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「ご理解頂けて喜ばしい限りです。なら、私からも一つお願いがあるのですが宜しいですか。」

 また大仰な敬語を重ねて、彼女は問う。

 彼女は、淡雪の最も透き通るところだけを瞼に乗せたような睫毛の向こうから、じっと響の瞳孔を見詰めてくる。まるで心の内さえ見通してしまいそうな透明な瞳の、思いがけない迫力に気圧されて自然と響は視線を少しずらしていた。

「何だよ。」

「『お前』ではなく、名前で呼んでください。私の名前はイナです。」

「……なんだ、そんなことか。」

「そんなこととは酷いです。ならば私もマスターのことを『何某なにがし』と呼びましょうか。」

「そりゃ代名詞としての役が違い過ぎないか…………」


 ――――一周回って、むしろ呼称としては斬新で格好良いまである。


「つかそもそも、俺だってマスターだなんて名前じゃねぇんだけど。俺にも天野響っていうちゃんとした名前があるんだわ。イナちゃんよ。」

「そうですね。呼称を改めてくださってありがとうございます、マスター。」

「お前は呼び方変えてくれんのな。」

「マスターはマスターです。」

「…………もういいよ。」

 半ば投げやりに響は問答を締めると、今度は今居る部屋の様子に目を向ける。

 遊びの無い四角い部屋。広さはおよそ二十畳程もあり、全体的に意匠が少なく質素というか地味である。東の方角には大きな窓が設えられている。外の様子を窺うことはできないが、構造からして議会派区域のマンションの一室であろうことは推測できた。

 正面をみるとまず、響の背丈ほどもある大きなイーゼルが置かれていて、その上には書きかけの油絵が放置されている。近辺の床は様々な色の絵の具でカラフルに彩られており、中にはまだ乾かないような、新しい汚れもあった。どうやらすぐ直近にも誰かがそこで絵を描いていたようである。

 部屋の端角には、大きな棚が一つあって、ハードカバーの洋書や、絵の具類、大小様々な無地の箱が、雑然と山積みになっており、今にも崩れ落ちてしまいそうな、絶妙なバランスを保っている。どうも、この部屋の持ち主は、結構大雑把なところがあるらしい。

 今響が横たわっている酷くベッドに関しても酷く貧相なものだった。マットレスもシーツも掛布団も、一般的に売られているものより一回り薄く、長く使い込んでいるのか皴が目立つ。しかし、不潔であるという印象はなく、どちらかというと愛用のものといった感じであった。

 部屋の家具はそれだけだった。机、椅子、棚、ベッド、イーゼル、ランプ。それ以外には、時計も無ければテレビもない。生活空間というよりも、絵を描くためのアトリエといった趣が強いらしい。

「――――ここは何処だ。お前の家か?」

「お前とは誰でしょう。『何某』さん。」

「……ここはイナ様のご自宅でしょうか?」

 響の引き攣った頬を見ながら、イナは寧ろどこか満足そうな顔をして、

「いいえ。倒れていたマスターを、もう一人の女性――――、霊華さんと私の二人でここまで連れてきたのです。」

「その霊華って奴は今は居ないのか。」

「はい。先程買い物に行きました。」

「じゃあ、すぐに帰ってくるんだな。」

「恐らくは。」

「そうか。」

 嘘は吐いていなさそうだった――――、正確には、終始無表情だった少女からは全く感情が読み取れなかったが、少なくとも敵対しているような雰囲気でもないから、とりあえず信じることにした。

 霊華という人がどれほど遠くの店まで行ったのかは分からないが、買い物程度ならそれほど長く掛かることは無いだろう。現状何から何までさっぱり分からないのだから、それまでの間に少しでも今の状況を把握するのが良いだろう。

 幸い、考えることは山ほどあった。

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