よりも何よりも、わたしに対しての賞賛であったのでした。



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