東京は怖いところです

プロローグ

　椅子から立ち上がり窓を開けると、夜風にのって春の気配が入り込んできた。この調子なら『この子』と約束した桜は来週には咲くだろう。生ぬるい風を浴びながら腕の中で眠る子どもの顔を見ると、寝汗で前髪が張り付いていた。着物の袖でそれをぬぐってやると、彼女は小さく呻いた。

　服をかえてやろうか。そんなことをしたら起きるだろうか。起きたらまたぐずるだろうか。そしたら、……そしたらもう少しここにいざるを得なくなるだろうか……そんなことを考えていたら、ヒロが「若、駄目ですよ」と声をかけてきた。

「気持ちはわかりますが、もう時間です」

「……わかっている」

　俺の言葉を聞くとヒロは頭を下げ「車、準備しておきます」と部屋から出ていった。ヒロがあそこまで言うということはとうに予定の時間は過ぎているのだろう。しかし俺はまだ、どうしてもこの部屋を出る気にならない。

　腕の中で眠っている幼子の頬に頬を寄せる。柔らかい。あたたかく汗ばむその体はくったりと弛緩していた。今日はよく遊んだから明日の夜明けまでは起きないだろう。

　――明日。

　明日からこの温もりが俺のそばにないということがこんな間際になってもどうしても信じられない。

「……朱莉（あかり）」

　この子はまだ三歳にもなっていない。今離れたらきっと俺のことなんてすぐ忘れてしまうだろう。ここで育ったことなんて全部忘れてしまうんだろう。そうしてこの子は俺の知らないところで大きくなって、俺を見ても気が付かないで通りすぎてしまうようになって、もう二度と俺に笑ってくれなくなる。

　冷静考えればそれが正しい未来だ。

　この子は守られるべき可愛い女の子で、俺は排斥されるべき社会悪だ。こんな可愛い女の子は俺のような人間と関われば関わるほど不幸になる。だから今手放すべきだ。わかっている。なのに、そんな最低な未来ならいっそ今日の内にこの子と死んでしまいたい。

　――この思いは理屈じゃない。

　この子がいないのがいやなのだ。ひたすらにいやで、それだけだ。

「ごめん。……ずっと一緒という約束は、嘘だ」

　だが俺はそんな理屈のない思いに従うわけにはいかない。この子は勿論のこと、俺だって今は死ねない。俺についてきてくれた連中が俺なしで生きていけるようになるまでは責任をもって生きなくちゃならない。だから、だけど、――ひとつだけ。

「だがな、俺はこの先どんなことがあってもお前の味方だ。これだけは絶対に本当だ。いつかお前が困ったときは必ず俺を頼れ。なんでもしてやるから……」

　この子が困難に遭う日が来ないことを願いながら、その日を待って生きていこう。この勝手な約束だけあれば明日からこの子がここにいなくても俺は生きていける。

「……お母さんと仲良く、健やかに育てよ」

　部屋を出ると廊下には俺の部下が全員並んでいた。全員血涙を流しそうな真っ赤な目が朱莉を見つめている。鬼の形相とはこういうを指すのだろう。

「行くぞ」

　そう声をかけるだけで皆なにも言わずについてきてくれる。本当に俺はいい部下を持ったものだ。彼らを連れて事務所の外まで出ると、ヒロが車を止めて待っていた。目が赤くないのは彼だけだが、その代わりに彼の拳からは血がこぼれ落ちている。気持ちはみな俺と同じなのだ。

　朱莉をエンジンのかかっている車に乗せた。

　チャイルドシートに乗せられても起きることなく涎を垂らして眠っている。その頬にキスをして「大好きだぞ、朱莉。……いつか迎えに行くから。それまで、さようならだ」と言葉を掛けた。朱莉は起きなかった。車から降り、運転席の窓を叩く。

「頼んだぞ、ヒロ」

「……はい、きっちり送り届けます」

「ああ、出してくれ」

　朱莉が去っていくところなどとても見ていられくて車に背を向けた。そのエンジン音が完全に聞こえなくなってから、振り返る。そこにはただ春の気配がする風だけが残っていた。

　――そうして俺はあの子を手放した。今から十三年前のことだ。