第1話 東京駅に車で迎えに行けますか?
「……もう大丈夫だ、
その言葉に目を開けると私を囲んでいた三人の男はみんな倒れていた。
トランクケースに座るのをやめて立ち上がり、一番近くに転がっていた男の肩を足先でつついてみる。完全に意識が落ちているらしく起きそうにない。ほっと息を吐き、少し離れたところに転がっている他の男二人を眺める。同じように意識はないようだ。
「怪我はないか?」
かけられた声にそちらを向くと私の方を見ていたのは一人の男性だった。
見上げるほど背が高いその男性は私の前までゆっくりと歩いてきた。年齢は三十そこそこぐらいだろうか。恰幅がよく真っ黒な着物がよく似合っている。筋肉がつまっていることが服の上からでも見て取れる体格の良さだ。短い黒髪を後ろに流しつるりとした白い額を晒している。男の人なのに綺麗な肌をしているし、なんとなくいい匂いがする。整えられた眉、黒目がちな垂れ目、高い鼻、口角のあがった唇、一目見たら忘れられないぐらい綺麗な人だ。でも、私はその人に覚えがない。
つまり知らないイケオジが私を見下ろしている。
「……あなた、だれ?」
「
「……もしかして、……おじさんですか?」
彼は私の質問に優しく微笑んだ。
「そうだ。だが、絶海と呼んでくれ」
「……絶海さん」
「絶海でいい」
さすがにそれは失礼だと断ろうとしたとき、絶海さんの足元に転がっていた男がわずかに肩を動かした。その瞬間に絶海さんはその男の顔面を踏みつけた。男の手からナイフが落ちて床を滑っていく。その小さなナイフが転がっていくのを目で追っていると、視界に影が落ちた。
絶海さんが私に手を伸ばしていた。
「……さて、……帰ろうか、朱莉」
その大きな手が私の頬に触れる。かさついた冷たい手が私の頬をムニムニとする。私はムニムニされながら『どうしてこんなことになったのかしら』と、ここに至るまでのことを思い返した。
――まず私が『東京の高校に行きたい』と言った。母は『東京だけは駄目だ』と言った。
私たちはそれまで意見が割れたことすらなかったから、私は母の言葉に驚いたし、母も私の言葉に驚いていた。お互いにお互いをまるで『得体のしれない化け物』のように見詰め合ってしまうぐらい驚いた。あの沈黙の時間は今思い返してもひどく気まずいものだった。
しかしどれほど気まずかろうが現実問題として、私が希望していた高校は都内に通える距離の場所に保護者と同居していなければ出願すら許されない。私は一生懸命勉強しながら一生懸命母にねだった。『一緒に東京に行こう。三年経ったら母さんを必ず佐渡に返すから』と。母は私の願いになにも答えなかった。それでも私はその学校に願書を取りに行き、受験勉強をし続けた。母はきっとわかってくれると信じていた。そして実際私に根負けしてくれた母は『わかったわ』と言ってくれた。しかし、続けてこんなことを言い始めたのだ。
『東京のおじさんの家から通いなさい。住民票はもう移したし高校に出願もしておいたから。だから頑張って受かるのよ』
あまりにもむちゃくちゃな提案だと思った。同時に、聞きたいことがたくさん出てきた。
どうして今まで会ったことがないどころか聞いたことすらない『おじさん』なんかに嫁入り前の娘を送るのか。そもそも私が希望する高校は『父か母との同居が条件』なのだから『おじさん』じゃ書類が通るはずがない。つまり、それって『おじさん』じゃなく『母さんの別れた夫』、つまり『私の父』なんじゃないか。じゃあ、なんで『おじさん』なんて嘘を吐くのか。
――朱莉。
私は子どもの頃から夢で同じ人を見る。多分あれが『父』だろう。夢の中ではその人の顔は見えない。だけど声だけは分かる。低くて落ち着いた優しい声の男性だ。私はその人の声が好きだった。だからあの人が『父』なら母に隠さずそう言ってほしかったし、聞きたかった。でも私は結局そのおじさんのことを母に問い詰めることはできなかった。
母が苦渋の決断であることを隠しもしない苦しそうな顔をしていたからだ。
