Heaven's Again

 千葉駅に到着すると、僕たちは電車を降りた。もう陽は傾き、街が橙色に包まれている。乗り換えをするためにホームの階段に向かって歩いていると、桐子がふと向かい側のホームを見て立ち止まった。

「どうしたの?」

「あの人、なんか変じゃない?」

 桐子が指差した先を見てみると、二十代くらいの女性がいた。茶髪でウエーブのかかったロングヘアー。直立したまま、まるでホームの下を覗き込むかのように俯いている。近くに他の人はいない。

「落とし物でもしたんじゃない?」

 確かに変といえば変だけど、気になるというほどでもない。どちらかというと桐子の観察眼の方に感心した。彼女はジャンク屋の前でも、スタンガンが売られているのを歩きながら見つけていた。

 僕が返事をすると、ちょうど電車が向かい側のホームに到着しようとしていた。あの女性が落とし物を回収できるのは、電車が発車したあとになるだろう。

「ふぅん……」

 そう言って、桐子も歩き出そうとした。

 が、その次の瞬間だった。

 僕は今まで思い込んでいたんだ。

 交通事故や人身事故が僕の目の前で起こって禁断症状が治まる。

 そんな都合のいいことは起こらないって。

 そんな偶然滅多にないって。

 でも滅多にないということは、絶対ないとは言い切れないということで。

 僕は目を見開いた。

 それが今、起きてしまった。

 電車が女性の前を通る直前、彼女はホームの下へ飛び下りた。巨大な金属の塊に踏み潰され、手足が千切れ飛んだ。トマトケチャップが塗られた大根みたいに。

 そんな光景が、スローモーションの映像のように僕の瞳に刻み込まれた。

 女性は電車の下敷きになり、動かなくなった。誰がどう見たって死んでいる。ホームにいる乗客が次々に悲鳴を上げた。

 飛び込み自殺――。

 そう思った瞬間、と思った。

 突然、脳の奥底から強い快感が溢れ出すのを感じた。全身が温泉に浸かったときのように温かく気持ちがいい。


 き、きた!

 遂に天国だ!

 ヘヴンズ・アゲインだ!

 頭がドキドキする!

 祝福の! 風が! 吹いているかのよう!

 どこまでも! 墜ちていく!

 僕は無敵だ!

 ははははは!


 しばらくすると、黄金の竜巻のような高揚感は収まった。僕は周囲に悟られぬよう体の震えを抑え、恍惚とした表情を浮かべないように必死で我慢した。呼吸はなんとか整えているが、心臓は幸福の弾丸を乱射する機関銃のように鼓動していた。

 頭の中が、平原から仰ぎ見る大空のように澄み渡っている。周囲の喧騒が鼓膜を震わせ、僕の脳内に響き始める。自殺者が出て大騒ぎをしている。

 気が付くと、目の前にいる桐子が明らかに困惑した顔で僕を見ていた。その瞳には驚きと不安の色が宿っている。桐子がこれほど動揺しているのを見るのは初めてだ。何も知らない人であれば、僕が悲しみで震えているように見えるはずだけど、やはり桐子には見抜かれたみたいだ。

「ごめん、

 声をかけてやると、桐子は少し後ずさりをした。

「まさか、今のが……」

「うん、これが魂を摂取するってこと。禁断症状はとりあえず治ったよ」

 桐子は何かに気付き、ハッと息を吞んだ。

「まさか、作戦を中止するだなんて言わないよね!?」

「えっ?」

 そう言われて、僕も気付いた。魂を摂取して禁断症状が収まった以上、僕が桐子の殺人に関わったり、ましてや協力したりする理由なんてどこにもない。

 今の僕は思考がとてもクリアになり、物事を合理的、倫理的に考えることができる。思えば、誰かを殺そうだなんてどうかしていたんだ。そんな危険なことを考えていたのも、それ自体が禁断症状の一部だったのかもしれない。

 桐子の目をまっすぐに見て、彼女にしか聞こえないようボリュームを抑え、はっきりと告げた。

「やっぱり、殺人なんてダメだよ」

 すると、桐子は僕の両肩を乱暴に掴み、必死に叫んだ。

「今更何言ってるの!? あいつのいない世界が、すぐ目の前まで来てるんだよ! もう少しで届くんだよ!」

「ダメだ。何か別の方法を考えよう」

 桐子は目を見開き、僕の体を軽く突き飛ばした。

「私は一人でもやるからね! 別にあなたがいなくても!」

 捨て台詞のような言葉を吐き捨て、僕に背を向ける。そして、人混みを縫いながら階段の方へ走り去ってしまった。

 無理だ、と僕は瞬時に思った。スタンガンは今、僕のバッグの中にある。包丁だけで、大人の男を相手に何の痕跡も残さず殺人を完遂するのは難しい。そのことは桐子にもちゃんと教えた。あとで冷静になって思い出して、諦めてくれるといいんだけど……。

 もう一度向かい側のホームを見てみる。ブルーシートを持った作業員たちが、遺体が見えないように周りをぐるりと囲っている。しばらく電車は動かないだろう。ホーム上にいる人たちは、戸惑いながら別のホームへ移動しようとしている。僕は死んでしまった女性に対して心の中で合掌をし、階段へ向かって歩き出した。

 次に乗り換える総武本線のホームは離れた場所にあった。ホームへの階段を下りると、ちょうど電車が発車した直後だった。桐子はこれに乗って先に帰ってしまっただろう。僕は数分後に来る次の電車で帰ることにした。

 それから一人寂しく電車に乗り、最寄り駅に着き、歩いて家まで帰った。リビングに入って、ただいまとおかえりを交わしたあと、お母さんが楽しそうに言った。

「ねぇ、今度京極さんをうちに連れて来てよ。お母さんも会ってみたいわ」

 すると、お父さんがすかさずフォローした。

「こらこら、まだ中学生なのに気が早いって」

 そんな二人のやり取りを聞いて、もの凄くバカバカしくなった。桐子がこの家に来るなんてあり得ないことなのに。

「お父さんの言う通りだよ」

 僕は普段通りの笑顔を浮かべて言った。そしてリビングから出て、力なく階段を上り、自分の部屋に入って照明を点けた。

 ふと、自分の部屋の様子に強烈な違和感を覚えた。

 いつも部屋の真ん中に立っていた幻覚のみどりが、いなくなっていた。

 一瞬驚いたけど、よく考えたら当たり前のことだ。僕は再び魂を摂取して、禁断症状が治ったのだから。幻覚だって全て消えるのが当然だ。

 今までの経験から考えて、少なくともこれから数年間、禁断症状は起こらないだろう。

 もしかしたら、もう会えないかもしれないのか――。

 無意識のうちにそう思った。

 ここ数週間、彼女が部屋の真ん中にずっといたからとても邪魔だった。触らないようにするのが大変だった。触ると蟻の幻のように赤い液体を撒き散らすだろうと思っていたから。

 だがしかし、驚くべきことに今の僕はちょっと寂しいと感じていた。実在しない、自分の精神異常が見せていた幻にまた会いたいと思っていた。だって僕の初恋の相手である彼女は死んでしまって、もう二度と会えないんだ。この部屋の空白と同じように、僕の心の中にも空白が生まれてしまったような気さえする。

 禁断症状は一旦収まった。殺人もやめることにした。どう考えたって、全てが正しい方向へ向かっている。

 なのに、どうしてだろう。この少し広くなった部屋と、僕のもとから去ってしまった桐子のことを考えると、今の自分の方が間違っているという気がしてならない。

 どうしてなんだろう。

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