そうであってほしかった

 初老は数秒だけ警察手帳を見せて言った。表情がなく、話し方も淡々としている。それが却って底知れない雰囲気を出していて、気味が悪いと思った。

「一昨日の夜、この近くで通り魔事件があったのはご存知ですか」

「はい」

「殺された方のことは知っていますか?」

「はい……。僕の彼女の、お父さんです」

 無表情である初老の眉が、ピクッと動いたような気がした。桐子のことを彼女と言うのはやっぱり慣れない。

「その彼女は何という方ですか?」

「京極桐子さんです」

「そうですか。えーっとですね。一昨日の夜は、拓斗君は何をしていましたか? 別に何か疑ってるわけじゃないんですが」

「京極さんと会っていました」

「京極さんと何をしていたか、教えてもらっていいですか?」

「……これといって何かしてたわけじゃないんです。一緒に町の中を散歩したり、公園で話したりしただけです」

「公園以外の施設には行っていない、ということですか?」

「はい」

「一昨日の夜以降は、京極さんと話したり会ったりしましたか?」

「してないです。全く」

「ほう。じゃあなぜ通り魔に殺されたのが京極さんのお父さんだと知っているんですか?」

「えっ?」

「いや、最初に被害者のこと知ってるか聞いたら即答していたので、なんでかなって」

 確かにそうだ。でも、それってそんなに変なことか? もちろん自分が殺したからとは言えないが……。

 混乱しそうになったけど、落ち着いて考えたら不自然なことではないと気が付いた。

「お母さんがスーパーで他の人に聞いて、それで教えてもらったんです」

「でも京極さんからは何も聞いてないんですよね?」

「そうですけど、それが何か?」

「恋人の一大事ですよ。私だったら電話で訊くなりして、ちゃんと確かめるけどなぁ」

 確かにその方が自然かもしれない。慎重過ぎたのが仇になったか……。

 僕がなんとか反論しようとすると、お母さんが慌てて後ろから口を挟んだ。

「それは、私があたかも決まりきったことのような口ぶりで伝えてしまったんです。そうですよね、ちゃんと確かめるべきでしたよね」

「なるほど。拓斗君、それが理由ですか?」

 初老は僕から目を離さずに訊いた。

「……それもありますが、やっぱり今は電話したら迷惑だろうと思ったんです。なので、向こうから連絡が来るまで待つことにしました」

「なるほどなるほど」

 初老は空中のどこかを見ながら、意味ありげに顎をさすった。それからまた口を開いた。

「京極さんの家庭は色々事情があって、お父さんがたまにしか家に来ないんです。名字も違いますしね。で、一昨日の夜、お父さんが京極さんの家を訪れたんですが、その帰りに通り魔に刺されてしまいました」

 それが今更何だというのだろうか。僕は思わず唾を飲み込んだ。

「……はい」

「しかも、その日の夜京極さんは外出していて、お父さんとは会いませんでした」

「その日は僕と会っていましたからね」

「あれ、でもおかしいな」

「……何がですか?」

「京極さんは、公園の他にも墓地に行ったと言っていたんですよね。肝試しとかなんとかで」

「なっ……」

 言葉を失った。けど、桐子が言ったことに対してじゃない。この警察がさっきから僕を揺さぶろうとしていると気付いたからだ。桐子が墓地に行ったと発言したのも、こいつの嘘だ。おそらく混乱させて、墓地にいた人間しか知らないことでも言わせようとしているんだ。相手が子供だからって舐めやがって。

 怒りがふつふつと湧いてきた。それを悟られないよう、かつ堂々とした態度で言い放った。

「墓地には行っていません」

「ほぅ……」

 初老は何かを思い出すように首を傾げたあと、あっけらかんとした口調で言った。

「ああ、そうでした。墓地には行ってなかったんでした。記憶違いでした」

 何も話を引き出せないと思ったのか、あっさりと訂正した。

 僕がちゃんと指示をして、桐子はそれに対して「分かった」って言ったんだぞ。墓地なんか行ってるわけないだろ! 僕たちの信頼を舐めるな!

 僕は何も言わない代わりに、心の中で怒鳴りつけた。そんな想いを知ってか知らずか、初老は何事もなかったかのように話を続けた。

「お母さん、拓斗君は京極さんによく会いに行くんですか?」

「えっ」

 急に話を振られ、お母さんの声が上擦った。

「ええ……、週に何回か。夜に出掛けていくこともあります」

「うーん」

 初老は唸りながら白髪交じりの頭を軽く掻いた。

「お話はよく分かりました。拓斗君、最後に一つだけ確認。君は京極さんとは、学校のクラスは別々なんだよね?」

 今度は一体何だろう。なんでそんなことを訊くのか分からないけど、とりあえず普通に答えることにした。

「はい、そうです」

「野暮なことだけど、クラスが違うのにどうして京極さんと付き合うことになったのか、聞いてもいいかな?」

 どうして桐子と付き合うことになったのか、か――。

 改めて訊かれると、自分でも不思議なことに思えた。

「……そんなに面白い話じゃないです。たまたま体育の授業で話したら意気投合して仲良くなった……って感じです」

 僕たちは異常だ。でも、異常だからこそ出会うことができた。

 もし桐子が何も問題のない家庭で育ち、友達もちゃんといる充実した学校生活を送っていたら。体育の授業をサボって体育倉庫の屋根に上り、僕の目の前に下りてくることはなかったかもしれない。他クラスの僕に話しかけることもなかったかもしれない。僕に禁断症状がなかったら、興味を持たなかったのかもしれない。

