決戦

「桐子っ!」

 横たわる桐子に向かって叫んだ。すると、黒月が怪訝そうに僕のことを見た。

「ははーん。そういうことか」

 黒月は顎をさすって嫌らしい笑みを浮かべた。

 それを見て、しくじったと気付いた。もう僕と桐子が知り合いだということがバレてしまった。名前を呼ばなければ、ただの通行人として振る舞うこともできたかもしれないのに。

「……桐子に何をした!」

「別に殺しちゃいねえよ。俺のことをコソコソつけてたから気付かないふりをしておびき寄せた。ま、一発で気絶させたがな」

 理由は分からないが、待ち伏せから尾行に切り替えたのか。

「起きろっ! 人が来ちまったじゃねーか!」

 黒月は桐子の体を蹴った。

「やめろっ!」

 桐子の体がビクッと震え、手足が僅かに動く。それから目を覚まし、飛び跳ねるように起き上がって包丁を構えた。

 桐子は白いマスクと黒っぽい布の手袋を付けていた。彼女が冷静さを失っていなくて助かった。

 黒月は桐子のことは気にせずに視線を僕の方に戻した。

「お前、状況は把握してるみてえだし、通りがかりじゃねえな? このバカ娘に俺を殺す度胸があるなんておかしいと思ってたが、お前の入れ知恵か?」

 何と答えるが迷った。が、とりあえず黒月は無視し、桐子に向かって叫んだ。

「桐子、こっちに来て!」

 桐子は無言で僕の目を見た。包丁を構えながら、黒月を中心に半円を描くようにしてすり足で動く。

 僕の隣へ来た桐子の手は震えていた。黒月をそんな彼女を見て、鼻で笑った。

「バカ娘に用はねぇ。小僧、俺はお前と話がしたい」

 黒月は鋭い眼光で僕をじっと見た。僕が返答せずに睨み返すと、黒月は話を続けた。

「バカ娘が俺を殺そうとする理由は大体分かる。だが分からないのはお前だ。お前は何だ? なぜここにいる? なぜバカ娘の味方をする?」

 どうすればこの状況を打破できるか分からない。しかし、あえて正直にありのままを話すことにした。

「僕は魂を摂取すると快楽を得られる。摂取しないと禁断症状が起こる。だから桐子に協力した」

 事実だが、初めて聞いた人にとっては何を言っているのかサッパリだろう。これも一種の駆け引きだ。煙に巻いて突破口を見つけてやる。

「へぇ……」

 黒月は表情を変えないまま、顎をさすった。この反応は少し予想外だ。意味不明なことを言われて困惑している様子ではない。

「なかなか面白い話をするじゃねえか。作家か脚本家にでもなれるんじゃねえか?」

 桐子が初めてこの話を聞いたときと同じようなことを言った。この辺りはさすが親子といったところか。桐子にとってはとても不本意だろうけど。

「なるほど、なるほど。まあ、良しとするかぁ」

 黒月は首の裏を掻きながら気怠そうに言った。

 僕が黙って様子を伺っていると、黒月はなぜか地面に腰を下ろした。まるで酔っ払いのような緩慢な動きで。そして、そのまま大の字になって仰向けに寝転んでしまった。

「さあ、俺のことを殺していいぞ」

 あまりにも唐突な行動に、僕たちは啞然とした。何が起こっているのか理解できず、言葉を失ってしまう。

 ダメだ……。この男、何を考えているのか全然読めない……。

 しかし、怖気づく僕をよそに桐子が一歩踏み出した。

「ふざけやがって!」

 啖呵を切るが、包丁を持つ手は震えたままだ。

 まずいと思った。完全に黒月のペースに呑まれている。このままあっさりと殺させるわけがない。

「桐子!」

 僕は桐子の頭を冷やすために叫んだ。が、桐子は倒れている黒月に歩み寄り、馬乗りになった。包丁を逆手に持ち直し、刃先を黒月の体に向ける。黒月は動かないし、何も言わない。

 このまま桐子が黒月を殺して終わるのか……?

 桐子は包丁を両手で握り、顔の高さで構える。僕も思わず身構えた。ヘヴンズ・アゲインが起こるかもしれない。

 だが、なかなか包丁を振り下ろさない。僕にも聞こえるくらいに荒い呼吸をしながら、固まってしまった。

「はあっ、はあっ……」

 一体どうしたんだろう。あれほど殺したがっていた黒月が目の前で倒れているというのに。

 僕はわけが分からないまま立ち尽くしていた。すると、痺れを切らした黒月が口を開いた。

「お前には誰も殺すことはできない」

 その一言だけで、桐子は体に電気でも流れたかのように一瞬震えた。

「なぜなら、お前は凡人だからだ。特殊でも特別でも何でもない。どこにでもいる、ただのクソガキだからだ」

「違うっ! 私は、私は……」

 桐子は必死に黒月の言葉を振り払おうとするが、その声は虚しく響き、夜の闇の中へと吸い込まれていく。

 とうとう黒月が動き出し、体を起こそうとした。桐子はすかさず反応し、小動物のように素早く僕の隣まで逃げた。さっきまでの威勢が嘘のようだ。

 黒月はゆっくりと立ち上がって言った。

「お前は俺に立ち向かうことはできない。父親は自分では予測できないことを考えていて、自分ではその行動を上回ることはできない……と、そう思ってしまうようにプログラミングしてある」

 プログラミング? どういう意味だ?

