第2話 東京は冬眠しますか?
しこたま良い肉を食べたあと、ヒロさんが私たちを
「人形町ってもっと古いのかと思ってた。新しいビルなのね」
「通りが広いところは大方建て直されているよ。マア、木造は火事があれば燃えるからね。……江戸の華と言えば?」
「火事と喧嘩ね。……なるほど、古い家は燃えたの?」
「木造の方が火事の時は好都合だよ。今の日本の法律では半焼じゃ保険が全額下りないからね……鉄骨で全額おろすには爆弾でも仕込まないと……」
そんなことを話しながら絶海さんは一歩その家に入り、それから振り返り「おかえり、
ビルの一階は雑貨屋で人に貸しているらしい。二階は喫茶店で絶海さんがマスターをしているそうだ。その一階と二階とは別の入り口から入ることができる三階、そしてそこから上が絶海さんの居住地となっているらしい。三階には水回りやキッチンがあり、四階には絶海さんの部屋と物置と「きみにはここを使ってもらおうと思うんだが……見てわかる通り整理できていない」という部屋があった。その部屋は絶海さんの言う通り全く整理されておらず、壺や棚やよくわからない絵やとにかく様々なものが積まれていた。
私は近くに転がっていたものを指差す。
「絶海さん、これはなあに?」
「……海亀の剥製だろうな」
「なんでこんなものがあるの?」
絶海さんは気まずそうに襟を直す。
「ここに引っ越してきたときに前の家にあった荷物をどうしたらいいかわからなくて、とりあえず上の階から突っ込んでいったんだ。だから五階も六階もこの調子で……」
「もしかして絶海さんって家事苦手?」
絶海さんは困ったように眉を下げて「私に生活力はないらしい」と言い出した。
「まあ部屋の準備は明日ヒロに頼んでおく。とはいえ、さすがにこの部屋を使えるようにするには三日はかかるだろう。それまでは私の部屋を使いなさい」
「そしたら絶海さんはどうするの?」
「もちろん私も私の部屋を使うが? なにか問題が?」
「えっ問題しかないんじゃない……?」
「なんの?」
しかし絶海さんは当たり前のように私の荷物を彼の部屋に入れてしまった。
「……お邪魔します」
絶海さんの部屋にはキングサイズのベッドと着物かける衣紋掛け、オープンクローゼットには数着の洋服、それだけしかなかった。
「絶海さんって……彼女はいないの?」
「特別な人はいないよ」
「子どもは?」
「どこかにいるかもしれないが聞いたことはないな」
「……ロリコン?」
「違う。何故そんなことを聞くんだ?」
絶海さんはそんなことを話している間にバサバサと着物を脱ぎ下着一枚になってしまった。服を着ているときからわかっていたけれどその体は筋肉質で、ボディビルダーまではいかないが一般人とも思えない肉体だった。
そうして背中に『鯉』がいた。
「嘘みたいにまじのヤクザの背中ね……」
「難しい日本語を使う子だな……。朱莉も楽な格好にしなさい。私は眠る。なにかあったら起こしてくれ。起きる自信はないが……今日は疲れた……」
絶海さんは下着のまま布団に入り込み、うつ伏せに寝転がり、フ、と息を吐いて目を閉じた。その呼吸はすでに眠っている人のものだった。
「そんなすぐ寝ることあるかしら? ……えぇ……本当に寝ているの……?」
その腕をつついてみたが全く反応がなかった。どうやら絶海さんは秒で寝れる体質の人らしい。
私は絶海さんの脱ぎ散らかした着物を衣紋掛けにかけてから、自分のコートを脱ぎ、絶海さんの言う通りに楽な格好代表であるパジャマに着替えた。
「まだ五時ね……」
寝るには早いはずなのだけど、私も疲れているのかもう眠たくなってきた。
「……うーん、……絶海さんって、……どんな人なんだろう……」
部屋の隅に座って、ぼんやり絶海さんを見る。その背中は眠っている人の動きをしている。
「……うーん、……ベッド大きいし……もう起きないみたいだし……いいかしら? ……いいわ、怒られたら謝ろう」
部屋の電気を消してからそっと絶海さんの隣に潜り込む。
目を閉じると絶海さんの匂いがした。いい匂いだ。多分お香の香り。なんだか懐かしい、前にもこの匂い嗅いだことがある、そんなことを思っている間に私も眠っていた。
……夢を見ている。
私はなにかを叩いて笑っている。ぺしぺし、べんべん、楽しい、楽しい。そんな私のおなかに誰かの手がまわってきた。
『やめな』