 桐子と過ごしたこの一ヶ月間のことを思い出す。

「図書館で一緒にテスト勉強したり、お喋りしたり……」

 黒月を殺す計画を考えた。そのために必要な本を読んだ。

「公園で遊んだり、そのへんに出掛けたり……」

 一緒に蟻を潰した。殺害場所を下見した。林の中で奇襲の実験をしたら抱きつかれた。秋葉原で包丁やスタンガンを買った。

 そのどれもが僕にとっては大切な思い出だけど、青春と呼ぶには全てが歪で狂っている。

 僕は想像してしまった。僕たちが普通の中学生で、普通に出会い、普通の友達になれていたらどんなに良かっただろうと。僕に厄介な禁断症状はなく、桐子だって誰も殺そうとせず、それでも僕たちはどこかで知り合い、一緒に遊んだり勉強したりしているだけだったら、どれほど幸せだったろう。

 そんなのあり得ないことだ。分かっている。

 でも僕は、と、今心の底から思った。

「どうして、こんなことに……」

 僕の瞳から涙が一滴零れ、テーブルの上に落ちた。涙と一緒に、感情とか何か大切なものまで流れてしまったような気がした。

 僕に感化されたのか、後ろに立っているお母さんもすすり泣きしていた。僕は恋人の父親が殺されたことを悲しみ涙している、この場にいる誰もがそう思っているだろう。

 そんな様子を見兼ねて、若い警察が言った。

「係長……」

 話を切り上げようとしているのだろうか。好都合だけど、これを狙ったわけではない。嘘泣きじゃなく、僕は泣いているんだ。

 初老はふうっとため息をついた。

「そうですね」

 初老は立ち上がり、若い警察もそれに続いた。

「これでお暇させて頂きます。ご協力ありがとうございました」

「いえいえ……」

 お父さんとお母さんが頭を下げた。

「もし何か事件に関して気が付いたことがあったら、連絡してください。どんな些細なことでも構いません」

「もちろんそうします」

 お父さんはそう言って、警察の二人を玄関まで見送った。僕とお母さんはリビングに残った。

「ねぇ、こんなこと今は言うべきじゃないのかもしれないけど」

 お母さんが、目尻に溜まったものを拭いながら言った。

「拓斗が通り魔に殺されなくて本当に良かった……。みどりちゃんのときだって、拓斗も危なかったから……」

 潤んだ瞳と、想いを噛みしめるような声。僕にはそれが、流れ星が落ちる音のように遠くに感じられた。

 お母さんはこれから先もずっと、僕が犯した罪を知らずに生きていくのだろう。朝はおはようって言って、僕が帰ってきたらおかえりって言って、夜はおやすみって言って、お正月にはあけましておめでとうって言うんだ。僕が人殺しだとも知らずに。受験に合格したら大喜びして、仕事が決まったらお祝いしてくれて、誰かと結婚したら結婚式で涙を流すのだろう。その息子が人殺しだとも知らずに。

 そういえば黒月がこんな例え話をしていた。僕から見た桐子には心があるかどうかなんて分からない。心があるふりをしているだけかもしれない。それを確かめることはできない。今の状況と似ているじゃないか。お母さんは僕のことを真面目で良い子だと思っている。でも人を殺してしまった今の僕なんて、心がないも同然だ。でも、お母さんはそれを認識することができない。

 お母さんと僕が分かり合えることは、もう一生ないんだろうな。

 そう思うと、目の前にいるお母さんが心の通った人間ではなく、僕の眼球というカメラが映し出しているただの映像に見えてきた。お母さんだけじゃない。周りの風景の全てが、フルカラーなのに色褪せて見える。音も匂いも感触も、何もかもがこの世に実在するものではなく、僕の脳内で生み出されたただの情報に思えてくる。これじゃあ黒月と同じだ。

 だけど、もしも今視界に映っているお母さんという存在にも心があるのだとしたら、少なくともお母さんの心の平穏は守られた。僕は桐子以外の人間に知られることなく黒月を殺し、禁断症状を治めることができた。僕の両親は、自分の子供が人の死で快楽を得る異常者であることも、殺人犯であることも知らないままこれから先も生きることができるのだ。僕は今まで家族の平和と幸せを守るために、禁断症状のことを打ち明けずに生きてきた。僕の目的は達成できた。だから、これでいいんじゃないか。

 もう何も言わなくてもいいような気もしたけれど、僕は「ありがとう」とだけ言ってリビングから出た。二階へ行こうとすると、廊下でお父さんと呼ばれる存在とすれ違った。それには何も声をかけず、階段を上った。お父さんは不思議そうな目で僕を見ていた。

 自室に戻り、ベッドに座る。それから、スタンガンが隠されている引き出しをわけもなく見つめた。僕の意識の奥底にある暗い平原で何かが蠢き、静かな声で「プログラミング完了」と言ったのが聞こえた気がした。

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