だから私は母のむちゃくちゃな提案を受け入れて質問はひとつもしなかった。けれど質問をしなかったことで私と母の間には気まずさが残ってしまった。しかしそれでも私は合格し、むちゃくちゃな提案通り単身上京することになった。
――そうだ。それで今日、母の運転する車で両津港に向かったんだ。
車から降りてボストンバックを肩にかけトランクケースを引きずっていると、母が「バッグ貸しなさい、持つから」と私のバックに手をかけた。それは母の優しさだと分かっていたけれど私はその手を振り払った。母は「好きにしなさい」とだけ言った。だから私は『こんな荷物ちっとも重たくない』という顔をして、ジェットフォイル待合室まで歩いた。
待合室には私たち以外には三人しかいなかった。ベンチに腰掛けコートのポケットから文庫本を取り出すと、母は財布片手に立ち上がった。
「お母さん、お茶買ってくるわね」
「イラナイ」
「私が飲むのよ」
「……アッソ」
文庫本を開く。――哀れなウェルテルの身の上について――なんとか読もうとするが内容が頭まで届いてこない。鬱々とした気持ちをごまかすためにページを捲り続けた。
そんな私の肩を母はペットボトルの底でつついてきた。チラリと見るとやっぱりお茶を二本買ってきていた。『イラナイと言ったのに』と思いながらそれを受けとる。母は私の隣に座るとチラリと私の手の中の本を見たあと、私の顔を覗き込んできた。
「おじさんの家に着いたら連絡しなさいよ」
「ウン」
「……朱莉」
「ナニ?」
母の言いたいことはわかっている。
わかっていたからそれを言わせたくなくてわざとぶっきらぼうに聞き返した。そうすれば母は私を怒らせないために余計なことは言わなくなるとわかっていた。そして母は思った通り困ったように眉を下げて「なんでもないわ」と言った。
「……ア、ソウ」
自分でそうさせたくせに母の気遣いが不愉快で仕方ない。舌打ちしたくなるほどの苛立ち。理不尽な八つ当たりとわかっているのにこの燃えるような怒りを消す方法がわからない。読んでもいないのにページを捲った。母の指が気まずそうにベンチを叩いていた。
しばらくそうして気まずくしていると、ジェットフォイルの搭乗アナウンスが流れた。母は今更「やっぱり私も行くわ、東京まで朱莉一人で行くなんて……」と言い出した。
「受験のときに行き方覚えたもの。簡単よ」
「でも……」
着いてこようとした母に背を向けてズルズルとトランクを引きずって待合室を出た。
改札でQRコードを読み込ませようとしたがうまくできないでいたら、駅員さんが私の代わりにやってくれた。他の乗客にも駅員さんは同じ対応をしているようだ。『だったら昔の通り紙のチケットを改札鋏で切ってくれるシステムでよかったじゃないか』なんて思いつつ駅員さんに「ありがとう」とお礼を言って改札を抜けた。
「朱莉! いってらっしゃい!」
背中にかけられた母の声に急に胸が熱くなった。
『やっぱりやめる』と言いたくなった。『一人でなんて行きたくない』『知らない人とだって暮らしたくない』『いやだ!』『やっぱり佐渡にいる!』と叫びたくなった。でもそれをひとつでも、少しでも口にしてしまったらもう歩き出せなくなる。
だから振り返りもせず手を振ることさえせずジェットフォイルに乗り込んだ。
ジェットフォイルの二階席には誰もいないようだった。どうやら他の人は一階席を選んだらしい。一人青い座席に腰かけ、窓の外を見る。
窓の外は日本海と空。それだけだ。
「……最低ね、私……」
あまりにもぶっきらぼうであまりにも愛がない。十五歳の春として最低だ。自分の気持ちに折り合いがつけられずに意地を張るなんて、あまりにも子どもじみていて情けない。
ボストンバックから文庫本を取り出す――『若きウェルテルの悩み』――鬱々とした今の自分にぴったりの一冊だった。
「東京、終点です」
アナウンスを聞いてから文庫本を閉じてコートのポケットにしまう。ボストンバックを肩にかけてトランクケースを引きずって私は東京に降り立った。私と同じように新幹線から下りた人々はまるで砂時計の砂のようにホームの階段に吸い込まれていく。考えなしにその流れに乗るのが嫌でホームの柱に凭れて人が減るのを待つことにした。
