幕間

京極桐子の物語2 ~邂逅~

 京極桐子が生まれ故郷の埼玉から千葉へ引っ越すことになったのは、ちょうど小学校から中学校へ上がるタイミングだった。黒月が二月に巡回に来たときに、その話を桐子に告げた。

「この春、お前らには千葉へ引っ越してもらう。この場所を知ってる女が壊れちまってな。何をしでかすか分からないから、俺もここに近づきたくないんだ」

 正直、黒月が何を言っているのかもよく分からなかったが、桐子にとってはどうでもいいことだった。友達と呼べる人もいないし、家がどこになろうと関係ない。この男が現れる場所はどこだって地獄なのだ。

 中学校に入学しても、桐子の周囲に対する態度は概ね変わらなかった。公立の学校なので生徒は近くの小学校から上がってくる者がほとんどで、クラスメイトたちは最初から誰かしら友達がいる状態であった。埼玉から引っ越してきた桐子には知り合いがおらず、人当たりも悪いのでクラスですぐに孤立した。桐子自身はそういう環境を苦に思わず、一人で静かに過ごそうと思っていた。

 だがしかし、休み時間に自分の席でぼうっとしていると、クラスの女子が話しかけてきた。

「京極さん」

「……何?」

「京極さんってどこの学校だったの?」

「別に、どこだっていいでしょ」

 今日も頭の中から人間作りの歌が聴こえてくる。

「あ、ごめんね。急に馴れ馴れしくしちゃって……」

 親しみやすい笑顔、肩まで伸びた清潔な髪、背は桐子より少し低い。いかにも清純派といった印象で、誰からも好かれそうな子だと思った。別にそういう人が嫌いなわけではない。が、興味もなかった。

「私、相沢っていうの。これからよろしくね」

 桐子は返事をしなかったが、相沢という女子は笑顔を崩さず、小さく手を振りながら去っていった。ああやって八方美人に振舞っているのも最初だけだ、当分は話しかけてこないだろうと、桐子は高を括った。

 だが予想に反して、相沢は事あるごとに声をかけてきた。一年を通して桐子の態度が変わることはなかったが、それでも彼女はお構いなしであった。

「おはよう、京極さん」

「数学得意じゃないかな? 分からないところがあるんだけど」

「マラソン、サボっちゃダメだよ!」

「夏休みはどこか行った?」

「社会科見学、京極さんの班はどこ行くの?」

「京極さん、あけましておめでとう」

「今日は寒いね」

「バレンタインのチョコ、みんなに配ってるからあげる」

 どうしてこんな自分と関わろうとするのか、桐子には理解できなかった。最初こそ鬱陶しかったが、いつしか嫌ではなくなっていた。

 三学期最後の日、修了式とホームルームが終わったあと、クラスメイトたちは教室に残り、それぞれ仲のいい友達と別れの言葉を交わし合った。桐子には別れを惜しむ相手などいなかったから、すぐに帰ろうと思っていた。が、なかなか自分の席から立ち上がることができなかった。桐子は期待してしまったのだ。相沢が自分のところに来て、話しかけてくれることを。

 相沢の様子を見てみる。まめな彼女らしく、クラスメイト一人一人に挨拶をしている。しばらく観察していると、相沢が桐子の視線に気付き目が合った。

 とっさに視線を逸らしたが、相沢はすぐさま桐子の席までやって来た。

「京極さん、まだ帰ってなかった!」

「あ、うん……」

「別のクラスになっちゃうか分かんないけど、ひとまずお別れだね」

「そうだね」

 今日は悪態こそつかなかったが、今までの彼女への態度を思い返すとなんだか気まずくなり、椅子から立ち上がった。

「京極さん、元気でね」

「うん、それじゃあ……」

 優しく微笑む相沢に軽く会釈だけして、そそくさと立ち去った。

 本当は、こんな自分に最後まで声をかけてくれたことが嬉しかった。

 本当は、最後に一年分のお礼が言いたかった。

 でもできなかった。今までの人生で、他人に優しくされたり感謝の気持ちを伝えたりするような生き方をしてこなかったから、言葉が上手くでてこなかった。


 二年生になると相沢とは別のクラスになった。けれども、桐子の心境にも変化が訪れた。ろくでもない家庭で育ってきたが、相沢のような優しい人間もいるということを知り、もう少し他人に心を開いてみようと思った。相沢に優しくできなかった分まで、誰かに優しくしようと決心した。

