第5章
カタストロフィ
あの日以来、警察がうちに来ることはなかった。
僕は夏休みの宿題を早々に終えてしまい、やることがなくなった。自主的な勉強もする気になれない。部活にも入っていないからろくに外出もせず、大抵は家の中で一日を無為に過ごした。
家族が外出している間は、ずっとスタンガンの光を見つめていた。弾けるような白いスパークと、パチパチという乾いた作動音は、僕にとって感情の平穏そのものであった。
時が経つにつれて、視界がただの映像に見える現象が加速していった。いつしかお父さんとお母さんがただの物体にしか見えなくなり、彼らの声や言葉はただの音声となった。桐子のことも考えなくなったし、彼女からの連絡も来なかった。
夜もなかなか寝付けない。ある日、自室の壁にかかった時計に目をやると、ちょうど日付が変わるタイミングだった。七月三十一日から八月一日へ。
一九九九年の七月が終わりを迎える。恐怖の大王とやらは、結局最後までやって来なかった。
五感の情報によって作られた空間で一人立ち尽くし、ふと思った。
僕の人生はもう終わったも同然だ。人を殺してしまった。誰とも心を通わせられないどころか、僕以外に人間と思える存在すらいなくなった。全てがただの物体、あるいは物理現象と化してしまった。僕はこの世界でひとりぼっちだ。
ああ、そうか。
つまりこれが、人類の滅亡というものなんだな。
テレビゲームのジャンルの一つにFPSというものがある。画面に表示されているキャラクターを操作するのではなく、操作しているキャラの視界がそのまま画面に映り、自分がそのキャラになったような臨場感を味わいながら戦うゲームのことだ。ファーストパーソン・シューティングゲームというらしい。僕は現実の世界を普通に生きているはずなのに、永遠に終わらないFPSをプレイしているように現実味が感じられなくなってしまった。
八月中旬のある日、買い物の帰りに公園の前を通りかかると、見覚えのある後ろ姿が視界に現れた。公園の片隅で、おさげの女の子がしゃがんでいる。もしかしたら京極桐子という物体かもしれない。彼女を見たのは約三週間ぶりだ。なんだか懐かしくなって、彼女の背後に近づいてみた。
後ろからそっと覗き込んでみる。すると、彼女は蟻の行列を眺めているようだった。
「何してるの?」
声をかけると、素早く振り返って僕の顔をじっと見上げた。久しぶりの再会なのに無表情だ。
「蟻を見ているの」
彼女はそれだけ言って、また地面の方を向いた。
「潰しているの?」
「潰してはいない」
「そうなんだ」
「不思議だよね。あのとき全部殺しちゃったと思ってたのに、こうしてまた行列を作っているなんて」
それは不思議なことなのだろうか。僕は蟻の生態には詳しくない。
「よく分からないけど、蟻を見てて面白い?」
「今更だけど、蟻も死にたくないから生きてるんだよなー、なんて思ったりして」
桐子はボソッと呟くように言った。それからようやく立ち上がり、僕の方を振り向いた。目線が同じ高さになり、一対の大きな瞳が僕を捉える。薄桃色の唇が小さく開く。
「元気だった?」
「大体元気だった、と思う。桐子は?」
「まあ、警察とか色々大変だったけど……長くなるから今はやめとく」
桐子は少し俯き、おずおずと話を続けた。
「ねぇ、どうして電話してくれなかったの? ずっと待ってたのに」
実は僕もずっと桐子からの電話を待っていた――そう言おうか一瞬迷ったけど、やっぱりやめた。正直に答えることにした。
「最後に桐子と会ってから、僕もしばらくは桐子からの連絡を待っていた。でもそれも最初だけだった。いつの間にか電話の音を待たなくなったし、桐子のことも考えなくなっていた」
桐子はほんの少しだけ、目を見開いた。
「なんていうか……大丈夫? 何かあった?」
「大丈夫だけど、どうして?」
「本当にそうだったとしても、あなたはそんなこと口にはしない人だと思っていたから……」
僕はそんな人間だったのか。よく思い出せない。でも今は、自分が他人にどう思われていても別にいいと思っている。家族だって、本当の僕のことなど何も知らずにいる。
他人の存在が視覚による映像にしか見えないと感じながらも、ちゃんと物を考えて動いているんだということは、頭では分かっている。ただ、それがリアルに感じられないのだ。ゲームのキャラクターみたいに、予め用意されたプログラムによって会話をしているような。だから、桐子が僕のことをどう思っていても、もうどうでもいい。
まあ、それはそれとしてだ。他人に心がなかったとしてもそれなりにちゃんと会話を繋げなければ、相手は言葉や行動によって、僕に見聞きできる形で悪い影響を及ぼしてくる。
とりあえず桐子が自分を棚上げしているのを指摘することにした。
「でも桐子だって、僕に連絡を寄越さなかった」
「うん、それは悪いと思ってる。でもあなただったらどうするだろうって考えたら、電話が盗聴されてるかもしれないとか言い出しそうだなって。そう思ったら、なんか電話するのが怖くなっちゃって……」