しかしいくら待っても人の流れは一向に減りそうにない。
ひっきりなしに人が現れては流れていく。とめどなく、とめどなく、まるで蟻の行進のように続いていく。
――気持ち悪い街。
駅員に日本橋口改札への行き方を聞き、人にぶつからないように気を遣いながらそちらを目指した。ズルズルとトランクケースを引きずり、ボストンバックを肩にかけ直して、一歩一歩慎重に進んだ。やっとその出口にたどり着いたときにはもうすっかり疲れていた。
「……日本橋口……ここね……」
『おじさん』は人形町で喫茶店を営んでいる四十四歳の男性らしい。名前も顔も住所も知らないけれど電話番号だけは覚えさせられた。ここに着いたら彼に電話をかけることになっていたからだ。
「090……」
スマホを取り出してその番号に電話をかけた。しかし……十コール過ぎても、何度かけ直してみても、相手が電話に出ることはなかった。
トランクケースに腰かけて息を吐く。
辺りを見渡すと日本橋口改札はバスロータリーの近くにあるようだ。たくさんの人が慌ただしく歩いている。なんでこんなに人がいるんだろう。佐渡汽船の千倍はいそうだ。しかもみんな速足だ。なにをそんなに生き急ぐのか。外のビルは高いしでかいし、道路も広いし車は多いし、空は狭いし、人が多いし、とにかくごちゃごちゃしてて目が回る。
――これが東京。今日から住む街か。
「……ひとまず今日の宿をどうにかしないと……」
手持ちの金は二万しかないから無駄遣いはできない。
スマホを開き新しくSNSアカウントを作成する。『♯東京 ♯宿募集 ♯女子中学生』と入力して『こんなんで宿を見つけられるんだろうか』『東京は変態多いって言うけど本当かな』『というかこんなんで来られても困る……』と考えていたら手元に影が落ちた。
なんだろうかと視線をあげると、いつの間にか三人の男性に囲まれていた。
「……なんでしょう?」
「どこ行くの? 案内してあげるよ。困ってんでしょ?」
「大丈夫よ。一人でなんでもできるから……」
そう言いつつ『そうだろうか』と不安になる。『……私は大丈夫だろうか……一人で上京なんて、本当に、大丈夫だったのだろうか……』そんな思いが頭に浮かんできてしまう。
「……やっぱり少し困ってるわ」
「ふうん、可愛いね」
「え? なに?」
一人の男性が私のボストンバックを引っ張り出した。
「盛ってやるよ」
「離して。一人で持てるから」
「いいから寄越せよ」
「乱暴にしないで! 痛いわ!」
声をあげるとその人はボストンバックから手を離してくれたが、何故か代わりに私の肩を掴んだ。彼らは私のスマホの画面を覗き込んでにんまりと笑う。
「なあ、今日泊まるところないの?」
あれ、もしかして『これヤバイのかしら……』じわりと背中で汗をかく。まわりを見ても誰もが目を逸らして足早に通り過ぎていく。私の肩を掴む手の平がするりと二の腕に下りてきた。
「朱莉、目を閉じていなさい」
不意に、彼らの背後から低く落ち着いた声がした。
咄嗟に私は言われた通りに目を閉じた。その途端、私の前と右手にいた男性の気配が消え、一瞬遅れて残りの一人の気配も消えた。
そうして目を開けて――今に至る。
つまり一瞬で男の人たちをおそらく昏倒させたであろう『絶海さん』は、しかしそんな気配は少しもなく優しく微笑み、私の頬をムニムニと触っている。
「マア、帰ると言っても車が来るまで少し待つがな……」
無遠慮な触り方だがさっきの男の触り方とは比べ物にならないぐらい安心する。これは犬や猫を触る手付きだ。
「ぷにぷにだな。子どもらしい頬だ」
「……子どもだもの」
「そりゃそうだ。まだ十五か……」
なにが楽しいのか彼はクスクスと笑っている。彼の視線がふと私のスマホ画面を落ちた。途端、彼の笑顔が消えた。なんでだろうと私も自分のスマホの画面を見て気が付く。SNS画面のままだった。
「あ、違うのこれは、冗談で……」
