第3話 東京はショッピングモールですか?
「机と椅子と……あとなにが必要なんだい?」
「机も椅子もリビングで勉強させてくれればいらないわ」
「それなら……ウーン……なにか……必要な物ってなんだ……? 犬でも飼うか?」
「六階にもトイレとシャワールームがついている。私もヒロも使わないようにするから好きに使いなさい」
私は目を伏せて「はぁ」と返す。気恥ずかしかったからだ。絶海さんは「昨日きみを案内しなかったのは、前に入り込んできた女性のものが残っていたからだ」と苦笑した。
「え? 入り込んできたってなあに?」
「私は昔からストーカーに遭いやすくてな、勝手に荷物を持ち込まれるというか、寝てる間に同居人が増えているというか……気がついたら世話されてるというか……」
「怖すぎるんだけど、えっ、怖すぎるんだけど⁉」
「だから戸籍が勝手に移されても、マアそんなこともあるかというか……」
「それは本当にうちの母がごめんなさい」
「マア、きみがいる間は同居人が増えないように努める」
「努めてなんとかなるものなの?」
絶海さんは目を伏せて少し黙ったあと「ヒロがなんとかするだろう」と全部ヒロさんに押し付けた。私は絶対にヒロさんと連絡先を交換しようと決めた。私を保護してくれるとしたら恐らくこの人ではなくヒロさんだ。
「朱莉、欲しいものはあるかい?」
「……参考書と文房具が欲しいわ」
「わかった。じゃあ本屋に行こう。大きい書店の方がいいだろうか?」
「大きい書店ってなあに?」
「……佐渡島に書店はあるのかな?」
「あるよ! 馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にしたつもりはないんだが……マァ、歩くか。おいで、朱莉」
絶海さんが私の肩に腕を置いて私を引き寄せた。
絶海さんは全身黒づくめのフォーマル、私は中学で買ったダッフルコート。はたから見たら私たちはどんな風に見えるのだろう。……ヤクザに襲われている中学生だろうか。それは否定ができない場面である。
「絶海さん、私一人で歩けるわ」
「私が歩けない」
サラっとそんなことを言われては肩に置かれた腕を振り払いにくい。私が顔を歪めると絶海さんは楽しそうにクククと笑った。
「そんなに私に触られるのは嫌か?」
「絶海さんだから嫌というわけではないの。ただ、……適切な距離があると思う」
「介護だと思って我慢してくれ。私は道中寝ない自信がない」
「なにかの病気?」
「……出不精なんだ」
「病気じゃないわ、それ」
そんなことを話しながら人形町を歩く。
個人商店や喫茶店やアンテナショップを横目に絶海さんはどうやら東京駅の方に歩いているようだ。いくつか書店はあったのだが絶海さんは足を止めない。
「どこに向かっているの?」
「東京駅の前に八重洲ブックセンターという大きな書店があるんだ。あそこに置いてない本だったら神保町だな」
「そんな大きい本屋さんがあるの? ありがとう、すごく楽しみ」
「ウン、……あのあたりまで歩けるようになればなんでも揃うよ……きみは春休みの間にこの街を散歩したらいい。面白いものはたくさんある。あとでカードを渡すから好きに使え……私でも、ヒロでも、付き合わせて、……いいし……」
言葉が途切れ途切れになっている。絶海さんを見上げるとその目が眠たそうに細くなっている。「えい」とその腹に肘鉄をいれると「グフッ」と彼は呻いた。咎めるようにこちらを見られたので「起きた?」とシレっと聞くと、絶海さんは「きみはひどいやつだ」と言い出した。
「もう少し優しくしてくれ。さすがに痛い。きみの肘は私の鳩尾だぞ」
「優しくしたら寝そうじゃない。私、ここで絶海さんに寝られたら困ります。引きずって歩けって言うの?」
「それは……でも、肘鉄じゃなくても……」
「そもそもヤクザに優しくする一般市民っているかしら?」
私の物言いに絶海さんは拗ねるように唇を尖らせた。
「元だ。私に前科はない。カードだって持てる一般市民なんだよ?」
「一般市民は背中を水槽にしません」
絶海さんは目を丸くした。なにか驚くようなことだったろうか。私が首をかしげると絶海さんは首の後ろを擦った。
「……綺麗じゃなかったか? 私はあの鯉を手に入れられるなら、死んだっていいと思ったんだ」
私は少し考えてから「怖いわ」と正直に答えた。絶海さんは「そうか……」と寂しそうに言った。その様子が本当に寂しそうだったので「でも色がとっても鮮やかで、綺麗だった」と付け足すと、「ウン」と彼は笑った。
十五分ぐらい歩いて着いたところにあった本屋はショッピングモールみたいに大きくて広かった。「こんなにたくさん本の中からどうやって選んだらいいのかしら……」と呟くと、絶海さんは「部屋に入る量にするんだよ」となんの参考にもならないアドバイスをくれた。
「予算の上限は?」
「好きにしなさい」