僕もそこまでは思いつかなかったが。
「でもそれじゃあ、僕だって電話できないじゃないか」
「うん、そうなんだけど……あなたから電話してくれるなら、それはきっと正しい判断だから大丈夫だって思ってて、ずっと待ってた。ごめん」
ひょっとしたら、桐子は僕の考えや言葉に依存するようになってしまったのだろうか。彼女は一人で黒月殺害を決行しようとした結果、奴に気絶させられてしまったから。逆に殺されてしまってもおかしくはなかった。
「……分かった。連絡しなかったのはお互い様だから、もうお相子ってことにしないか」
「そうだね……そうしよう」
桐子は目を伏せた。
「ともかく、桐子が捕まっていなくて良かった。そっちはまだ家のこととか色々あるだろうけど、二学期からまた学校に通うことはできる。宿題はちゃんと済ませた? 分からないやつがあったら教えてあげられると思うけど」
「宿題は別に大丈夫だけど……」
「どうかしたの?」
「うん……」
弱々しく頷いたあと、視線を上げて僕の目を見た。その瞳には微かに迷いの色が浮かんでいるようにも見える。
「私たち、今まで付き合ってることにしてたじゃない? 作戦に必要だからって」
急にどうしたのだろうか。改めて確認することでもないのに。
「そうだね」
「恋人のふりするの、もうやめよっか」
え――。
桐子にどう思われてもいい。さっきまでそんなふうに考えていたのに、今の言葉で心がほんの少しだけ揺れたような気がした。僕の中で何かがざわめいていくのを認めざるを得なかった。
だが桐子の申し出を拒否する理由はない。黒月の殺害が完了した以上、僕たちが恋人のふりをする必要なんてどこにもない。
「うん、確かに続けることもないね」
でも――。
「あ、でも僕、相沢に言われてたんだ。夏休みの二人の思い出話聞かせてほしいって。どうしたもんかな、はは……」
みっともないことに、僕は抗おうとした。桐子がどんな存在であろうと、僕と彼女の間には何かしらの関係性というものがある。それが僕とこの世界を繋げている唯一の線のように思えて、断ち切られてしまうのが怖くなったのだ。
「……相沢さんに?」
桐子は首を傾げた。彼女は僕の抵抗より、相沢というワードに反応したように見えた。
「うん。まあ、気にしなくていいけど……」
「それじゃあさ、最後の記念になんか普通のデートしない? で、そのデートの終わりに別れたことにするの」
「普通のデート……?」
正直、戸惑った。桐子とは恋人としても友達としても、普通に遊びに行ったことなんて一度もなかったからだ。
「そ。遊園地でも何でもいいけど、どこか私と一緒に行きたいところはある?」
「行きたいところ、か……」
「夏休みにやり残したこととか、何かない?」
それは一つだけある。僕たちの殺人計画の、最後の後片付けが。
「スタンガン……」
「え?」
「スタンガンを、捨てに行きたい」
「私、普通のデートって言ったんだけどな……」
ムードの欠片もない発言に、桐子は露骨に肩を落とした。
「でも、スタンガンまだ捨ててなかったんだ? あなたのことだからとっくに処分してるのかと思ってた」
「家に一人でいるとスタンガンの光を見たくなって、何度も見てしまうんだ。だから、あるとまずいのにどうしても手放せなかった」
「別にいいけど……そしたら、海でも見に行く? デートもできるし、スタンガンも捨てられるし、一石二鳥ってやつだよ」
悪くない案だと思った。僕は京極桐子と一緒に海に行ってみたいと思えた。
「……分かった、そうしよう。ここからだと東京湾か九十九里浜になるけど、どっちがいい?」
「東京湾」
なんとなく、桐子ならそう答えると思っていた。秋葉原ですら楽しそうにしていたし、今でも東京への憧れがあるのだろう。桐子はそういうキャラクターだ。
「そうか、じゃあそれで決まりだね」
「私、あそこに行ってみたいんだけど」
桐子は東京湾沿いにある海浜公園の名前を口にした。ちょっと遠いけど、お金はそれほどかからないはず。退屈することもないだろうし、問題はなさそうだ。
「いいよ。いつ行く?」
「うーん、一応お母さんに言ってから電話するね」
その返事は意外だと思った。桐子の母は桐子に興味がないと聞いていた。黒月が死んだことによって何か変化があったのだろうか。それが桐子にとって好ましい変化だといいんだけど。
「分かった。そしたら僕はもう帰ろうと思ってるけど、桐子はどうするの?」
「私も行く」
桐子は公園の出口へ歩き出し、僕も続いた。
こうして桐子と肩を並べて歩くのも久しぶりな気がする。一緒に下校したり図書館に行ったりした日々が、なぜか遠い過去の出来事のように思える。実際には一ヶ月も経っていないのだが。
あの頃と同じように静かな住宅街の中を一緒に歩き、十字路のところで別れた。きっと遠くない未来に僕たちの行く末も枝分かれし、違う道へ進み出す日が訪れるのかもしれない。
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