「冗談にならない。そんなことやめなさい。なんでそんなことを……」
彼の顔は呆れているというよりは困惑していて、その声は怒っているというよりは怯えていた。どうやら心配をかけてしまったらしい。私はアカウントを消して、頭を下げた。
「……心配かけて、ごめんなさい」
「いや、……本を正せば、遅れた上に携帯をなくした私が悪い」
そりゃそうだなと思ったので「そりゃそうね」と言ったら、「怖い思いをさせたな」と彼は眉を下げた。彼の表情に私も眉を下げる。
「迎えに来てくれると思わなかったの。電話もつながらないし一人でどうにかしないといけないと思って……もちろん本当にやるつもりはなかったんだけど……」
「……すまない」
「どうして絶海さんが謝るの?」
「きみが本当に東京に来るのか少しだけ疑っていたんだよ。私の夢なんじゃないかって……そんなことを考えていたら遅れてしまった」
「どういうこと? 母さん、ちゃんと連絡してたんでしょ?」
絶海さんは気まずそうに襟を直した。
「きみのお母さんから手紙が届いたのは昨日なんだ。あまりに突然で、……しかしよく考えたら、きみのお母さんは突発的なことをする人だが嘘つきではなかったな」
「……昨日私が来るって知ったの?」
「ウン。でも遅れた。すまないな」
「待って。昨日知って、それで私を居候させて……」
そこまで言ってから気がつく。『そんなはずがない』。普通いきなり小娘を居候させることなんて了承しない。つまり絶海さんはここに私を迎えに来たのではなく、断るために来たのだ。
「ごめんなさい! 私、知らなくて……どうしよう、……ごめんなさい。私、帰るわ!」
「ウン? ウン、マア、これから帰るんだが……?」
「佐渡に帰る……お世話になりました……」
「ハ? きみの帰るところは私のもとだろう。どうした? 泣きそうなのか?」
踵を返そうとした私の頬を絶海さんの両手がつつむ。またムニムニされた。
「ハムスターみたいにしないでよっ!」
「なぜ泣く? 泣くようなことはなにもないだろう……と、そろそろ車が一周するか」
彼は私の頬から手を離すと代わりに私のトランクケースを持ちあげた。自分で持つと言おうとしたが先に「まさか私より力持ちとは言わないだろう?」と笑いながら言われた。たしかにそれはその通りだった。
「ほら帰るよ、朱莉」
「でも、私……」
「私たちの家に帰ろう」
絶海さんにうながされるままにロータリーに出ると、ちょうど黒い車が入ってくるところだった。その車の窓が開き、誰かが窓から身を出して、こちらにむかってブンブンと手を振る。
「はやくはやく! ここ、車寄せてらんないんすよ!」
「朱莉、走るぞ」
「あ、うん!」
うながされるままその車に小走りでかけより後部座席に乗り込んだ。
運転席に座っていた男性はちらりとミラー越しに私たちを見て「東京駅に車で迎えなんて無理っすからね! 少しは考えてくださいよ! 待っている間、駅の周りぐるぐるさせられる運転手の気持ちを!」と口先を尖らせた。そんな彼を見て絶海さんはクスクスと楽しそうに笑う。
「すまんな、ヒロ。無茶を言った」
「ほんとっすよ……あ、朱莉ちゃん、遠路はるばる……ってな話をしてる時間もねえや! とにかく出ますよ。ここに車止めてるとすぐお巡りがピイピイ言いやがる。あと、若! 車にスマホ置きっ放しでしたよ! 携帯してくださいって言ってるじゃないですか!」
ペラペラと話す彼の運転でロータリーを抜ける。車が道路に出てからようやくヒロさんが「ああ、まったく……」と言って息を吐いた。どうやらもう大丈夫らしい。私はシートベルトを締めて、ほ、っと息を吐いてから、ふと気になって「若ってなんのこと?」と絶海さんに聞いた。スマホを懐に仕舞った絶海さんは「ああ……」と低く呟いた。
「きみはどの程度私のことを聞いているんだ?」
「東京のおじさん」
間髪いれずにそう返すと絶海さんは気まずそうに咳払いをし、運転席のヒロと呼ばれた人はけらけらと笑った。
「……他にはなにも聞いていないのか?」