 新学期早々、一人の女子とよく話をするようになった。明るく、ストレートロングの髪が印象的な子だ。彼女は友達と何でも共有したがるタイプの人間で、秘密を共有できなければ友達じゃないとすら思っている節もあった。自分の悩みやコイバナ、嫌いな奴の話など何でも正直に話し、友情の証として桐子にも秘密を話すように求めた。

 桐子には片想いの相手や思春期らしい悩みなんてなかった。秘密といえば忌々しい両親の話だけだ。それしか話せることがなかったので仕方なく、かなり遠回しではあるけれど、家庭の事情の輪郭のようなものを打ち明けた。

 だがしかし、それが良くなかった。その女子は他の仲間にあっさりと桐子の秘密をバラし、尾ひれ背びれ胸びれ腹ひれが付いて、桐子は「何か卑猥なことをしているヤバい奴」ということにされた。一年生のときに桐子と同じクラスだった者が当時の悪態を話に付け加え、その信憑性が増していくことになった。

 結局女子の間で避けられるようになり、またしても孤立した。男子はあからさまに避けるようなことはあまりしなかったが、女子たちの空気を感じ取り、桐子とはなるべく関わらないようにした。

 仲間外れにされたことに対して、それほどショックは受けなかった。「やっぱりこうなっちゃったか」くらいにしか思っていなかった。

 桐子は小学校時代と比べると物事を前向きに考えられるようになっていた。今年一年がダメなら三年生から、それもダメなら高校から良くなっていけばいい。そう思うようにした。

 でも、やっぱり寂しいとは感じていた。僅かな間とはいえ、クラスメイトと普通に話をしていたときはとても楽しかった。誰でもいいから同年代の友達とまた話をしたいと思った。

 夏の始まりの日のことだった。桐子は体育倉庫の屋根の上でマラソンの授業をサボっていた。しかし、太陽が「そんなところでサボるな」と言わんばかりに熱い視線を送ってくるので、仕方なく屋根の上から下りた。すると、すぐ近くに知らない男子が座っていた。合同で授業を受けているクラスの男子だろう。体調不良のようで顔色が悪い。

 桐子は思った。別のクラスの男子なら私の噂なんて知らないかもしれない、と。

 クラスで孤立していた桐子は、この男子でもいいから話をしてみたいと思った。別に面白い話じゃなくてもいい。天気のこととか、授業のこととか、そんな何でもない話題で寂しさを紛らわせてほしい。異常な存在である自分に、少しでもまともな日常を感じさせてほしい。そう切に願った。

 その男子の隣に座り、おそるおそる話しかけ、会話を始めた。だが、彼の話は桐子の予想よりずっとぶっ飛んだ内容であった。

 彼は、人の死に触れると強い快感を得られるが、長い間それがないと禁断症状が起こる体質なのだと言った。もし本当なら自分なんかより遥かにヤバい奴である。たかが家庭の問題くらいで異常者だと自負していた自分が小物に思えるほどに。

 もちろん彼の話を信じたわけではない。が、なぜか「負けてられない」と対抗心を燃やし、父親への殺意について話した。相手が自分の悪評を知らない人だから話しかけたというのに。だが桐子の評判などもう地の底だ。これ以上悪い噂が増えても何も変わらない。だから話した。

 狙い通り、この話で彼をビビらせることができた。桐子はそれで満足してしまい、授業に戻った。

 しかし、翌日も彼と出会うことになった。学校の帰り道に公園の前を通りかかると、彼が隅っこにしゃがんでいるのが見えた。覗きこんでみたら、彼は必死に蟻の行列をプチプチと潰していた。

 このとき確信した、こいつは自分よりヤバい奴だと。俄然彼に興味が湧いてきて、一緒に蟻を潰すことになった。

 彼の名前は霧島拓斗だということを教えてもらった。桐子は、同級生の中でも異質な存在だと思っていた自分よりおかしい人間がいたことに救われた。霧島と異常さを共有するということに心地良さを覚えた。一緒にいて楽しいと思える人を久々に見つけることができた。