私はそこで『こんな高い本は駄目だろうな』と参考書の間に深海魚の図鑑とAI入門本をいれたのだが、絶海さんは気にした様子なくすべて買ってくれた。しかも「文房具がほしいんだろう? ここでも買えるよ。ほら、豆腐の形をした付箋も売ってる」と独特のセンスで私と一緒に文房具も選んでくれた。
「このファイルも可愛いんじゃないか? 猫の瞳がキラキラしていて……女の子のものはよくわからないな……あ、豆腐のファイルもあるぞ? 豆腐はうまいよな……」
絶海さんはそんなことを呟きながら豆腐の付箋をカゴに入れた。それから「こんなのもあるぞ?」と次から次への文房具を手に取って私に見せてくる。
「……もしかして、私、甘やかされてる……?」
絶海さんは手を止めて私の顔を覗き込んできた。
「嫌なのかい?」
「嫌じゃないけど申し訳ないわ。家に置いてくれるだけで本当にありがたいのに……」
「ふうん」
絶海さんは猫と豆腐のファイルを見比べて、結局豆腐をかごに入れた。そしてそれ私が使うんだろうか……確かに豆腐はおいしいけれど……。
「このぐらいの甘やかしにはさっさと慣れるといい。きみはまだまだ甘やかされるべき年だ。……お母さんと別れて不安だろう?」
「来た時はそうだったけど、今はそんなに不安じゃないわ。絶海さんは私のこと殴らないから」
「殴る? 私がきみを? ……あり得ないな」
「でしょ? 桜川の家では理由なく殴られるから、ここの方が安心」
桜川はしつけが厳しい。
成績や言葉遣いや立ち振る舞い、すべてのことに規則があるのだ。しかし私はその中のいくつかの規則を守らなかった。何度殴られても理解できないものは覚えられないし、道理が理解できないなら従うことはできない。それを貫いてきた。そのおかげで今じゃ桜川のおじいちゃんも呆れた顔で「朱莉は仕方ないなあ」と頭を小突くだけになった。
そんなことを思い出したら少し寂しくなった。
後三年は帰れない私の実家だ。……思い返すとやけに広い日本家屋だったし、やけに監視カメラが多かった……いや、それでも私の実家だ。思い出すとホームシックになる。
スン、と鼻を鳴らしてから、目の前にあったボールペンを手に取る。
「……あ。これ可愛くない? 細いから手帳とかに挟めそう……絶海さん?」
返事がないことに違和感を覚えて振りかえると絶海さんは無表情だった。全く感情がない顔だった。初めて見る顔だ。彼は表情なく、言葉なく私を見下ろしている。なんだろうと首をかしげると、ようやくその唇が薄く開いた。
「……俺が、手放さなければ……」
「なあに? なんていったの?」
絶海さんが急に私を抱きしめた。
「えっ! ちょっと、……」
「つらかったな」
「え?」
妙な勘違いをされてるとわかったが絶海さんがスンと鼻を鳴らしたので黙った。こんな大人の男性に泣かれても慰められる気がしない。絶海さんは「ごめんな」と何故か謝った。その声が震えていたから「いいのよ」となにもわかっていなかったけどそう返した。
絶海さんは私を抱き締めるのをやめると、優しく微笑んだ。
「帰ろう、私たちの家に」
「え、あ、はい? あ、はい?」
彼は私の持っていたボールペンをカゴに入れて、私の手を握ったまま歩き出した。その手が冷たくて「ひやっこい」と言えば、私の手ごとコートのポケットに入れられた。手を離す選択肢はないのだろうかとその顔を見上げると、真顔だった。離す気はなさそうだ。絶海さんはたくさんの豆腐の文房具と細いボールペンを買ってくれたあと、本屋を出て、家に向かって歩き出した。
「ねえ、絶海さん」
「なんだい?」
「……絶海さんのおうちに紅茶ある?」
私の質問に絶海さんは目を丸くして、それから笑った。
「うちはコーヒーしかない。……銀座寄るか。もう少し歩けるか? 足は痛くないか?」
「はい、元気です」
「じゃあ歩こう。歩いている内に道も覚えるさ」
その後絶海さんにつれられて銀座を闊歩し、紅茶専門店でティーカップと紅茶とお茶菓子として鳥の形をしたクッキーを買った。「ついでだから」と絶海さんは私にワンピースも買ってくれた。試着のときに「お姫様か?」と言われたときはこの人ヤバイなとは思ったが、店員さんも「天使みたいですねえ」なんて言うのでもうなにも言えなかった。
そうして結局絶海さんは私に一円も払わせてくれなかった。
「ほら、朱莉、手」
「ほらって……」
「慣れなさい」
「既に慣れてきてるのが怖いのよ」
「それはいい。いい傾向だ」
絶海さんは私の手を握ってポケットに入れると、満足そうに笑った。
家に帰ると家の前にトラックが止まっていた。
「あら、なにかしら」
何人かの男性が荷物を運び出した。何事だろうと思っていると家からヒロさんが出てきた。彼はあの海亀の剥製を抱えていた。
「あ、若、朱莉ちゃん、おかえりなさい! 今業者に荷物だしてもらってます。全部売っちゃいますけどいいですね?」
「ああ。……いや、待て、朱莉。海亀叩いておくか?」