「うん、それでも高校に通いたかったから」
私の言葉に彼はフッと笑った。
「筑波に行くそうだな。国立に受かるなんて頭がいい……他に下宿先はなかったのか?」
「筑波は父か母と同居してなきゃ駄目なのよ」
「……なるほど、そういうことか……ククッ」
なにがおかしいのかと見上げると「きみのお母さんは昔も今も私の人権を完全に無視する人だよ」と彼は笑った。どういうことか質問しようとしたら、彼は手で私を制した。
「色々と説明をしなくてはいけないが先に腹ごしらえだな。ヒロ、叙々苑に回してくれ」
「やり! 久しぶりですね、焼き肉!」
なんだかわからないが焼肉屋に行く事になったらしい。絶海さんは電話をかけながらフとこちらを見た。
「彼は
絶海さんは電話を切ると、にんまりと笑った。
ゾッと寒気がするぐらい冷たい瞳だ。
まるで値踏みするかのように彼は私の頭の先から体をじっとりと見ている。『蛇に睨まれた蛙ってこういう気持ちかしら……』私がゴクリと生唾を飲み込むと、運転席から「アッハッハッ」と、冷たい空気を切り裂く明るい笑い声がとんできた。ヒロさんは涙を流すほどに笑っている。
「若、やりすぎっすよ! 朱莉ちゃん、本気でビビってます!」
ヒイヒイ笑うヒロさんを『なにがおかしいのかしら』と見ていると、絶海さんが手を伸ばしてきて私の頭をわしゃわしゃと撫で始めた。それは気安い手つきだった。言うなれば家族の愛情を感じる手付きだ。
「冗談だよ、朱莉」
「……じゃあ絶海さんはヤクザじゃない?」
「ああ。組はとうに解散した……今はすっかり
絶海さんは私の頭をワシャワシャと撫でている。
「……それも冗談よね?」
「ン? これは事実だ。私は組長だったんだよ」
「……組長……」
私がボストンバックを抱え直して「えぇ……」と言うと、絶海さんはクスクス笑い、ヒロさんはげらげらと笑った。
「さてと、どこから説明したらいいものか……」
肉は美味しそうだった。だけど元とはいえ目の前にヤクザが二人もいる状態じゃ楽しめない。私は取り分けられた肉を箸でつつきながら「はあ」とテキトーな相槌を打つ。
「まず、きみのお母さんは私の弟の嫁だったんだ。極妻というやつだな。とはいえ弟はクズだから別れることになった。そのときに、マア、あれやこれやあってな……それできみのお母さんは佐渡の実家に逃げたんだ。桜川が警官一族であることは知ってるね? 元は佐渡奉行だ。中でも桜川は荒くれ者を取り締まる武闘派というか、マァ、品位がないというか……『
「……『桜川組』ってなあに?」
「おや。聞いたことないかな?」
そういえば法事のときに集まる人たちはやけにスーツ似合っていたなと思いつつ「……そんな……」と私が言うと「うそー、そんなことも知らないで桜川で生きていけんの?」とヒロさんが口を挟んできた。そんな言われ方されても知らないものは知らないのだ。
「誰も教えてくれなかったもん……」
私が口を尖らせると、絶海さんはクスクスと笑った。
「拗ねるな、朱莉。大人は子どもに隠し事をするものだ」
「じゃあ絶海さんは本当に、……私の『おじさん』なの?」
「そうなんだが……その言われ方いやだな。老けた気持ちになる」
「『お父さん』じゃないの?」
ドキドキする胸を押さえてそう聞くと、絶海さんとヒロさんは目を丸くしていた。それは驚いている人の顔で『バレた』という顔ではなかった。
「……違うの……?」
「……そんなこと考えていたのか……」
「だって……」
「マァ、今となってはあながち間違いでもないんだが……」
絶海さんは襟を直しながらため息を吐く。彼はそれからヒロさんに「昨日のやつ」と言った。「はい」とヒロさんが机の一部を片してから、いくつかの書類を机に置いた。
それは私の願書のコピーから始まり、受験票のコピー、合格通知のコピー、戸籍のコピーで、今日私が乗ってきたジェットと新幹線の予約メールのコピー、最後にあったのは母と絶海さんの婚姻届のコピーだった。
「これらの書類が昨日きみのお母さんから届いたものだ。他には一切ない。説明する手紙などは一切ない」
