特別な人
黒月を殺すことは、おそらくそれほど難しくはない。こっちにはスタンガンがある。スタンガンを体のどこかに当てるだけで勝負は決まる。
僕の殺意を感じ取ったのか、黒月の顔から下劣な笑みが消えた。真剣な顔つきで、おちゃらけた声を出す。
「おおう、怖い怖い」
「どうした? 僕らは何もできないんじゃなかったのか?」
「それは隣にいるバカ娘だけだ。俺はな、人を殺せる奴と、そうでない奴を見分けることができるんだ。まあ、殺せる奴なんてのはほとんどいないけどな」
黒月は僕から目を逸らさずに続けた。
「だがお前は違う。お前は人間を殺せる人間だ」
それはお前と同じだからか? そう思ったけど、口には出さなかった。
代わりに、隣にいる桐子を見た。桐子も僕のことを見た。瞳が潤んでいて、今にも悲しみや恐怖が零れ落ちそうになっている。
でも彼女は、僕を見つめたままこくんと頷いてくれた。もう終わりにしようと、伝えてくれたような気がした。
僕はもう一度黒月を睨んだ。
「もう何も言わなくていい。これ以上、お前と話すことはない」
「そうか、そりゃ良かった。もう喋り疲れた」
「じゃあな」
そう言って、黒月に向かって突進した。距離は僅か三メートル。駆け出すのと同時にポケットからスタンガンを出し、スイッチを入れる。そして、右手を前方へ突き出した――。
その瞬間、僕は目を見開いた。
黒月は、全く抵抗しなかった。スタンガンを避けようとしなかったし、腕で防御することすらしなかった。棒立ちのまま微動だにしなかった。仮に避ける気がなくても、普通は本能で体が動いてしまうのに。
それから黒月の表情は……微かに笑っていた。敵意も怯えもなく、穏やかに顔をほころばせていた。
だがそれも一瞬の出来事だ。
僕は勢いを止めず、スタンガンの先端が黒月の胸に命中した。
「ぐっ」
黒月は呻き声を上げて、後ろに倒れた。体がピクピクと痙攣している。本で読んだ通り、気絶はしていないようだ。
人が来る前に事を終わらせなくてはならない。まずバッグの中に入れていた手袋とマスクを付け、ゴミ袋を取り出して黒月の体の上に敷いた。返り血を浴びないようにするためだ。
それから黒月の体に馬乗りになった。すると、桐子が僕の隣に来てしゃがんだ。
「桐子、包丁貸して」
「えっ、あっ、うっ」
久しぶりに桐子が声を発したような気がするけど、すっかりしどろもどろになっていた。震える手で包丁を手渡してもらう。僕は右手に包丁、左手にスタンガンを持つ形となった。
「ありがとう」
それだけ言って、黒月の体を見下ろした。ここまで来てしまったら、桐子とゆっくり話している暇はない。
理科の授業で学んだ人体の構造を思い浮かべた。心臓、肺、胃、肝臓、すい臓、胆のう、大腸、小腸、腎臓……。真面目に勉強していたから、何がどの辺りにあるのかはちゃんと覚えている。でも、どこを刺せばいいのかまでは授業で教わっていない。
胸は肋骨があるから無理そうだし、首を切るのは残酷だから嫌というわけではなく、単純に刃が通りにくそうだからやめることにした。
包丁を逆手に握り、とりあえずオードソックスに腹を一回刺してみた。
「うがああっ」
黒月が悲鳴を上げる。腹は思ったより硬い。一旦包丁を抜く。
「うるさいな」
左手を伸ばし、スタンガンを喉に当ててみた。すると、黒月の体がビクッと震え、醜い声は消えた。暗くてよく見えないけど、腹が血らしきもので滲んでいる。
もう一回腹を刺す。黒月がまた苦痛の声を上げる。スタンガンを喉に当てる。包丁を抜く。血が溢れ出す。
無抵抗の相手を包丁とスタンガンで交互に攻撃するのは、正月の餅つきに似ていると思った。杵で餅をつく。もう一人が餅を折り込む。杵で餅をつく。餅を折り込む。
ふと隣から荒い息が聞こえたので目をやると、桐子がボロボロに涙を流していた。
「うぅっ……あぁ……」
なんで泣いているのか知らないけれど、可哀想になったから構ってあげることにした。
