私の目にはそう見えて

 桐子はその日の晩のうちに電話をくれた。最初に電話に出たお母さんが自室にいる僕を呼びにきたときには、随分と大げさに驚いていたように見えた。

「拓斗! 京極さんから電話きたよ!」

 部屋から出て、一緒に一階へ下りながら僕は言った。

「そういえば今日公園で会ったんだ。元気そうだったよ。犯人は捕まってないみたいだけど」

「そうなんだぁ。それならそうと言ってよぉ」

 なぜお母さんが桐子の心配をしなければならないのか僕には理解できないが、生返事だけしてから、リビングにある電話に出た。

「もしもし」

「もしもし、こんばんは」

 桐子は静かな口調で挨拶をした。夜の時間に彼女の澄んだ声を聞くのは、なんだか心地が良い。

「こんばんは」

「あの、デートの話で電話したんだけど」

「え、ああ」

 普通にデートって言われるのは妙な感じがする。

「明後日は空いてる?」

 それはまた急な話だなと思った。でも夏休みの宿題を終えてしまった僕には、スタンガンの光を見つめることしかやることがない。明日だろうと明後日だろうと。

 桐子の誘いを受け入れようと思ったが、ふと今週の天気予報を思い出した。

「僕は大丈夫だけど、明日明後日は天気悪そうだよ」

「別にいいよ。あなたと一緒なら」

 電話だから表情は見えない。どうして、そうやって本当の恋人のような台詞を口にするのだろう。どうせ明後日には別れるのに。

「僕も、桐子がいいならそれでいい。十時に駅で待ち合わせとかでどうかな?」

「ありがとう。じゃあ、十時にしよう」

「うん、分かった」

「うん……」

 小さな頷きのあとに続く言葉がなかなか出てこなかった。僕たちは数秒間、沈黙を交わし合った。まるで別れを惜しむ恋人のように。だが僕が何か言おうとして息を吸ったところで、桐子の方が先に声を発した。

「それじゃあ、楽しみにしてるね。おやすみなさい」

 僕もおやすみと返すべきなのか一瞬迷った。電話でおやすみと言い合うなんて、それも恋人みたいで気恥ずかしい。けど、今はまだ恋人のふりをしているのだから仕方がないとも思った。

「おやすみ」

 そう言って、そのまま受話器を置いた。桐子が更に返事をしたかどうかは確かめなかった。それを聞いたらまた迷ってしまうような気がしたから。


 ポジティブな予想は外れるのにネガティブな予想は当たるというのはよくあることで、結局デートの日に天気が悪くなるという予報は当たった。空は分厚い灰色の雲に覆われ、おまけに午後は雨が降るらしい。雨や曇りが好きな人にとってはこれが良い天気で、晴れの日が悪い天気なのかもしれない。あいにく僕はそういう人種ではないので、恋人と海を見に行くのにふさわしい空模様だとは思えなかった。だがしかし、桐子は天気が悪くても行くと言っていたので僕も外へ出なければならない。雨天決行、おやつは三百円まで、バナナはおやつには含まれない。

 スタンガンは誤作動が起こらないようにするため電池を抜いてからバッグに忍ばせた。9Vの角形電池を抜くとき、何か大事なものを取り上げられてしまったかのような寂しさを覚えた。黒い折り畳み傘もバッグに入れ、どこか侘しい空気感の漂う町中を歩いた。

 駅前に到着すると桐子が既にいて、僕のことを待っていた。ボーダーのシャツ、緑色のスカート、キャンバス生地の肩掛けバッグ。今までに見た桐子の中で一番女の子らしい服装だと思った。傘は持っていない。僕と同じようにバッグに折り畳み傘を入れているのだろう。

 近づいてみると桐子もこちらに気が付き、口元を微かにほころばせた。こういう瞬間がこれまでに何度もあったと思う。でも、なんだか随分と久しぶりに見たような気がしてならない。