絶海さんもヒロさんも真顔だったし、私もつられて真顔になった。
「マア、それらを読めば言いたいことはわかるにはわかる。……きみのお母さんはギリギリまできみの心変わりを期待してたんだろうな。あとで私の戸籍を確認しておくが……、きみのお母さんは本当に『勝手に』私との婚姻届出したんだな。さすがに冗談かと思ったが……。父か母との同居が条件なら仕方ないな」
「えっ……えっ⁉ つまりどういうこと⁉」
「つまり現在きみのお母さんは私の妻で、きみは私の娘ということだ」
絶海さんはにこにこ笑う。その隣でヒロさんはケラケラ笑う。私の背中はダラダラと冷や汗を流す。
「……あの……母さんに電話してもいい?」
「もちろん。無事会えたことを伝えるといい」
電話をかけようとすると絶海さんが「心配しているだろうからビデオ通話にするといい」と口を出してきたので、ビデオ通話に切り替える。絶海さんの言う通り、心配してくれていたらしい母はワンコールで出てくれた。
『朱莉、無事に着いた? おじさんとは会えた? あら? 顔色悪くない? 新幹線で酔っちゃった?』
「どういうことなの、母さん。ちゃんと説明して」
母はまばたきをしてから『そうね、……先に言っておかなかったから驚いたわよね』と呟いてから、ジっと私を見た。私も母をジっと見返した。
『実は絶海さんはビックリするぐらいイケメンなのよ』
そうだった。母はこういう人だった。
「そこじゃないわ、母さん! うちって裏でヤクザって言われてるの⁉」
母さんは『気がついてなかったの?』と聞き返してきたので「はぁん⁉」と叫ぶ。しかし母は呆れたような顔をしていた。
『普通気が付くわよ。明らかに堅気の家じゃなかったでしょ』
「知らないわよ、そんなの! じゃあ私が同級生に避けられていたのは桜川のせい⁉」
『そうよ? そりゃ仕方ないわよ。チンピラの巣窟って言われてんだから』
「え⁉ だって、中学で友達できなくて『私、ださいからいじめられてんのかな』って相談したよね⁉ 母さん、それで私と一緒に新潟まで出て、服買ってくれたじゃない⁉」
『そうね。それから朱莉どんどんお洒落になって……東京でモデルになりたいなんて言い出すとは思わなかったけど、……でもお母さん決めたわ。朱莉を応援する』
「違うよ⁉ なにを言ってんの⁉ なんで私が上京決めたと思ってたの、あなた⁉」
『お洒落に目覚めてモデルになりたくなったんでしょ?』
「全然違うよ⁉ 勉強したかったからよ⁉」
『そうだったの? あらー……うふふ……』
「笑い事じゃないわ、なにを笑っているの⁉ あとそれから婚姻届ってどういうこと⁉」
母さんに食ってかかっていると、ふと背後に誰かが座ってきた。いい匂いだ。背後のその人はそのまま私の肩に顎をのせてきた。その良い匂いで振り返らなくて絶海さんと分かる。
美丈夫元組長の顎が肩に乗っている事実に私は一言も話せなくなり、ハシビロコウのように硬直した。
「お久しぶりですね」
耳元でバリトンのよく響く声。
『変わらずイケメンね、絶海さん』
画面の中で母がにこりと微笑む。
「お褒めいただき光栄です。ところで本当に……これでよろしいのですね?」
『保護者いなきゃ通えないんだから仕方ないでしょ……それに、あなたなら万に一つも朱莉を傷つけないだろうし……』
「……マア、そりゃそうですね……」
絶海さんの左腕が後ろから私の腰を抱き、その右手が私の手からスマホを奪った。
「たしかに私の娘として引き受けました。あなたも希望するならいつでも妻として来てください。……来れるものならな」
『……娘をよろしくね、絶海さん』
「ちょっと待ってよ、母さんっ!」
しかし無情にも電話は切られてしまった。ただ目の前の肉が焼けていく音が響く。
「……朱莉」
「ひゃいっ! えっ……なに……」
なぜか絶海さんは私を抱き上げて、胡坐を組む彼の膝の上に横向きに私を座らせた。その顔を見上げると彼はにこりと笑った。
「さっきから箸が進んでいないようだ。私が食べさせてあげようね」
