第14話 貴子は彼に
貴子は彼に声をかけてくれるが、真理子は貴子だけに話しかけている。外国人に取り囲まれてしまった彼、群衆の中でひとり毛色の違う彼、飛び交う言葉がまるで理解できない彼。しかし不快さはなかった。ころころと転がるような二人の声が、彼の耳に心地よさを与えていた。
五月の日差しは肌に悪いからという貴子の言葉で、山肌の木陰で食事を摂ることになった。
「三角おにぎりのつもりなんですけど……」と、真理子が初めて握ったというおにぎりが出された。「形が悪くてごめんなさい」というそれは、丸っこい形をしていた。
「お味はどう?」と問いかけられ、「うまい!」と何度も叫ぶように言いながらぱくついた。
満足げにうなずきながら、二人も頬張ったとたん「塩辛い!」と、目を白黒させながら声をそろえて言った。
「ちょうど良いって」という彼の必死の言葉に、真理子の警戒心がとれてきた。会社で、いつもぶっきらぼうな態度をとる彼だが、それが照れ隠しによるものなのだと知り、異性に対する恐怖心が和らいできた。
「合格! 男らしいわ」と、貴子が彼の手を取り真理子の手にかぶせた。突然のことに驚く二人だったが、互いの暖かさが伝わり合って笑顔が生まれた。「これは自信があるんですよ」というたまご焼きはふわふわとした食感が見事で、うんうんとうなずきながら食べた。
時計の針は、二時半を指している。貴子の希望で、南麓の岩戸公園口に下りることになった。こちらの道は彼にも初めてだった。こちら側の眼下にはビル群は少なく、二階建ての個人宅が多く見受けられた。国道沿いに車のディーラーやら銀行、そして飲食店がチラホラとあるだけだった。 少し行くと、小ぢんまりとした台地があった。貴子の提案で、時間も早いし腹ごなしも兼ねて散歩でもと言うことになった。彼に異はなく、真理子もまたすぐに賛成した。外に出た貴子が大きく深呼吸すると、真理子も並んで、大きく空気を吸い込んだ。とその時、強い風が吹き、二人の体が大きく揺らいだ。
咄嗟に真理子の背を抱くようにし、片方の手で貴子の腕をしっかりと掴んだ。悲鳴にも近い声を出した真理子だったが、強風に驚いた声だったのか、彼の対応に驚いての声だったのか、彼に分かるはずもなく真理子にもどちらだったのか判然としなかった。
帰りの車中では、ラジオから流れるメロディーに合わせて、二人がハモっている。貴子の一人舞台だった当初とは打って変わって、和やかな雰囲気が漂っている。緊張感を持って運転していた彼の心も、凪状態の海のように穏やかだった。心地よい疲れを感じつつ、彼は車のスピードを上げることなく走った。
河渡橋が見えてきた。あの橋を渡ればお別れだ。このまま時間が止まってくれれば、と思わずにはいられない。ふと気付いた。いつも車の出足の遅さに苛立ち隣の車と競争していた彼が、今は全くと言っていいほど気にならないでいる。ゆったりとした気分で走っている。勿論別れの時間を少しでも遅くしたいという気持ちはある。が、それだけではない。
なにに追われていたのか、信じていた者が離れていく、いや信じていた者に、ある日を境に嫌悪感を抱いてしまった。(どうしてぼくを信じてくれないんだ)。そんな思いが頭から離れない。
虚無感という言葉が、突如浮かんだ。孤独感と言い換えてもいい。そして、スピードという危険と隣り合わせの中に自分を置いていたことに気付いた。一瞬の気の緩みも許されない環境に、自分を追い込む。そうすることで、充実感を得ていたのかもしれない。しかし今は、充分に充足感に浸っている。
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