 僕は桐子に声をかけた。

「おはよう」

「おはよう」

 桐子は僕と一字一句まで同じ言葉で返事をした。

「いつも桐子が先に着いてるね。待たせてごめん」

「いいよ。待つのも楽しみだから」

 それの何が楽しいのだろう。僕には想像できない。やっぱり桐子も心がない物体なのかもしれない。

「ふうん。てか、雨降るかもしれないけど、傘持って来た?」

「うん、それは大丈夫」

「分かった、じゃあ行こうか」

「うん」

 挨拶もそこそこに、僕たちは駅の中へ入ろうとした。すると、背後から僕の知っている声が聞こえてきた。

「あー!」

 その明るい声のする方を振り向く。

「霧島君と京極さん!」

 相沢という物体だった。私服姿で、犬に繋がれたリードを握っている。

「相沢」

「おはよう、二人はこれからお出掛け?」

「まあ、そんなところ。それより相沢って犬飼ってたんだね」

「え? ああ、言ってなかったっけ?」

「初めて知った」

「そっかぁ。この子、可愛いでしょ?」

 飼い主の言葉に反応したかのように、犬が黒くて丸い瞳で僕のことを見た。茶色と白の毛並み、耳が大きく、足は短い。僕は特に惹かれなかった。だが桐子の方を見てみると、彼女は目を輝かせながら言った。

「これって、コーギー?」

「うん。ていうか、京極さんと会って話すの久しぶりだね」

「あ、うん、そうだね……」

「学校で見かけることはたまにあったんだけど、なかなか話せなくて。電話がきて霧島君の番号教えてって言われたときはビックリしちゃった」

 そんなこともあった。桐子は相沢に僕の家の電話番号を聞いたんだった。

「ごめん、いきなり電話なんかしちゃって……」

 桐子はバツが悪そうな顔をした。

「ううん。そういえば、今日はどこに行くの?」

「ええと、海を見に行く」

「へぇー、いいなー! 曇ってるけど、そういうのも乙かもね。雨降るかもしれないから気を付けて」

「うん、大丈夫」

「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから私もう行くね。学校始まったらまた話聞かせて」

 そう言って、相沢は手を振った。僕も軽く手を上げた。

「じゃあね」

「バイバイ」

 僕と相沢は別れの挨拶を交わした。桐子は何も言わずに俯いていた。一体どうしたんだろう。相沢が後ろを振り向いて去ろうとした瞬間、桐子がいきなり叫んだ。

「相沢さん!」

 相沢がまたこちらに顔を向けた。僕も少し驚いて桐子のことを見た。桐子は何かを決心したような表情をしていた。

「あの、言っておきたいことがあるんだけど」

「うん? 心配しなくても霧島君を取ったりはしないよ」

「いや、そうじゃなくて……」

 桐子はちょっと口ごもったが、一旦息を吸って吐き、相沢の方をまっすぐに見た。

「ありがとう。一年のとき、私のこと気にかけてくれて。冷たくしちゃったけど、相沢さんがいなかったらもっと辛くなってたと思う」

 桐子がそんなことを言うなんて意外だ。僕は桐子と相沢の間に何があったのか詳しくは知らない。父親を殺そうとしていた彼女のことしか知らなかったから。

 相沢も嬉しそうに目尻を細めていた。

「京極さん……」

「相沢さんって凄いよね。私の気持ちとかもきっと分かってたんだよね」

「京極さんの気持ちは、私には分からないよ」

「えっ」

「でも関係ないの。私の目には京極さんが寂しそうに見えて、私の耳には辛そうに話しているように聞こえたから、それで私の心がチクチク痛むのが嫌だった。だから力になりたかっただけ」

 桐子は意表を突かれたような目をした。

「……それってただの自己満足ってこと?」

「今までは、そうだと思ってた。私余計なお節介して失敗しちゃったって思ってた。でも京極さんがありがとうって言ってくれたから、今初めて、そうしてよかったって思えた」

 相沢は喜びを噛み締めるように言った。桐子もそんな彼女を見て安堵したように息をついた。

「私も、やっとお礼が言えて良かった。クラス替わる前に言えなかったの後悔してたから」

「うん、私も嬉しい……。でも今は京極さんが羨ましいな。私にも素敵な彼氏がいたらなぁ」

 以前にも誰かが似たようなことを言っていた気がした。そして、すぐに思い出した。

「僕の友達も彼女を欲しがってたから紹介しようか? 高田っていう奴なんだけど」

「ホント? 霧島君の友達ならダブルデートなんかもできちゃうね」

 それは叶えてあげることができない。なぜなら、僕と桐子は今日別れるのだから。

 僕が曖昧な微笑みを浮かべると、相沢はにっこりと笑った。

「それじゃあ、そろそろ行くね。二人とも、バイバイ」

「相沢さん、また学校で!」

 相沢は今度こそ、振り返ることなく僕たちのもとから去っていった。桐子は後ろ姿が見えなくなるまで相沢のことを見つめていた。幸福感と達成感のようなものがにんまりと滲み出るのを抑えられない。そんな形の顔をしていた。

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