誰かが私を抱き上げてその膝の上にのせる。見上げても顔はよく見えない。
『亀は太鼓じゃないぞ』
その誰かがクスクスと笑う。私はその笑顔が好きできゃっきゃっと笑う。いつものことだ。だって、いや、――この人、いったい誰だったかしら――
「うわあ⁉ 同じベッド寝てるって……どういうことですか! あんたはさすがに店のソファーで寝なさいよ! 相手は年頃の女の子ですよ⁉ 起きてくださいよ! 若!」
誰かの声で夢が途切れて、意識が急速に浮上する。
目を開けると見知らぬ天井。体を起こすと昨日会った人がいた。
「……ヒロさん?」
「あ、おはよう、朱莉ちゃん。若! 朱莉ちゃんはすぐ起きてくれましたよ! 見習って!」
ベッドから降りて、ヒロさんに足を引っ張られてベッドから引きずり落とされた絶海さんを見る。そこまでされても絶海さんはまだ寝ているらしい。その脇にしゃがんでその頭を叩いてみるが反応がない。
「冬眠してるのかしら?」
「若の場合は年がら年中だから年眠っすね。ほーら! 若‼ 人の形態に戻ってくださいよ‼」
ヒロさんに耳元で叫ばれるとようやく絶海さんが体を起こした。ぼさぼさの前髪で目がすっかり隠れている。彼はその前髪を億劫そうにかきあげると「シャワー浴びてくる……」と呟いて、ヒグマのような足取りで立ち去った。ヒロさんはそれを見送ってから私に「若の次にシャワー浴びたらいいですよ」と笑った。私は「うん」と返事をしてから時計を見た。
もう朝の九時を過ぎている。随分とよく眠ってしまったらしい。
「……ヒロさんってお仕事はなにをされているの?」
ベッドメイキングをしているヒロさんに声をかけると彼は首をかしげた。
「俺の仕事すか? 不動産とか企業買収とか、マア、社長ってやつをしていますね」
「社長さんなの? どうしてそんな立派な人が絶海さんのお世話をしているの?」
「ん? お世話? ……お世話しているってつもりはないっすよ。俺は若に恩を返したくて……でも返す先からまた恩が増えていくんで、……ならもう一生若のために働こうかなってだけの話っす」
「そうなの。素敵な話ね」
ヒロさんは眉を下げて苦笑しながら「俺ももう四十路ですからねー」と言った。その年齢に意味があるのかよくわからなかった。今から二十五年の自分を想像してみてもよくわからなかった。
「……ねえ、ヒロさん……絶海さんってどんな人なの?」
「え? 話してないんですか?」
「昨日帰ったらすぐ寝ちゃったから……あ! そうだった、手土産も渡してない!」
私はトランクケースを開き今更笹団子を取り出した。トランクケースの中はすっかり笹の匂いになっていた。
「腐ってないかしら……」
「腐ってたら腐ってた時ですよ。貸してください。冷蔵庫入れておきます」
ヒロさんに笹団子を渡すと「なんすか、これ。笹ですね」と彼は笑った。
「新潟の名物なの。美味しいお団子。でも一日経っちゃったからもう固くなっているかも」
「そんな消費期限短いもんをなんで手土産にしたんですか? 自由人ですね、朱莉ちゃん……あ。そういや先に言っておきますけど、俺はあんたらが喧嘩したら若につきますよ」
急にへんなことを言うと思ったが、彼は真顔だった。どうやら大事なことらしい。
「あの人と喧嘩なんかしたら、私、殺されちゃうわ」
私が苦笑すると、ヒロさんは目を丸くした。
「若は朱莉ちゃんに危害は加えられないですよ。朱莉ちゃんのこと大好きですから」
「大好き? 私のことを? ……絶海さんが?」
「そうですよ。だってあんな書類の束だけで、わざわざ若が一張羅着て迎えに行ったんですよ? そんな破格の対応は他にありません」
「……そんなこと言われても……」
「その内わかりますよ。若は本当に……」
などとヒロさん話しているとノソノソと絶海さんが戻ってくる足音がした。だから自然と私たちはそちらを向いた。
「きゃあ⁉」
「なにやってんすか! 年頃の女の子の前で出しちゃ駄目でしょ、その凶悪な✕✕✕✕!」
「……バスローブ忘れた……」
絶海さんはびしょびしょのぬれねずみの挙句に裸だった。ヒエ、と私が目を逸らしていると、ヒロさんがクローゼットにかかっていたバスローブを絶海さんに投げつけた。
「ねむい……」
「いいから羽織って、若‼」
「ああ? ああ、わかったわかった、……羽織った羽織った……」
「あんた馬鹿でしょ!」