「ちょ、え、ちょっと……」
「安心しなさい。膝の上で漏らされるぐらいで怒りはしない。慣れたものだ」
「待って!? 怖い! 待って! なに⁉ なんでそんないきなり……近すぎ! なに⁉」
彼はキョトンとした様子で首をかしげた。
「きみは私の膝が好きだろう?」
「え⁉」
「……ヒヒヒヒヒヒヒッ」
突然差し込まれた笑い声にそちらを見るとヒロさんがヤバイ薬を飲んだのかというぐらいゲラゲラと笑っていた。
「なにがそんなにおかしいんだ、ヒロ?」
「ヒッヒッヒッヒッ、若っ……にやにやしちゃって、……ギィ、ヒッ、……ヒッヒッヒッヒッ……」
泣きながら引き笑いしているヒロさんは助けにはならなそうだ。どうしようと思って恐る恐る見上げると、絶海さんは微笑んでいた。幼い子どもを見るかのような優しい微笑みだ。
「……あの……」
「うん?」
彼は私を抱き締めて「私はきみの味方だ。なんでも言ってくれ」と耳元でささやいてきた。初めての異性からのハグ。そして元組長。……恐怖でしかない。どうしてこうなった。怖さのあまり吐き気がしてきた私は震える手で絶海さんの腕を軽く叩いた。
「下ろしてちょうだい……情報量多すぎて、ちょっと、……混乱しているの……」
「……それは無理もないな」
やっと絶海さんが膝から下ろしてくれたので私は深呼吸をした。なんとか心臓が落ち着いたところで口を開いたら「みんなヤクザなの……」と本音を漏らしてしまった。私の本音にヒロさんはゲラゲラ笑い、絶海さんはクスクス笑う。私一人、汗をかいている。
絶海さんはそんな私の前髪を指先ですくうと「汗をかいているじゃないか……風邪を引くぞ」と笑う。
「とりあえず……絶海さんはお母さんの旦那さんになって私のお父さんになったってことなの……?」
「そのようだな。それなりに長いこと生きてきたが勝手に婚姻届出されるのは初めてだ」
「……そんな簡単に流していいことじゃないよね⁉」
「なにか問題あるか? たかだか戸籍。それもきみが卒業するまでの間の話だ」
絶海さんはおしぼりで私の額や首の汗をぬぐいながら「きみが通いたいところに行けるならそれでいい」なんて言う。息するようにお世話されている。私はその絶海さんの手を止めて『なんであれ挨拶しなければ』と、床に頭をつけた。
「どうした?」
「
「……、……ああ……ウン……、……こちらこそよろしく、朱莉」
たっぷりの沈黙のあと絶海さんはそう言ってくれた。だから恐る恐る顔を上げると絶海さんは何故か口元をおさえていた。
「……ウン、……上手に挨拶できたな、朱莉」
「練習してたから……」
私の答えに絶海さんは「フッ」と息を吐いた。なんだろうと思ってみているとその肩が震え出した。
「……ククッ、今更、フフフッ、……今更、名乗るのか! ……フ、ハッハッハッ! おかしな子だな!」
絶海さんは馬鹿みたいに笑い始めた。どういうことだとヒロさんを見ると、ヒロさんは「若が笑ってら。すごいな、朱莉ちゃん」なんて言うので、頑張って挨拶をした私は無の気持ちになった。『もうどうでもいいや』と肉に箸を伸ばし、一口で頬張る。そしたら思っていたよりもずっと美味しいお肉で吃驚して、思わず絶海さんの腕を掴んでしまった。
「美味しい! これ、絶海さん、美味しい!」
「……ククッ……」
絶海さんは机に肘をついて額をおさえて俯いてしまった。
「どうしたの、絶海さん?」
「……もっとうまい肉食べたいか?」
「うん!」
「アッハッハッハッハッ!」
「なにがおかしいの……?」
「ああ、もう好きにしろ。ヒロ、高い肉から頼め。お前も好きなだけ食べろ」
「わーい! ありがとうございます、若! 朱莉ちゃん、思いっきり頼んじゃって!」
ヒロさんが店員さんを呼びメニュー表を私に向ける。私が店員さんに「最高ランクの全部ください!」と言うと絶海さんはまたゲラゲラと笑った。
――これが私の上京初日、そうして絶海さんとの出会いだった。
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