No.1 - アトリエ① - 第一教区 六月十一日 五時二十四分

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《第一教区 六月十一日 五時二十四分》



 ――――知らない天井。


 薄暗く、静かなマンションの一室で、天野あまのひびきは目を覚ました。

 未だ覚束おぼつかない意識の中、ぼうっと浮かび上がった部屋の様子には全く見覚えが無い。半睡半醒の脳はまともな思考回路をさず、まるで羽毛の海に溺れるような、フワフワとした感覚が頭を支配している。何か大事なことをしていた気がするが、それが一体何であったのかが全く思い出せない。彼は一〇〇年分の眠りから覚めたミイラの気持になって、緩くとざされたカーテンの隙間から差し込む葵色あおいいろの日溜まりの中に、微細なホコリの群れがふわふわ戯れているのを何とはなしにっと見詰めていた。


 ――――あぁ、頭が痛い。


 まるで蟀谷こめかみを万力で締め付けられているような、酷い頭痛。それも意識がハッキリしてくるにつれて、段々酷くなってきている。思わず右手で側頭部を押さえつけると、じっとりとした汗で濡れていた。嫌な汗だった。

 喉の渇きも限界だ。口の中がカラカラで、舌の上に嫌な苦みと僅かな鉄の味がべったりと貼り付いている。喉の奥の方はもっと悲惨で、皮膚を引き裂いてしまいたい程の掻痒感そうようかんが、粘膜の表面をずっと這い回っていた。

 おまけにどうも身体が重い。脱水症状に陥っているらしいのはすぐに分かった。水でもお茶でも何でもいいから、早く水分を摂取しなければならないと本能が声高に告げていた。

 響は思うように動かない身体に鞭を打って、何とか身体を起こす。

 そうして、まず最初に〝そこ〟にあったのは、視界一杯に広がる青い眼だった。


 ――――青い眼。


 そう。眼である。人間の顔に二つ付いていて、球形で、人によって様々な色があり、脳に視覚情報を与えるアレのことである。しかし、その時の響は、それが余りにも唐突で、予想外で――――、そして美しかったので、それが、自分の顔を鼻先で覗き込む人間のモノであるという簡単な事実に意識が及ばなかった。


「――――おはようございます。」


 まるで雪解け水の冷たさを思わせる不思議な声――――、それが鼻先の触れあいそうな距離で、甘やかな吐息を伴って発せられる。ともすれば、余りに澄み渡った響きに黙って聞き入ってしまいそうなものだったが、その時彼はビクリと肩を跳ね上がらせ、慌てて身を反らせた。


「――――は⁉」


 彼は一気に現実へ立ち返ると、咄嗟とっさに目の前の人物を突き飛ばそうとする。しかし、その為に改めて相手の姿を眼に捉えた瞬間、彼の腕はそのままうんともすんとも言わなくなってしまった。つまり、天野響は、露になったその挨拶の主の姿から――――、目を離せなかったのである。

 その少女は自分の両肩をひしと握りしめる少年の顔を、無機質な表情でっと見詰め返していた。

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