幕間

京極桐子の物語 ~人間作り~

 京極桐子は一九八五年に埼玉で生まれた。両親は結婚しておらず、母子家庭であった。生まれたときからそうであったので、最初はそのことに疑問を抱いてはいなかった。

 周りと違うと感じはじめたのは保育園に入ってからだ。友達の家にはお父さんがいて、毎日家に帰って来るということを知った。だが桐子の家にも父親がいないわけではない。いるにはいる。ただ、毎日ではなく、月に一回程度しか帰って来ないのだ。そのことが話を余計にややこしくさせた。しかし、母親からは「仕事があるからなかなか帰って来ない」としか聞かされていないので、友達にもその通りに話し、納得してもらった。先生は事情を知っていたが、気を遣ってくれていた。

 自分の家が友達の家と違うと感じることは他にもあった。友達はお母さんのことを優しいだとか、どこかに連れて行ってもらっただとか、怒ると怖いだとか、色々話すのだが、桐子にはどの話もピンとこなかった。なぜなら桐子の母親は、桐子に対して最低限の世話しかしないからだ。食事や服はちゃんと与えるし、必要な指導もする。が、一緒に遊んだり、楽しく話をしたりするということはなかった。休日はテレビばかり見させていた。虐待や暴力はないが、愛情もない。まるで夏休みに昆虫でも育てているかのような接し方だ。

 たまに帰って来る父親も、桐子に対する態度は似たようなものであった。両親は桐子の存在をほとんど無視し、二人だけで話をした。母親は、父親といるときだけは感情のようなものを表に出していた。

 小学校に上がると、桐子もさすがにおかしいと気付き始めた。母親に尋ねてみたら、父親は黒月という名字で結婚はしていないことをあっさりと認めた。おまけに、黒月には自分たちのような女や子供がたくさんいることも白状した。母親はそのことを特に不快には思っていないようだった。

 そんな大人でも理解に苦しむ状況は、小学生の桐子にとっては尚更耐え難いことであった。なんで周りの家族はみんな幸せそうなのに、うちはこんなんなんだと思い悩んだ。

 やがて桐子の心は荒んでいった。誰かを攻撃するようなことはなかったものの、心に壁を作り、世界を呪い、クラスメイトに対しても冷たくなった。桐子が学校で孤立するようになるまで、それほど多くの時間はかからなかった。休み時間は机に突っ伏しているか、本を読むか、空ばかり見ていた。

 桐子の人格に致命的な影響を与える出来事が起こったのは、小学五年生のときだった。

 真夜中に妙な声が聞こえ、目を覚ました。自分の部屋から出て声のする方へ行ってみると、母親の寝室である和室の襖が開きっぱなしになっていた。豆電球の明かりだけが点けられている。その奥からは耳慣れない女の声。

 あの母親なのだろうかと思って中を覗き、桐子は目を見開いた。

 布団の上に知らない若い女が横たわっていて、その上に黒月が跨っていた。女は茶髪のロングヘアーでウエーブがかかっている。二人は服を着ておらず、全くの裸だった。

 何をやっているんだ、こいつらは。この女は誰だ……。

 小学五年生にもなると、彼らの行いの意味が分からないでもなかった。だがそれ以上に恐怖が体を蝕み、桐子は震えた。

 何より不可解なのは母親が家にいないことだ。あんな母親だが、今ほどそばにいてほしいと思ったことはない。

 黒月が桐子の存在に気付き、振り向いた。

「起きたか、桐子」

 細身で整った顔立ちの黒月の裸体は、男なのに妖艶ともいえる雰囲気を纏っている。それが却って不気味だった。髪はその名の通り黒く、月という字のように長い。桐子には彼がおとぎ話で人々を惑わす化け物のように見えた。