突然のフリにどう対応すべきだったのかわからず、とりあえず絶海さんに言われた通り、ヒロさんの抱えていた亀を叩く。ぺん、と鳴った。ちょっと楽しかった。絶海さんはそんな私の顔をのぞきこんで「楽しいか? 亀はとっておくか?」と言い出した。
「いらないわ。邪魔でしょ」
「そうか……ヒロ、全部処分してくれ」
何故か絶海さんは少し落ち込み、ヒロさんはケラケラと笑った。
「今日中に上は空けられそうです。でもベッド入れるのは明後日ぐらいですね。……すいませんね、朱莉ちゃん。俺がちゃんと事前に準備しておけばよかったんだけど、聞いたのが一昨日だったもんで……」
ヒロさんが申し訳なさそうに頭を下げるので慌てて「大丈夫だよ」と止める。こっちは置いてもらえるだけでありがたいし、そもそも悪いのはお母さんだ。私の言葉にヒロさんは頭を下げるのをやめると、不審そうに目を細めた。
「つーか若はなんで朱莉ちゃんと手を繋いでいるんですか? パッと見援交ですよ」
「私が朱莉の手をとることに理由がいらない。父親だからな」
「若がそれで楽しいなら俺はそれでいいですけど……とにかく、おかえりなさい。家入りましょう」
私たちは荷物を運び出してくれている人たちの脇を通って家に入った。
キッチンで買ってきたものを机に出しているとヒロさんは「参考書ばっかりこんな買ったんですか!」と驚いたように声をあげた。
「もっと女の子みたいなもん買ってあげたらよかったのに!」
「女の子みたいなもんってなんだ?」
「そりゃ少女漫画とかメイク道具とか! あ、でもワンピースは可愛いっすね。お嬢さんみたいで……待ってください、若、これ、値段……ゼロの数おかしくないすか……」
震えているヒロさんを無視して絶海さんは私の頬をムニムニとつまむ。
「朱莉はメイクするのか?」
「したことない。した方がいい?」
絶海さんは「世界で一番可愛いからしなくてもいいと思うが、したいならしたらいい」と真顔で言った。思わずその手を引きはがしてしまった。
「朱莉?」
「気色悪い……」
「気色悪い⁉ 今、私のことを気色悪いと言ったか⁉」
「朱莉ちゃんは絶対メイクした方がいいですよ! 元が美人さんだからさらにあか抜けちゃいますよ! 高校生なんだから色々やってみてくださいよー」
「あはは、ありがとう。ヒロさんはお上手ね……」
「朱莉!」
絶海さんが咎めるように私を睨んできたので、その目を睨み返すと「なんでヒロは気色悪くなくて私は気色悪くなるんだ?」と彼は悲しげに眉を下げた。
「……温度が……」
「温度?」
「マジっぽくてマジでキモい」
絶海さんはダイニングチェアに腰かけると顔を伏せてしまった。どうしようこれと思いながらヒロさんを見ると、彼は両手で口をおさえて必死に笑いをこらえている様子だった。
「ヒロさん、なんでこの人すぐ拗ねるの?」
「ヒッ……やめてください! 笑っちまう! フハッ……」
「……絶海さん」
笑い転げるヒロさんを無視して絶海さんに声をかけると、絶海さんは少しだけ顔を上げてちらりと私を見上げた。そんなあざとい仕草が似合うのはこの人がイケメンだからだなと思いつつ、その目を見返す。
「そんなに可愛がらないで。私もう十五歳なの」
「その年齢になんの意味がある?」
「もう子どもじゃないのよ」
「まだ子どもだ。それに今までずっと可愛がりたかったんだ。……やっとその機会がきたんだから、好きなだけ甘やかしてなにが悪いんだ?」
「じゃあ……なんで今までそうしなかったの?」
私が首をかしげると絶海さんが顔を上げて苦笑した。
「私はヤクザだったからね。危ないだろう、そんなの……」
「ヤクザよく知らないからわからないわ。ヤクザって具体的になにしてるの?」
絶海さんはぴたりと動くのをやめた。ヒロさんもぴたりと笑うのをやめた。
「……え、ふたりともなにをしていたの?」
ふたりともたっぷり黙ったあと「『あれやこれや』していたな」「そうですね、『あれやこれや』です」と言い出した。
「『あれやこれや』ってなんなの? 危ないの?」
「『あれやこれや』と危ない」
「違法なこと?」
「前科はない」
「捕まってないってだけ?」
「これ以上は弁護士を通してもらおう」
「誰なのよ、弁護士!」
「あ。顧問弁護士は俺です」
「ヒロさんなの⁉」
コントのような流れについ笑うとヒロさんもケラケラと笑った。絶海さんだけは気まずそうに襟を正した。
「とにかく今はもう……私には遠慮する理由がない。好きなだけきみを可愛がられる。だからきみは好きなだけ私にたかればいい」
「たからないよ! なに言ってるのよ、もう……」
私が笑うと絶海さんは眩しそうに目を細めた。
「変な人ね、絶海さん」
「……マア、気色悪いよりマシだな……」
絶海さんは眉を下げて苦笑した。
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