事後
自宅に到着しリビングに入ると、真っ先に時計を確認した。
午後九時五十分。門限にはギリギリセーフだ。ホッと息をついてからようやく、「ただいま」とお母さんに言った。お父さんの姿は見えない。いつものように自室にいるのだろう。
「今日は遅かったのね」
平坦な声。特に怪しんでいるわけではなさそうだ。
「まあね……」
「あんまり女の子を遅くまで連れ回さないようにね」
連れ回すどころか一緒に人一人殺してきたところなんだけど、お母さんはもちろんそんなこと想像だにしていない。僕は曖昧な笑みを浮かべ、すぐにリビングから出た。
二階にある自分の部屋に入り、バッグの口を開ける。スタンガンはどこか遠いところで捨てるつもりだけど、それまではこの部屋に置いておかなくてはならない。
どこに隠すべきか少し迷ったが、余ったゴミ袋で包んで机の引き出しの中に入れておくことにした。ベッドの下とかクローゼットの奥とか、そういう変なところに隠すと却って見つかってしまうような気がしたから。それに部屋の掃除は自分でするし、基本的に家族が中に入ってくることはない。
後始末が終わり、ベッドの上に倒れた。ずっと気を張っていたからもうクタクタだ。人を殺すのって結構疲れるんだな。
そのままぼーっとしていると、外からぽつぽつと雨音が聞こえ始めた。好都合だと思った。これで僅かな痕跡も流れてしまうはずだ。天さえも僕に味方している。
他にやることも思いつかなかったので、今日は早めに寝ることした。お風呂に入り、歯を磨き、部屋に戻って消灯。
まどろみに落ちる前に、黒月のことを少し考えた。今この瞬間も、みどりが眠る墓地の前で、腹に包丁が刺さったまま雨に打たれている。見つかるのは明日の朝になるだろうか。明日から僕たちはどうなるんだろう。
そんなことを考えているうちに、僕もいつの間にか眠っていた。
その晩、夢を見た。
激しい雨が降りしきる中、墓地の前で黒月が倒れている。腹の真ん中には包丁の柄が墓標のように立っている。僕は黒月の傍らに立ちながら、「死体に墓を建てるなんて斬新だな」と声をかける。黒月は死んでいるので何も言わない。
黒月の隣に目をやると、みどりがいた。死んだ日と同じように血で汚れた白いトレーナーと水色のスカートを身に纏い、体育座りをしている。彼女も僕のことを見ているが、その顔に喜怒哀楽というものはない。強いて表情のようなものを挙げるとすれば、ちょっとだけ不思議そうな目つきをしている。まるで、自分が死んでいることにまだ気が付いていないかのように。
僕は思い出す。みどりは最期まで黒月のことが好きだったということを。この子は黒月が悪人だということを知らないまま生涯を終えた。それはある意味では救いなのかもしれない。
みどりのために黒月の包丁を抜いてあげることにした。死体が誰かに見つかるまで、親子で過ごす時間を作ってあげよう。
上から包丁の柄を掴み、まっすぐに引き抜く。すると、黒月の腹ではなくみどりの口から血が噴き出し、みどりは倒れた。
僕は冷たい雨に濡れながら、二つの死体の前で立ち尽くす。死んでいるはずの黒月の口が開き、最後にこう言った。
「プログラミング完了」
夢はそこで終わった。目が覚めると、墓地ではなく自室のベッドに戻っていた。自分に言い聞かせる。意味なんてものはきっとない。だってこれはただの夢なのだから。体を起こし、薄暗い部屋の中を眺める。すると、唐突な虚無感に襲われた。そう。意味はないけど悲しみはあった。僕はこの夢を、とても悲しい夢だと思った。
ふと思い出す。黒月は僕にスタンガンで攻撃される前、微かに笑っていた。結局あれは何だったのだろう。
しばらく考えてみて、ある可能性に思い当たった。
黒月はひょっとしたら、わざと自分を殺させたのではないだろうか。言葉巧みに誘導して。僕にはみどりが目の前で死んだというトラウマがある。あいつが言うところのプログラミングができる条件が揃っている。
どうして自分を殺させたのかは分からない。自分の禁断症状に対して思うところがあって、死に場所を探していたのだろうか。僕が同じ禁断症状持ちで、しかもみどりが死んだときに一緒にいた子供だということを知り、宿命のようなものを感じたのかもしれない。あえて僕を殺人に駆り立てるような話し方をしたのかもしれない。ひょっとしたら全部が全部、あいつの言葉通りというわけではないのかもしれない。
殺人を犯したのが自分の意志ならまだいい。けど、もし黒月に導かれてやってしまったのだとしたら、とんでもないことをしてしまったという気になってくる。取り返しのつかないことをしてしまったのか、これが黒月のプログラミングなのか。
疑心暗鬼に苛まれ、目の前が暗くなった。
黒月の死を他人の口から知らされたのは、夕方になってからだった。リビングでテレビを見ていると、買い物から帰って来たお母さんが血相を変えて僕に詰め寄ってきたのだ。
「拓斗! 京極さんのお父さんが……」
この町で通り魔事件が起こったって、スーパーで仲のいい店員さんに教えてもらったと言った。狭い町だ。おばちゃんネットワークですぐに色んな情報が集まり、被害者には京極という姓の家族がいることも聞いて、僕の恋人の父親だと確信したらしい。