 桐子の方を見てみる。マスクで顔の半分が隠れているが、目を見開き、恐怖で表情をこわばらせているのが分かる。事情は知らないけど、ことは明らかだ。

「……というわけで、俺もう帰ってもいいか? このことは不問にしておいてやるよ。小僧も本気で俺を殺す気はないみてぇだしな」

 次から次へと出てくる予想外の言葉に翻弄され、僕の頭は混乱した。気を強く持ち、なんとかして声を絞り出そうとする。

「不問? お咎めなしってことか?」

「ああ。こんなのはただの親子喧嘩だ」

 馬乗りになって包丁を向ける親子喧嘩がどこの家庭にあるっていうんだ。

 どうする? このまま見逃してもらう方がいいのか? 黒月の言葉を信用していいのか? 僕は何もしていないが、桐子はこいつに刃物を向けている。こいつが僕たちを騙して、通報とかしたらどうなる? やっぱり、こいつは読めない――。

 僕と桐子が口をつぐんでいるので、黒月はだるそうに話を続けた。

「帰りに娘の墓を遠くから見ていくだけのつもりだったのに、とんだとばっちりだったぜ」

 娘の墓――。

 僕の心臓が、ドクンと強く脈打った。

 その言葉を聞いた瞬間、黒い霧の中で何かが蠢くのを見たような感覚に陥った。手を伸ばして掴んでしまえば、簡単にその正体を知ることができる。でも、それを訊くのが怖い。このまま先に進んでしまえば、取り返しのつかない事態になる気がする。いわゆるパンドラの箱。できることなら、何も知らないまま黒月を帰したい。そして、元の日常に戻ってしまいたい。

 桐子はどう思っているんだろう。

 もう一度桐子の顔を見た。すると、彼女も僕を見ていた。その瞳は変わりなく切羽詰まってはいるけれど、さっきとは違い、怯えきってはいなかった。何かに到達しようとする意志のようなものが感じられた。

 桐子が隣にいる。この一ヶ月間行動を共にした彼女は、恋人のふりをしてくれた桐子という存在は、僕に少しだけ勇気をくれた。僕は強くなったふりをしようと思えた。

 今日一日、密かに予感していたことを思い切って訊いてみた。

「その娘の名前は、みどりか?」

 僕がその名を口にした瞬間、黒月の表情が変わった。奴は鋭い目つきで僕を見据えた。

「なんだ。お前知ってるのか? そういや、生きてれば桐子と同い年だったな」

「轢き逃げされて亡くなった、桜川みどりか?」

「……そうだ」

 目の前が真っ暗になった。本当は信じたくなかった。僕の初恋の女の子の父親がこんな人間だったなんて。

 でも、もう後戻りはできない。僕は最後までこいつの話を聞かなければならない。

「もしかして、子供が轢かれて死んだショックで、おかしくなってしまったのか? 色んな女と子供を作りまくってるらしいな」

 そう言いながら、矛盾しているということに自分で気付く。桐子とみどりは腹違いだが同い年の姉妹だ。この二人が生まれる前にはもう、複数の女と子供を作っていたことになる。

「何言ってんだ? あいつは俺が殺したんだよ。轢き逃げに見せかけてな」

「え……」

 呆然としてしまった。

 こいつ、今何て言った?

 殺した、だと?

 みどりを?

 父親であるこいつが?

「あっ、わりぃ。目的と結果が逆だった」

 黒月が言葉を発する度に、僕の体に悪寒が走る。目の前の暗闇がより濃密になっていく。

 だが、真実から目を逸らすわけにはいかない。僕は黒月に続きを促した。

「……どういうことだよ?」

「俺は自分の子供を殺したというより、最初から殺すために子供を作ったんだ」

「……は?」

 意味が分からない。やっぱりおかしなことになっていく。知らないままの方が良かったんじゃないのか。

 思わず桐子と目を合わせる。彼女の瞳にも絶望の陰りが見られたが、無理もない。桐子だって殺すために作ったと言われたようなものなのだから。

 僕は恐怖に抗うかのように、黒月を睨んだ。

「なんで、そんなことを……」

 声が震える。これ以上、何も知りたくない。

「それは、お前が今俺を殺そうとしているのと同じ理由だ」

 心臓が、止まりそうになった。

 だって?

 僕が桐子に協力しようと思った理由。黒月は僕と同じ境遇にあるというのか……?

「そんな、まさか、まさか……」

 そんなこと、あってはならない。みどりが殺されたのがそんな理由だなんて、決してあってはならないんだ。

「そう、俺にもお前と同じ禁断症状がある。子供を作ったのは、禁断症状を抑えたいときにいつでも殺せるようにするためだ」

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