獏
噛んだ瞬間、僕は彼女と過ごした日々の記憶が頭をよぎった。ああ、懐かしい。
「真人、これで遊ぼう」
「うん、真希ちゃん!」
幼かった日のこと、真希がブランコを指さして僕を誘っている。僕はいつも通りに頷いて、二人でブランコに乗った。しばらく漕いでいると彼女がこんなことを言い出した。
「ねえ、真人はいつか真希が悪い人に魔法をかけられたら、助けに来てくれるよね?」
「うん。もしそうなったら、僕が必ず助けに行くよ!」
僕は深くも考えずにこんなことを言った。子供らしい約束といえば、そうだと思う。実際、僕も何年か経って忘れてしまっていたくらいだ。だけど、この約束は彼女にとって、とても大事な物だった。
真希はそれから程なく、この街では大きな方の病院に通うようになった。理由はよくは理解できなかったが稀な病気にかかってしまったのだという。それが響いてなのか、彼女は友達をあまり上手に作れなくなってしまったようだ。真希が病院に通うようになって何年も経った頃、僕は彼女と偶然、一緒に帰ることがあった。当時の彼女は僕や数人の友達には心を開いていた。その時に彼女は、
「ねえ、あの時の約束覚えてる?」
「約束って?」
「そっか、忘れちゃったか……」
その瞬間、真希はとても悲しい顔をしていた。ブランコに乗りながら交わしたあの約束を思い出したのは、その日家に着いてからのことで、思い出した瞬間、僕は彼女に悲しい思いをさせたのだと理解した。真希は病のせいで、あまり人と関わることが少なかった。だからこそ、あの時に僕と交わした約束が心の支えになっていたのだと思う。僕は、彼女に悲しい思いをして欲しくない。そう決意したが、時は既に遅くて、彼女は入院をすることになり、なかなか会えなくなってしまった。僕はもう彼女との約束は果たせないのかもしれないと、今日の夜、真希の姿を見るまではそう思っていた。今、僕は彼女を少しでも助けることができる。そのためならば、僕はどうなってもいい。僕は真希のことがずっと、ずっと……
目を閉じて、彼女の首筋を噛み続ける。彼女が見ている夢の味がして、苦しくて、寂しい味だった。ごめん。ごめんよ。そう思うと、目から涙がこぼれ落ちる。一方でさっきまであった人間ではなくなる苦しさから解放されて、なぜだかとても気持ちよかった。僕の体がどんどん変質していく。その感触が体の中を駆け巡る。次第に彼女の夢の味がしなくなってきて、とうとう何も無くなった。目を開けると、苦しい顔をした彼女はそこには居なかった。
「君、本当にこれでよかったのか?」
少し経って、腕の傷が治った絵梨華が尋ねてきた。僕は即座に、
「これで、よかったと思っているよ」
僕は人間をやめて漠になった。そのことに後悔は無い。
「君は清々しいほどに良い顔をしてるな」
「そうかな?」
「まあな」
そう言われて、少し嬉しかった。
「おめでとう。これから君は獏として生きていくことになる。そのためにはボクたちの様々なことを知る必要があるよ。永遠にその姿で生きていく覚悟はあるね?」
僕は改めて窓に反射する自分の姿を見つめる。青い左目と所々黄色い髪の毛、背中に生えた翼。今の自分の姿を見つめてから、僕は絵梨花に言った。
「あるよ」
それを聞いて彼女は、安心したような顔をした。
「ううう、あれ、真人、なんでここにいるの?」
真希が目を覚ましたのは、あれから一時間ほど経った頃だった。
「真希が苦しい思いをしてたから、助けに来た」
「そっか、約束、思い出してくれたんだ……」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「そう、あの時すぐに思い出して、それから、それからずっと悔しかったんだ。約束を忘れた自分が」
「そうだったのね。私、ずっと信じてたの。真人くんが、あの約束を思い出してくれるって」
気づいたらお互いに涙が出ていた。
「なんか、おかしいね」
「そうだね」
僕と真希は嬉しくなって、抱き合った。絵梨華の方に目を向けると彼女はただ、待ちぼうけをしていた。
「私、ずっと、ずっと……」
「それは僕も、だよ……」
僕らは一回だけ口を交わした。
「夢を見てたの。苦しい夢で、私がみんなを食べちゃてた。苦しかった。だけど、途中でその夢が途切れたの」
落ち着いたところで、真希はこう言った。それは僕が夢に現れた、龍たちを巣ごと食ったからだった。僕は彼女がひとまずは助かってくれて本当に嬉しかった。すると、真紀は何かに気づいたような顔をして尋ねてきた。
「ねえ、その片目、どうしたの。その翼も髪の毛も、何があったの?」
彼女は自分の身に起きた出来事を全ては飲み込めてなかったようで、僕は何も答えることができなかった。空が色づき始めた。体が本能的に日の光から逃げろと訴えている。お別れの時間のようだ。
「僕は行くよ。じゃあね」
「待って、また、またいつか会えるよね?」
彼女は必死の声で悲しそうに僕にそう尋ねた。
「会えるよ。また、会えるよ、きっと、夢の中で」
真希の顔は僕のことを察したのか、涙で溢れている。僕の目にもまた、涙が溢れていた。僕は彼女に涙を隠して、病室を出た。
「じゃあ、これから獏の世界に行くぞ。覚悟はいいね?」
絵梨華の問いける。僕は真希の病室の方を振り向いて、それから迷わずに、
「いいとも」
とだけ言った。
こうして僕は、獏になった。
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