僕はその話を聞いて驚いたふりをしなくてはならなかった。拙い演技がバレることもなく、お母さんは僕に言った。
「京極さんに電話してあげたら?」
今頃桐子の家には警察が来ているだろう。電話して変な印象を持たれるのはまずい。
「今はいい。きっと向こうは大変だろうし、連絡してくれるまで待つよ」
ここまで来てしまったら僕にできることはもう何もない。桐子を信じて、事が落ち着いたという知らせを待つことにした。
「そう、拓斗がそう言うならいいけど……。それにしても通り魔なんて怖いね。犯人まだ捕まってないみたいだし」
そりゃ、今あなたの目の前にいるからな。もちろんそんなことは口に出せないけど。
お母さんは気が気でない様子だったので、僕は生返事をして自分の部屋へ退避した。
スタンガンをどこかに捨てに行こうかとも考えていたけれど、結局行かなかった。外には警察がウロウロしているだろうから、スタンガンを持ち歩く気にはなれなかった。
こんなふうにして、今日は家から一歩も出ることなく終わりを迎えた。桐子からの連絡も来なかった。
次の日突然、僕の体に異変が起こった。ヘヴンズ・アゲインとは違った快楽が僕にもたらされた。保健体育の教科書で見た覚えがあったから読み返してみると、それは精通というものであった。
かつては死者から漂う生の残滓を感じ取ることによって快楽を感じていたのに、今は生、あるいは人間の素を体から出すことによって快感を得ていた。不思議なものだ。でもそれが禁断症状に影響を与えるわけではない。そのことは黒月の存在が証明している。
僕は丸めたティッシュペーパーをぼんやりと眺めながら思った。人間はどの時点から人間になるのか、ということを。
受精卵が着床したら? 手足が生えたら? 母親の体外へ出たら? 人間と人間でないものの境界線はどこだ? 人間の定義とは?
黒月は、人間はただの物体だと言っていた。本当にそれだけのことなのだろうか。発展途上の頭でしばらく考えてみたが、答えは出なかった。
そのあとはベッドで横になりながら、一階で電話が鳴るのを待ち続けた。欲しているのはもちろん桐子からの連絡だ。いつの間にか黒月のことは考えなくなり、目を閉じて桐子のことだけを考えるようになっていた。
僕には一つ気になっていることがあった。僕たちは黒月が死ぬ時間のアリバイを作るために、付き合っていることにしていた。黒月を殺してしまった今、恋人のふりも終わらせるのだろうか、と。
それともそんなことを気にしているのは僕の方だけで、言うまでもなく既に終わっているのか。分からない。恋人のふりをやめたら、僕と桐子はどういう関係になるんだろう。普通の友達なのか。僕は、僕と桐子がごく普通の友達としてこれから仲良くなっていく様が想像できない。クラスも違うし、恋人のふりをやめたら関わりがほとんどなくなるような気がする。そうなったら寂しいかもしれない。
もしかしたら僕は今の関係性を、恋人のふりを終わらせたくないのだろうか。もしかしたら僕は、桐子のことが好きなのだろうか?
そう思ったところで「ピンポーン」と玄関のインターフォンが鳴り、目を開けた。
宅配便でも来たのかな。特に気にも留めず、また目を閉じる。
しばらくすると、誰かが階段を上る音が聞こえてきた。トンタ、トンタ、トンタ、トンタ。
僕に何か用なのか。そう思った直後、ハッと息を吞み、すぐさま起き上がった。
もしかして桐子が来たのか?
トントントン。ノックの音と共に「拓斗」と呼ぶ声。桐子ではなくお母さんだ。当たり前か、いきなり部屋に入ってくるわけがない。
「はーい」
返事をするとドアが開かれ、お母さんが顔を覗かせた。が、その表情はえらく不安そうだ。
なんでそんな顔してるんだろうと思っていると、お母さんはおそるおそるといった様子で口を開いた。
「警察の人が来て……拓斗に話を聞きたいって……」
胸の奥で鼓動が強くなるのを感じた。
警察が来るのが思ったより早いなと思った。桐子に一昨日の夜何をしていたのか尋ね、僕と一緒にいたと聞いたんだろう。
家宅捜索とかされたりするのだろうか。その辺りのことはよく知らないけど、まだスタンガンは捨てていない。ゴミ袋に包まれたまま、机の引き出しの中でじっと息を潜めている。僕は焦った。
「分かったよ」
とりあえず話をするしかない。お母さんは心配そうに頷き、階段を下りていく。僕も立ち上がり、あとについていった。
リビングに入ると、二人の警察がテーブルの席に着いていた。一人は初老で背が高く、髭が濃い。もう一人は若くて小太り、肌が無駄に綺麗。
二人が僕を見たので、軽く会釈した。二人の正面の席の一つにはお父さんが座っていて、緊張した顔で僕に目をやった。その隣の席が空けられている。僕はそこに座った。椅子が四つしかないので、お母さんは僕の後ろに立った。
霧島家が全員揃うと、初老の警察が話を切り出した。
「霧島拓斗君ですね」
「はい」
「私は佐倉警察署の者です。今日は拓斗君に色々聞きたいことがあって来ました」
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