チラと見ると絶海さんはバスローブを羽織って眠たそうにあくびをしていた。とりあえず服を着てくれたので、ほっと息を吐く。びしょびしょの前髪に覆われていて顔はよく見えない。ヒロさんはそんな絶海さんの脇を通り「あああ、床ぁ! びっしょびしょじゃないすか!」と叫びながら廊下に駆けていった。
「頼んだ、ヒロ……」
「あんたね! 俺になんでもかんでも任せて! もう! 動かないで、そこ座ってて!」
「はいはい……」
べちゃりと板張りの廊下に座り込んだ絶海さんは髪をかきあげてぼんやりとした様子でせかせかと動き回るヒロさんを見ていた。それから絶海さんは視線をずらして私を見た。
「……朱莉?」
「うん、朱莉だけど……」
「……」
「ねえ、起きてる?」
絶海さんはうつらうつらと舟をこぎ出してしまっていた。その髪から滴が落ちるのが気になる私は、トランクからバスタオルを取り出して絶海さんの頭を拭いた。その濡れた前髪を指ですくうと眠たそうな目がこちらを見ていた。
「起きてるの?」
「ウン、……」
「寝てるのね?」
「ウン、……」
赤ちゃんみたいな人だなと思いながらその頭を拭いていると、ヒロさんは廊下を拭いて戻ってきた。彼は私たちを見ると「保護者としての立場がなさすぎる、若!」と嘆いた。
「朱莉ちゃん、手間かけてすいません……若! 起きて! 背中の鯉が泣きますよ!」
「……魚は泣かねえだろ……ああ、わかった、起きるから耳元で騒ぐな……頭に響くんだよ……」
のろのろと絶海さんは立ち上がると私が持っていたバスタオルを首にかけた。
「あ、取られた……」
絶海さんはびっくりするぐらい花柄のバスタオルが似合わないが、本人は気にしていないようだ。彼は欠伸をするとバキバキと首を鳴らした。
「飯くれ、なんでもいい」
「すぐ作りますからリビングで待っててください」
「寝てるから、ここに持ってこい」
「駄目ですってば。はい、行きますよー」
「うー……ううー……」
首輪つけられて無理やり散歩させられている老犬みたいだなと思いながら私は彼らのあとに続いた。絶海さんはキッチンに辿り着くとぐったりとダイニングチェアに座り込み、ヒロさんはキッチンをぱたぱたと走り回る。
「ヒロさん、私、シャワー浴びてくるね?」
「ああ、どうぞ! 脱衣場にバスタオルありますので使ってください。洗濯機に入れておいてくれたら洗っておきますから」
「ありがとう、ヒロさん」
退席しようとしたら「朱莉」と絶海さんが私を呼んだ。振り返ると絶海さんは半分しか開いていない目で私の方を見ていた。
「一人で大丈夫か? 溺れないな?」
「どうやってシャワーで溺れられるの?」
「ならいい……置いてあるもんは好きに使え……」
絶海さんは欠伸をすると、そのまま食卓に伏せてしまった。私は「はあ……じゃあ遠慮なく」と返事をしてから風呂に向かった。
シャワーを浴びてからキッチンに戻るとカツ丼をかっ込んでいる絶海さんとそれをにこにこと笑顔で見ているヒロさんがいた。ようやく絶海さんは目が覚めたらしく「掃除をしなきゃいけない」「朱莉の勉強道具を」「買い物に行かないと」などと食べながらポツポツと話し、ヒロさんはそれに「じゃあ業者呼びますか」「車出しますよ?」「二日連続で外出するなんて久しぶりですね」だとか返している。
私がこそこそとキッチンに入り「お風呂頂きました……」と言うと、二人ともにこやかな笑顔でこちらを見てくれた。
「おかえり、朱莉ちゃん。ほら座って。朱莉ちゃんの分もあるから」
「ン、おはよう、朱莉」
絶海さんはカツ丼を食べ終わると「おかわり」と言ってヒロさんに差し出した。ヒロさんは笑顔で「よく食いますねえ」とそれを受け取る。私は空いている席に腰を掛けた。
「今、ヒロと話をしていたんだが、きみが勉強できる環境を整えようと思う」
「ありがとう。あ、でも私、そんなにお金ないから……安いところで買いそろえたいな……」
「ウン? きみは金の事は一切考えなくていい。私が出すからな」
「えっ」
「きみは私の管理下にある。だから金は全て私が出す」
絶海さんはヒロさんが持ってきたカツ丼を頬張り始めた。私は目の前に置かれたカツ丼を見てから、絶海さんを見た。絶海さんはさも当然と言わんばかりの顔で私を見ている。
「いや、私、……生活力赤ちゃんの人に管理されたくない」
「ウグッ……」
「アッハッハッハッ辛辣! 最高っすね、朱莉ちゃん!」