 獣のような眼光に射抜かれ、桐子は竦み上がった。

「お母さんは、どこ? それに、一体何を……?」

「一つ目の質問の答えは……そんなことはどうでもいい、だ」

「どうでもよくなんか、ない……」

「二つ目の質問は……」

 黒月は桐子のささやかな抗議を無視した。すうっと息を吸い、ゆっくり吐き出す。

「人間作りだ。俺は人間を作らなきゃいけないんだ」

 桐子には分からなかった。言わんとしていることは理解できるか、何もかもが歪んでいると思った。なんでうちではこんな不可解な状況が平然と成り立つんだと思った。

「そういえば、お前はまだ録音してなかったな」

「……録音?」

 わけが分からないが、自分も何かされるのか。桐子はその場にへたり込み、泣きそうになった。

 黒月は布団の傍らに置いてあるバッグから小型のラジオカセットレコーダーを取り出し、桐子の目の前に置いた。

「この歌をよく聞くんだ」

 そう言って再生ボタンを押した。数秒の空白のあと、何かが聞こえてきて、桐子は全身に鳥肌が立った。

 何なんだ、これは……。

 それは子供の合唱のようだ。とはいっても、音楽の授業で歌うような綺麗な歌や楽しい歌ではなく、嗚咽混じりで恐怖と絶望に満ち溢れていた。


 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。


 同じ言葉を無意味に繰り返しているだけだ。こんなものは歌とは呼べない。


 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。


 歌っている子供たちの苦痛が鼓膜を通して伝わってくる。聴いているだけで気が狂いそうだ。

 黒月は停止ボタンを押したあと、テープを巻き戻した。

「さあ、お前も同じように歌うんだ。学校でも合唱の練習はやるだろう?」

 目の前が真っ暗になった。これを私に歌えというのか、と。

「なんで……?」

「歌を聴きながら作られた人間がまた歌い、歌の一部となる。そして新たな人間が作られ、また歌う。そうやって歌はどんどん大きくなっていく。人間は失われるが、歌だけは残り続ける」

 桐子は絶句した。意味が分からない。怖がればいいのか、怒ればいいのか、黒月という存在にどういう感情を抱くべきなのか、それすら桐子には分からなくなっていた。

「さあ歌え!」

 黒月が凄む。その形相はまるで悪魔のようだ。

 できることならこんな気持ち悪い歌は歌いたくない。でも従わなければ絶対に何か良くないことが起こる。桐子はそう確信した。そこで寝転がっている女と同じ目に遭う可能性すらある、と。

「にん、げん、づくり……」

 おそるおそる歌い始めた。

「にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。にん、げん、づくり……」

「いいぞ。録音してやる。お前も歌になるんだ」

 黒月はラジカセを操作し、あの呪われた歌が再び流れ始めた。

 桐子は抗うことができなかった。声を震わせ、涙を流し、屈辱と不快感にまみれながら、口を動かした。

 桐子が歌い始めると、黒月はを再開した。


 にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。

 にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。にん、げん、づくり。


 時間の感覚が麻痺し、どれくらい経ったのかも分からないが、ラジカセから流れる歌が終わった。

 黒月はまたラジカセを操作し、バッグに仕舞った。

「俺たちはもう帰る。お前も自分の部屋で眠れ。目が覚める頃には母親も戻ってきているだろう」

 桐子はすっかり放心状態となっており、黙って頷くことしかできなかった。

 黒月と茶髪の女は身支度をし、あっさりと帰った。家に一人取り残された桐子は、何も考えることができず自分の部屋に戻り、枕を濡らしながら眠った。

 翌朝、目が覚めてリビングへ行くと母親がいたが、桐子には何も話しかけなかった。おはようの挨拶をしないのはいつものことだが、昨夜外出したとか、黒月に関する話とか、そういうことも一切話さなかった。

 桐子はすぐに理解した。経緯は知らないが、昨夜の出来事はこの母親も容認していることなのだと。そして、そんな相手に助けを求めても無駄だと思った。

 その後「人間作り」については誰の口からも語られず、ただの悪夢だったかのように、実際的な問題として浮上することはなかった。しかし桐子は時折夜中に目を覚まし、どこからともなく女の声を耳にするようになった。それが幻聴なのか本当に存在する声なのかどうかは分からなかったが、部屋の外へ確かめに行くことは二度としなかった。


 あの日以来、桐子の心は更に蝕まれていくことになった。人間作りの歌が、脳裏で延々と流れつづけていた。しかも自分の声まで録音されてしまった。なかば脅されていたとはいえ、あんな歌に参加してしまったことをひどく後悔した。いずれ他の子供が自分の歌と合唱させられるところを想像すると、吐き気を催した。何の因果か、この頃に初潮を迎えたことも桐子を不安定にさせた。同級生はみんな毎日楽しそうに生きているのに、なんで私だけがこんな目に遭わなきゃいけないんだと思った。

 だが桐子に対抗策はなかった。黒月や母親が桐子に明確な虐待をしたり暴力を振るったりしていれば、学校や児童相談所に助けを求めることができたかもしれない。だが彼らはそうではない。桐子に直接的な危害は加えないし、親として最低限のことはやっている。だからこそ余計にタチが悪かった。彼らはただ狂っているだけだ。狂っていて、気持ちが悪く、愛もなく、つまらない。

 そして何より、あの夜の出来事を他人に話すことなんてとてもできなかった。最悪の場合、そんな話をした自分の方が頭のおかしい子だと思われる可能性すらある。

 桐子は考えた。この異常な状態の中心にいるのは黒月だ。あいつをどうにかしなければ呪いから解放されることはない。それに、母親や女どもはともかく、他の子供たちは一体何をやっているんだ? あいつを野放しにしていいのか? 私は他の子供たちとは違う。私は特別だ。この状況をどうにかしてみせる。私ならできる。

 私はいつか、黒月を殺す――。

 桐子の苦悩は、いつの間にか黒月への殺意に変換されていた。頭の中で鳴りやむことのない呪いの歌を聴きながら、じっとそのときを待ち続けた。

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