-007

「――――あれ?」

 立ち眩みならまだしも、脚に全く力が入らないというのはいよいよ可怪おかしい。

 痛みは全くないから、骨折をしているわけでもあるまい。ならば神経の異常かと思ったが、そんな重症なら最初から気付かないわけがない。

「動かねぇ。何でだ?」

 イナは全く心当たりのない故障に首を捻るばかりの響に向かって、

「『何でだ』とは何でしょう。当たり前です。あれだけのことがあった後に無理はしないでください。」と言って、なおも立ち上がろうとする響の肩を抑える。

「あれだけのことって――――、何のことだよ?」

「まさか昨日の夜のことを、忘れたわけじゃないでしょう、マスター?」

 イナは小首を傾げたまま、じっと響の目を見詰める。

 斜めにかしいだその碧い双眸に、微かな冷気が差したような、そんな気がした。

「何を……、言っているんだお前は?」


 ――――いや、違う。


「あれ、本当に忘れてしまったんですか?」

 少女は身を乗り出して、再び顔をぐっと寄せてくる。

 今度の響には、本当にその視線から逃れる手段は無く、正面から彼女の眼を見詰めることになる。最初の時はただ綺麗だとしか思わなかったが、改めて見てみると彼女のそれは明らかに異様だった。つまり、彼女の眼は――――、光を吸収して視覚を成すはずの眼は、それ自身が内側に微かな光を宿しているのだ。

 やおら耳元に放たれた甘やかな囁きは、しかし脳を震わせるほどの衝撃を以って鼓膜を揺るがした。

「マスター、ついさっきまで死んでいたのですよ。」

 そうしてその瞳の中に宿る青色を覗き込んだ瞬間、ふっと意識が抜けそうになるのを感じた。

 朧だった記憶のピースが、カチカチと、示し合わせたようにあるべきところに嵌ってゆくのが聞こえる――――、見える。


 破壊の限りを尽くされた街並み。

 巨人の如く立ち昇る黒煙の柱。

 そして、世界の終わりのような青。


 青。


 ――――青。


 世界の終わりのような――――、青。


「マスターは、あの時確かに死にました。――――では、ここに存在する、確かに同じ形をした人間は、どのようにして現れたのでしょうか。――――一体誰なのでしょうか。」

 その声音が何処となく嬉しそうなのは気のせいだったろうか――――

 響はしゃがれた声帯を引き摺って辛うじて聞き返す。

「――――お前は、何なんだよ。」

 最初と同じ質問。

 最初は答えてくれなかった質問。

 少女は身を引くと、姿勢を正し、一つ礼をした。

「私は、イナと申します。そして――――、元、天使です。」

「元――――、天使?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る