 そんな幸せも束の間、翌週桐子に災難が降りかかった。

 昼休み、いつものように自分の席で一人寂しく過ごしていると、クラスの中でもガラの悪い女子が三人、桐子の周りに集まってきた。

 リーダー格の女子が言った。

「あのさあ、京極。売春してるってマジ?」

 驚きのあまり、目を見開いた。私は何もしていない、私の家のことがなんでそんな話に飛躍しているんだと、耳を塞ぎたくなった。それに、今までは仲間外れにされたり離れたところで陰口を言われたりするようなことはあったが、直接的に悪意をぶつけられることはなかった。クラス中に響くような声量ではないが、近くにいるクラスメイトには普通に聞こえる声でそんなこと言われるだなんて思ってもみなかった。

「ち、違う……」

 反論するも目を合わせることができず、声が弱々しく震えた。そんな桐子を見て、取り巻きの女子が言った。

「でも、危ないパパがいるんでしょぉ?」

 違う、お前らが考えているようなことじゃない。。あいつはもっと異常なんだ。何も知らないくせに適当な噂に流されやがって。

 心の中で悪態をついたが、顔は泣きそうになっていた。素行は良くないが喧嘩なんてしたことないし、実は気が強いわけでもない。

「違う、私は何もしてない……」

 女子たちは桐子の言葉を無視し、黙ったままニヤニヤと卑しい笑いを浮かべた。

 どうして私だけがこんな目に……誰か……助けて……。

 桐子は無言で願った。だが、近くにいるクラスメイトたちは皆見て見ぬふりをしていた。

「おーい、京極」

 不意に名前を呼ばれ、桐子のみならず女子たちもその声のした方を見た。すると、高田という男子が桐子の席まで近づいてきた。今までの話を聞いていなかったのか、彼は呑気な口調で言った。

「なんか霧島が呼んでるぞ」

「えっ」

 先週体育の授業中に出会い、公園で一緒に蟻を潰した男の子。振り向いて見てみると、確かにあの彼が教室の出入り口に立っていた。

 女子たちも同様に霧島の姿を眺めながら、口々に不満を漏らした。

「お前、友達いたのかよ」

「あいつ、めちゃくちゃ頭いい奴じゃん。学年トップ10の」

「じゃあ京極もマジメちゃんかよ、つまんね」

「いいよ、もう行こ」

 勝手な捨て台詞を吐き、女子たちはあっけなく去っていった。

「じゃあ伝えたからな」

 そう言って、高田も自分の席へ戻った。突然の出来事だったので上手く返事ができなかった。ついさっきまで地獄のような状況だったのに、それが一瞬で霧散させられてしまったのだ。

 あまり待たせてしまうのも悪い。とりあえず桐子も霧島のもとへ向かうことにした。教室の出入り口の方へ歩きながら思った。

 彼がこのタイミングで現れたのはただの偶然だ。それは分かっている。でもこれじゃあまるで、私のことを助けに来てくれたみたいじゃないか。

 目が潤んだままだったが涙を零すのはなんとか堪え、霧島に声をかけた。

「こんにちは」

「あの……」

 霧島は口ごもった。一体何の用なんだろうと思った。

「どうしたの?」

「例の話なんだけど……」

 例の話とは何だと一瞬迷ったが、黒月を殺すことだとすぐに分かった。

「え? ああ、あの話」

「僕もその話に乗るよ」

「えっ?」

 こんな私の力になってくれるのだろうかと、目頭が熱くなった。人の魂を摂取しないと禁断症状が起こるというおかしい人が、父親を殺したいという私の異常な話に付き合ってくれる。

 霧島がどういうつもりなのか桐子は知らない。単純に禁断症状を抑えたいだけなのかもしれない。だが、それでも彼が自分のことを助けに来てくれたような気がしてならなかった。彼の顔を見つめるだけで、心が温かくなるのを感じた。

「放課後、校門の前で待ってて」

 涙が溢れてしまう前に、慌てて言った。

「え? ああ、分かった」

「じゃあね」

 ゆっくりと引き戸を閉める。ぎりぎり間に合った。最後まで閉めた瞬間に、綺麗な雫が一滴だけ頬に零れていった。

 こうして京極桐子は、夏休みに霧島拓斗と協力して黒月を殺害することになったのであった。

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