-006

「退いてくれ。」

 イナはきょとんと眼を丸めて、

「それは私に言っているのですか。」

「お前以外に誰が居る。お前が俺の脚の上に座っていて動けないんだよ。」

「しょうがないですね。」

 イナはそこでようやく身を浮かせて、脇に退いた。

 開放された響はベッドの端に座り直し、何か探し物でもするかのように忙しなく部屋全体を見回す。

「どうかなさいましたか、マスター。」

「今って何時か分かるか。」

「さぁ。この部屋には時計が御座いませんから。」

「やっぱりそうなのか。」イナの答えを聞いた響は立ち上がり、窓の方へ向かおうとする。空の様子を見れば何となく現在時刻も掴めるだろうという予測があったのだが――――、しかしその行動が叶うことは無かった。


 立ち上がった、と思った次の瞬間には、もう身体が沈んでいた。

 胃が引っ繰り返るような酷い吐き気と共に、響の身体は見る見るうちにバランスを崩し、あっという間に――彼の体感的には酷くゆったりとしたものだったが――頭から倒れてゆく。緊急事態に気付いて何とかその場に踏みとどまろうとしてみても、まるで全身に毒が回っているようで、脚を出すどころか、手で床を突くことすらできそうになかった。貧血かと思ったが、それにしては遥かに容体が悪い。

 そうこうしている内に、瞬く間にもフローリングの床が近付いてくる。

 来るべき衝撃に備えて、響はじっと目を瞑った。


 ――――しかし、訪れた衝撃は想像よりもずっと柔らかなものだった。


 柔らかく――――、暖かい。

 それに甘い香りがする。

 心が温かくなるような、甘い香り。

 一体何が起きた。

 白飛びした頭ではそれ程の思考さえままならない。

 とりあえず顔面から無様に倒れるようなみっともない惨事は避けたらしいことだけは分かっていた。


「駄目ですよ、マスター。貴方は安静にしていないと。」

 

 触覚、嗅覚に続いて、まるで耳に入った水が抜けるような感じで聴覚が戻ってくる。未だ痺れるような感覚の中、薄らと眼を開くと、すぐ其処に、またまたあの青い両眼が待ち構えていた。

「えっと…………?」

 数秒遅れで、響はようやく現在自分が置かれている状況を理解した。

 つまり、響はイナの胸の中に受け止められていた――――、がっしりと。

 いやもうで圧縮されているみたいにがっしりと。


「――――ッ⁉ イッダァア‼」

「あっ。申し訳ありません。」

 ぱっとイナは無造作に腕を開く。自然、響の身体はベッドの上へと乱暴に放り出されることとなった。腕の痛みだけでもう涙が出そうなレベルだったが、それよりなにより、非常事態とは言え倒れそうになったところを自分より年下の少女に助けられたというのが情けなくてしょうがなかった。

 そんな気恥ずかしさを隠すように、あえてぶっきらぼうな口調で響は、

「ったく、その細い腕の何処にそんな力があるんだよ。」

「それより、お身体は大丈夫ですか。」

「大丈夫だよ。ちょっと立ち眩みがしただけだ。」

彼は一つ大きな溜息を吐くと、気を取り直すように改めて立ち上がろうとする――――が、今度は立ち上がるより前に脚に全く力が入らなかった。

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