第2話

 風呂上りに髪を乾かし、まだ寝るつもりではないものの、一度ベッドに寝そべったら、そのまま起き上がれなくなった。あいにく手の届く範囲にスマートフォンも本も置いていないので、なにもできない。手持無沙汰ではあるけれど、この心地よい領域を出てまでなにかしようという気にならない。


視界に机が入る。私の机。これを買ったとき、店頭には針葉樹材のものと広葉樹材のものとがあって、奮発して一万円ほど高い広葉樹材の方を買ったのだった。ここに引っ越してきた当初は、この机があれば自分にもなにかできるかもしれないと根拠のない期待を抱きながら、日々わくわくしていた。しかし、結局のところ未だになにもできてはいない。いくらよい机があっても、使っている人になにもなければ、なんら生まれようがないのである。最近では半分物置きと化してしまった机を見ながら、私もまたなにも書けないままで終わっていくのだろうかと思う。彼女がそうであったように。


 そのとき、突然なにかが部屋の中に飛び込んできた。鈍い羽音は、そこそこ重量のある虫を思わせる。ゴキブリだったらどうしようかと恐る恐る確認すると、カナブンだった。


一瞬安心したが、歓迎できるものではない。なぜ突然カナブンが私の部屋に入ってきたのか。網戸に開いた穴をそのまま放置していたので、こうなるのは時間の問題ではあった。灯りに誘われてふらふらやってきたのだろう。カーテンは閉めているが、偶然体当たりしてみたらそこに穴があったのか、それとも穴を認識して飛び込んできたのか。とにかくなんらかの方法で、やつは穴を通過してしまった。そして今、ここにいる。最近暑すぎて蚊もへばり気味で、少しくらい破れていてもまあ大丈夫だろうと吞気でいたが、まさかこんな大物がやってくるとは、すっかり油断していた。この近所に生息しているカナブンは、薄い茶色で産毛が生えたものが多いのだか、今飛んでいるのは、メタリックな緑色のものだ。この辺りには、こんなものも住んでいたのか。そもそも、メタリックなカナブンと地味なカナブンとの生息地はどう違っているのだろう。それぞれどんな食糧を必要としていて、どんな場所で寝ていて、簡単に言えばどんな樹が生えていれば生きていけるのか。私には未知の世界だった。


 結局彼女のことだって、私はほとんどなにも知らないままだった。


高校生のとき、私たちは文芸部に入っていた。部誌を作るために定期的に職員用の印刷機を借りていて、ある日、顧問の先生につき添ってもらっていたときのことだった。「こういうの、全部読んでるんですか?」と何気なく尋ねてみると、「普通の雑誌と同じで、面白そうなのしか読んでないよ」との返答があった。顧問の先生といっても、普段は特に交流のない人だったし、概ね予想通りの返答だった。しかし、想像していたのと実際言葉にされたのとでは、やはり受け止め方は違った。きっと彼女の原稿は読まれているのだろうと思った。彼女は私より学年が一つ下だったが、その文章は、明らかに他の人のものよりも読みやすく、読み始めたら最後まで一気に読んでしまうものだった。ちょっと書ける高校生の域を出てはいなかったものの、ときには涙してしまうこともあったし、誰かに「これ読んでみなよ」と勧めたくなるようなものだった。一方私の原稿は、真っ先に読み飛ばされても文句の言えない代物だった。


 多くの部員にとっては趣味のようなものだっただろうし、今みたいにブログやSNSがあれば、あえて文芸部なんて入る必要はなかったのかもしれない。お互いが書いたものについて口出しすることもほぼなくて、ただ定期的に集めた原稿を印刷して冊子にして、淡々と配っておしまいだった。誤字脱字の確認は一通りあったものの、内容についてとやかく言われることはなかった。十代なんてそんなものだった。自分が干渉されたくないから人にも口出ししない、私にとっては、そしてまた他の人にとってもそんな日々だったのではないだろうか。


 そんな中で彼女だけは、正々堂々と自分をさらしていた。失恋したことなども、相手の本名すら出さないものの、臆せず書き続けていた。さり気なく見て見ぬ振りふりをされながらも、それでもみんな、しっかり彼女の原稿を読んでいることがうかがわれた。図書室にも置かれているので、部員だけでなく全校生徒に読まれる可能性があるというのに。そういうものにプライベートなことを堂々と掲載できるだなんて、私にはとても無理だと思った。文章の上手い下手以前の問題だった。私のように当たり障りのないことをさらにぼかして書いたところで、先生だけでなく他の部員にも読み飛ばされておしまいだった。それを知りながらも、結局私の書くものが当たり障りのない範囲から出ることはなかった。もし同じ学年だったら、我々はもう少し話す機会もあったのだろうか。十人近く部員がいた中で、私たちはそこまで親しいわけではなかった。


 大学に入ってしばらくしたころ、気づいたら、彼女はブログを始めていた。時折そのブログを見ながら、やっぱりこの人は違うんだなと思った。そのときは詩がよく書かれていたが、私にこんなものを書ける日が来るとは到底思えなかった。


 

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