「桐子」
「は、はいっ!」
桐子はなぜか敬語で返事をして、化け物でも見るような怖れに満ちた目で僕のことを見た。黒月ならともかく、なんで僕に怯えているのか分からない。
僕の心はちょっとだけ傷ついたけど、気を取り直して言った。
「期末テストの復習をしようか」
「え?」
そう、これは復讐にして復習。
「人間の体が動くのは、脳が体に電気信号を送るからだ」
「うん……」
「僕には一つ気になることがあるんだ」
視線を黒月の額の辺りに定める。
「スタンガンを頭に食らわせて電流が脳から伝搬したら、体はどんな動きをするのかってねっ!」
僕はスタンガンを振りかぶった。
すると黒月の眼球がぎょろりと動き、こちらを見た。
だが躊躇はしない。
黒月の額に目掛けてスタンガンを振り下ろした――。
「霧島君っ!」
桐子がいきなり叫び、僕に抱きついた。
僕は驚いた。なぜなら、桐子が初めて僕の名前を呼んだから。
「それは、やめて……」
「桐子」
桐子は掠れた声で言った。彼女の涙と体温が、僕の体をじんわりと温める。
「怖がらせてごめんね」
スタンガンを地面に置き、桐子の艶やかな髪を撫でた。
「そしたら、普通に殺すよ」
「え……?」
桐子は顔を上げ、ぽかんと口を開けた。
「こいつを二度刺してしまった。僕たちが何の罪も負わずにするためには、もう殺して逃げるしかないんだ」
目の前に、桐子の顔がある。マスク越しに呼吸の音が聞こえる。
「それに、僕の家は門限が十時なんだ。十時までに事を収めて家に帰るには、やっぱり殺すしかない」
「何を言って……」
「ごめん」
桐子を自分の体から離した。それから、もう一度包丁を逆手に構える。
すると、桐子が両手を僕の手に添えた。
「それなら私も一緒に罪を背負う。これは、私が始めたことだから」
相変わらず涙目だし、体がぶるぶると震えている。でも、それでも桐子は僕の手を優しく包み込んでくれた。
ふと、こういうのをどこかで見たことがあると思った。そして、すぐに思い出した。
結婚式のケーキ入刀だ。目の前にあるのはケーキではなく人間の体で、握っているのは無骨な包丁だけれど、確かにケーキ入刀の格好に似ている。
結婚した二人の初めての共同作業。桐子と結婚する予定は特にないけれど、彼女との最初の共同作業は何だっただろうかと思い出してみた。
それは、公園で蟻を潰すことだった。世界の終わりのような赤い夕焼け空の下で、僕たちは蟻を殺しつづけた。禁断症状を紛らわせようとする僕に、桐子はずっと付き合ってくれた。きっと楽しくなんてなかったはずなのに。
「ありがとう、桐子。これで終わらせよう」
黒月は苦悶の表情を浮かべながら僕を見ている。桐子ではなく、僕のことだけを見続けている。
「いくよ」
合図と共に僕たちは力いっぱい包丁を振り下ろし、銀色の刃が黒月の腹に深々と刺さった。
今度は叫び声が上がらなかった。手首を指で押さえてみると、脈拍が止まっていた。黒月は死んだのだ。
ヘヴンズ・アゲインが来ると思っていたけど、何も起こらなかった。きっかけとなったみどりの死について理解し、仇を討つことができたからだろうか。もう禁断症状も起こらないのだろうか。それは分からない。第一、黒月はなぜ抵抗しなかったんだ? なぜ攻撃される前に笑っていたんだ? 僕の心の中は、どうしようもない虚しさでいっぱいだ。
「行こう、桐子」
「うん……」
桐子は手を離し、立ち上がった。僕もスタンガンを拾って立ち上がり、桐子に向かって言った。
「包丁とゴミ袋はこのままにしておく。指紋は付けてないし、処分に困るからね。スタンガンは買ったときから僕の指紋が付いてるから、どうにかするけど」
桐子は黙って頷いた。もう涙は流していない。
僕はスタンガンと手袋をバッグに仕舞い、歩き出した。桐子も小走りで僕に追いつき、隣に並んだ。
