第7話 何度かセルモーターを
何度かセルモーターを回してみるが、一向に機嫌が直らない。キュルキュルという音が、空しく車内に響く。吸い込みの状態になってしまったと気付いた彼は、アクセルを二、三度踏み込んだ後に、改めてセルモーターを回した。
ようやく走らせることができたと思った瞬間に、またしてもエンストしてしまった。暗澹たる気分のまま視線を落とすと、ギアがサードに入っている。(これじゃ、エンジンが怒って当然だ)。舞い上がっている自分に対して「落ち着け、落ち着け」と小さく呟きながら、深呼吸を二度ほど繰り返した。
ラジオから、♪恍惚のブルースよ♪と、流行りの歌が流れてきた。ルームミラーの中には、まだ眉間にしわを寄せた貴子がいる。(外国の歌が好きだった)と思い出してボリウムを落とすと、ようやく険が消えた。普段ならば貴子から話しかけてくるのだが、彼が激しいドアの閉め方や乱暴なギア操作をしたことで(怒った顔に見えたかもな)と悔やむ気持ちになった。
昨夜のことだ。ひと月以上も前に別れを切り出された相手から「やり直そうか」と、貴子に電話が入った。なによ今さらと答えつつも、未練の気持ちがある貴子に異はない。「あの娘(こ)は連れてくるなよな」と詰問調に言われると、心内ではそうよねと納得しているのに「わたしの妹なのよ」と反発してしまう。キスもできないじゃないかと反駁されると、黙らざるを得なかった。激しい口論の末に、悲しみとも怒りともつかぬ思いが貴子の中に充満した。その思いが彼に向けられたものなのか己に向けられたものか、それすら分からぬままの朝を迎えた貴子だった。
とにかく少し考えてみるからと電話を切ったものの、真理子を一人にするわけにはいかないと考えてしまう。前の職場で受けた傷がまだ癒えていないのだ。二十代後半ばかりの女性社員の中にただ一人、十五歳の地方出身者の、初々しさいっぱいの少女が入った。男どもにちやほやされていい気なものよねと、妬(ねた)みの対象になってしまった。小さなミスを針小棒大にあげつらわれてトイレに駆け込む真理子だったが、甘えるんじゃないわよとしつこく追いかける女子社員すらいた。
鬱状態寸前まで追い込まれた真理子が助けを求めたのが定時制高校の女性担任であり、今は貴子となった。そんな真理子をこのまま突き放すわけにはいかない。といって貴子の私生活すべてを犠牲にすることはできない。そして思いついたのが、真理子に男友だちを作ることだった。
あの二人の初デートなのよと己に言い聞かせるが、どうしても胸に溜まったどす黒い澱が消えない。こんな気持ちのままでは久しぶりのお出かけを楽しむことは出来ない。派手な色の服でも着込めば明るい気持ちになるかもしれないと思う。しかしそれでは真理子がかすんでしまう。たぶんあの娘(こ)のことだから白いブラウスと薄いベージュのスカートだろうと思えた。突然に、昨年のとんでもない勘違い女に出くわした結婚披露宴が思い出された。新郎側の親戚だとかで、行き遅れてしまった三十代半ばなのよと聞かされた。冗談交じりの「披露宴で相手を探したら」という新郎の言葉で、大きく肩を出したフリル付きのドレス姿で出席した。新婦がかすむほどの深紅色に、出席者全員が眉をひそめた。そんな愚行を犯すわけにはいかない。(引きずっちゃいけないのよ。あたしのことなんだから、二人には関係のないことなのよ)。ドレッサーに映る己に言い聞かせて、唇に赤い線を引いた。
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