第3話 先日のこと

 先日のこと「配達の折に注文の一つも貰って来い」と言われた。(ジョーダンじゃない! その分の給料はもらってないぞ)と心内で毒付きながらも「はあ…」と生返事を返してしまった。(情けない)と己を責めるが、先々月に買ったコンポーネントステレオの月賦支払いがあり、今は辞められない。今朝の勢いは、すぐに溶けてしまうアイスキャンディーのようなものだ。

 いつもならば「ごくろうさま!」と返ってくるはずが、今日に限って何もない。鎌首をもたげて覗き込んだ。一望できる仕切りのない作業場には、誰も居ない。誰かしらが必ず居るのだが、どうしたことか今日は無人だった。部屋はだだっ広い空間で、壁には諸々の治具が掛けられている。ステンレス製の定規が長短あわせて五種類があり、ハサミも大きな裁ち鋏から小鋏まで七種類がある。製図用の横幅のある平机には三種類のアイロンが置いてあり、使い道の分からぬ小物治具が何種類かある。そして階段を上がりきった角に、彼の天敵であるパターンやらハトロン紙が置いてある。それらを車に積み込む折に、無造作に放り込んだところを主任に見咎められた。破れやすい紙類の扱いについては、特に扱いを注意するようにと、常々言われていた。それを怠ったと叱られたのだ。


 部長の受領サインを貰えば済むのだけれども、やはり待つことにした。岩田の言が頭から離れず、といって信じられないという気持ちもまた消えずにいた。昨日も一昨日も顔を合わせているけれども、岩田の言う素振りは一度として見たことがない。好意を持たれていると感じたこともない。だけど…と思ってしまう自分が情けなくもあり可愛くも感じる。

 仕方なく、窓から外の景色を眺めた。相も変わらず激しく渋滞しながら、車が行き交いしている。車の保有台数は、全国的にも多いと聞かされている。家内工業が多いせいだろうと、教えられた。だから運転には気を付けるようにと、毎日の朝礼で訓示される。(車が半分に減ったら、確実に事故が増えるぞ。減ることはないって。岩田は減ると言うけど、絶対に増える。、車が多いからこそスピードが出せないんだから)。そんなことを考えていると「ホント、車が多いわね。半分くらいに減ったら、事故も減るでしょうに」と、本田が近付いてきた。背筋に水が流れた直後のように背筋を伸ばして「そ、そうですね」と答えてしまった。

 何と言うことだ。実に情けない。裏腹のことを答えてしまったと、自分に腹が立った。しかも、卑屈にもうろたえてだ。昨日までは何も意識していなかった彼女の存在が、今はドギマギさせる。伝票にサインをもらうと、それ以上の言葉を交わすでもなく、そそくさと店を出た。

 本田は、美人でもなければ不美人というわけでもない。彼の好みかといえば、そうでもない。というより、彼には好みそのものがない。年齢は不確かだけれども、彼よりは上だ。といって年上はいやだ、という気持ちはない。彼にとっての異性は漠然としたものであり、実体がないのだ。

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