絶海さんは盛大に咽せ、ヒロさんはけらけらと笑う。そんな二人に「二万はあるし、バイトも探すわ」と言うと、ヒロさんは「そう言わずに若の話を聞いてください」と笑い、絶海さんはヒロさんが差し出したお茶を飲んだ後「とにかく……」とかすれた声で話し始めた。
「私は戸籍上きみの父親だ。その責任だけはちゃんと取らせてくれ」
「そんなの……絶海さんはいきなり巻き込まれただけじゃない。それに起きていない人にそんなこと言われても信用が置けないというか……」
「今は起きている。……いいか。この先きみの財布から金を出すことはない。きみがなにをしようが私が責任を取る。きみがここにいる間だけはそれは私の権利だ」
絶海さんは真剣な顔をしていた。それが怖かった。
「権利? ……迷惑でしょう。そこまでしてもらう理由もないわ」
「きみにはなくとも私には理由がある」
「なあに?」
絶海さんは目を細め「きみが可愛いから」と笑った。
「……は? キモ……」
「……きも?」
「アッハッハッハッハッ若がキモイって言われてる、ヒッヒッヒッヒッ……」
気持ち悪い絶海さんから目を逸らし「いただきます」とカツ丼を食べることにした。絶海さんが「気持ち悪い意味じゃないぞ」「私は姪が可愛いだけで」「食べていていいからこっちを見なさい」「朱莉!」と言ってきたが全部スルーして、カツ丼を食べ続けた。
「ごちそうさまでした。すっごく美味しかった! ありがとう、ヒロさん」
「はい、どういたしまして。朱莉ちゃんは素直で可愛いですねー」
「そうー? あはは」
「……朱莉」
渋々そちらを見ると、絶海さんはジメーっとした目つきで私を見ていた。だから同じようにジトーっとその垂れ目を見返す。
「だって、会ったこともないおっさんに可愛いなんて言われても気持ち悪いじゃない」
私の言葉に絶海さんは心から悲しそうに眉を下げた。
「そんな顔されても困るわ!」
「会ったことないなんて……そんな言い方ないだろう。きみが生まれてからの二年と八ヶ月、私が世話をしていたんだぞ」
「……え? そんなの、聞いたことないよ?」
絶海さんは目を閉じ、ヒロさんは何故か機嫌悪そうに眉間に皺を作った。でも私は本当にそんな話は聞いたことがない。首をかしげるとヒロさんが立ち上がり、本棚から何冊かのアルバムを取ってきてくれた。
「これが朱莉ちゃんと、……朱莉ちゃんのお母さんですね」
「あ、本当だ。お母さんだわ」
そこに若い母が産まれたばかり赤ん坊を抱いている写真があった。病院での一枚のようだ。アルバムに母の写真はそれだけだった。ページをめくるとあとは『びっくりするぐらいのイケメン』と『赤ん坊』の写真が並んでいた。
イケメンが赤ん坊を真顔で抱いている写真、真顔のまま赤子のオムツを替えている写真、泣きわめく赤子を真顔であやしている写真……さらにアルバムをめくっていくと赤子が成長していき、そのイケメンの真顔がたまに崩れるようになっていた。笑った時にできる皺が魅力的だった。
その写真のイケメンと目の前のイケメンを見比べる。
「絶海さん、若い頃モデルみたいね」
私の言葉に絶海さんは嫌そうに顔を歪めた。
「それは心底どうでもいい。きみもきみのお母さんもなにを見ているんだ」
「だってイケメンじゃない……」
私が口をとがらせると絶海さんが困ったように笑った。
「大事なことは私にとってきみは特別で、可愛くて仕方がないということだよ」
たしかに小さいときに世話をしてくれていたなら特別なのかもしれないが、可愛い、というのは一概に頷けない。私は頬を掻く。
「小さいときは可愛くても……これだけ大きくなったら可愛くなんてないでしょ?」
私の言葉に絶海さんは心底不思議そうに首をかしげた。
「可愛いことに期限はない」
「え、キモ……」
「何故気持ち悪がる? ……女性に気持ち悪がられたことなど人生で一度もないぞ……」
「イケメンは言うことが違うのね」
「とにかく今日は買い物をしよう。ヒロ、部屋の掃除を頼む」
絶海さんは無理やりその結論を出すと「歯を磨いて着替えたら出発しよう」と笑った。これ以上断るのはさすがに角が立つだろうと思って「助かります」と私は頭を下げた。
絶海さんはそんな私の頭を撫でながら「ウン、それでいいよ」と嬉しそうに笑った。その笑い皺が魅力的だった。
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