僕たちは周りの気配に注意しながら、墓地の出入り口がある袋小路を抜けた。それから墓地の脇にある道路を歩き、住宅街の方へ向かった。この季節に二人でマスクをしているのはなんか変だから、僕だけ外すことにした。誰かとすれ違うだろうかとずっとドキドキしていたけど、運良く誰とも会わなかった。
住宅街に入ったところでちらほらと通行人を見かけるようになったが、ここまで来ればもう安心だ。あとで目撃情報があっても大して問題はない。僕たちがやったという証拠が見つからなければ完全犯罪の成立だ。
隣を歩く桐子を見た。もうマスクは外している。一度アスファルトの地面に倒れたが、服も汚れていないしケガもしてない。しれっと帰宅しても大丈夫だろう。
「桐子」
「何?」
桐子も僕の方を向いた。見たところ気分も落ち着いていて、いつもの桐子に戻っている。
「たぶん明日から警察に色々話を聞かれることになるから、口裏を合わせておきたい」
「うん」
「桐子と黒月はどうして林じゃなくて墓地の前にいたの?」
「……作戦通り林で黒月を待ち伏せしてたんだけど、あいつが目の前に来たとき、まるで何かを思い出したようにUターンして行ったの。後をつけたら墓地の入り口でずっと立ち止まってたから、後ろから近づいたらいきなりこっちを振り向いて、やられた」
タイミングとしては、僕が林に着く直前のことだったのだろう。あと一分早く来ていれば事態はどうなっていたか分からない。
「きっと罠だったんだね」
「たぶん。私も迂闊だった」
「桐子が家を出たのは何時?」
「黒月が来る直前だから、七時前くらい」
「じゃあ七時から十時までの間は町の中を散歩したあと、公園に行ってたことにしよう。図書館とかお店はダメだ。店員とかに裏を取られる。あと、この墓地に近づいたことも言わないで」
「分かった。上手くやるよ」
桐子は静かな声で答えた。さすがに笑みは見せなかったが、気を悪くしているということもなさそうだ。
それから細かい部分の口裏を合わせ、一通り話が済むと僕たちはまた黙った。「本当に殺しちゃったね」とか「これからどうしよう」とか、そういう弱音みたいなことも言わなかった。余韻といったら大いに語弊があるけど、殺人をしたあとにしか感じることのない空気感の中にいた。
ふと夜空を見上げてみる。お月様とお星様がキラキラと輝いている。どれが夏の大三角かなんて僕は知らない。それはまだ教わっていない。でもとにかく、人一人殺した犯罪者にはふさわしくない星空の下を僕と桐子は密やかに歩き続けたのだ。
先に桐子をアパートまで送ると、入り口の前で彼女が言った。
「あなたの初恋の人って、私の姉妹だったんだね」
黒月との会話は桐子もずっと聞いていた。今まで何も言わなかったけど、彼女としても思うところがあるだろう。
「そうだね……」
「助けに来てくれて、ありがとう」
桐子の言葉に、ハッとした。
僕はみどりを助けられなかったけど、桐子のことは助けることができたのか。
「あなたに助けてもらった命だから、もしまたあなたに禁断症状が起こったら、今度は私が死んであげる」
真剣な顔つき。冗談を言っているわけではなさそうだ。
「……そんなことをさせるくらいなら、僕はまた誰かを殺すよ」
「それは、ダメだよ」
「でも君が死んでしまうよりは、ほんの少しだけマシだと思う」
「えっ……」
「桐子は、僕にとっては特別な人だから」
桐子は数秒間、呆けた顔をした。それから、おずおずと口を開いた。
「ありがとう。あなたも、私の特別な人だと思う」
それがどういう意味での特別なのか、僕には分からない。
「うん、ありがとう」
でも最後に僕は笑ってみせた。
「……それじゃあまたね。おやすみ」
「おやすみなさい」
桐子も微かに、笑みのようなものを口元に浮かべた。そしてアパートの方へ振り返り、少し早歩きで帰っていった。
僕は彼女の細い背中を見届け、その場から立ち去った。
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