人を殺すのに足る理由

 翌朝目を覚まし照明を点けると、心臓が止まりそうになった。室内が明るくなるのと同時に、部屋の真ん中に血塗れの女の子が現れたのだ。昨日と同じように赤く染まった白いトレーナーと水色のスカートを纏い、空虚な瞳で僕の顔を見つめている。

 叫ぶのはなんとかこらえることができたけど、みどりが現れた途端に頭が痛くなってきた。彼女は何も言わずに、じっと立ち尽くしている。

 僕はできるだけ心を鎮めようとした。みどりに触れないように、避けながらドアの前まで移動してみる。彼女は僕に近づこうとせず、体の向きだけを変えて僕のことを見続けた。「助けて」とも言わなかった。

 やはり禁断症状は深刻だ。この土日はテスト勉強をしようと思っていたけど、こんな状態で勉強なんかできる気がしない。

 恐怖で疲れ切った脳をなんとか働かせ、考えてみる。

 これまでの人生で禁断症状は何度も起こったけど、こんなに酷い幻覚を見たのは初めてだ。どうにかしなければならない。

 観念して、家族に打ち明けるべきだろうか。それも何度も考えた。でも気が進まない。人の死に立ち会うと強い快感を得られる。しかし、死に触れない期間が長い間続くと禁断症状が起こる。自分の子供がこんなわけの分からない精神病だと知ったら、父さんと母さんはとても辛い思いをするだろう。僕の家は、何の問題もない幸せな家庭なんだ。そこに悲しみをもたらすわけにはいかない。

 それに、これは僕がどうにかすればどうにかなる問題なんだ。禁断症状に耐えるか、禁断症状を治めるか。方法は二つもある。

 でも禁断症状に耐えるのは……正直難しいと思う。期限付きならできなくもないけど、この先ずっと我慢するというのは到底無理だ。となると、やはりどこかで人の魂を摂取することによって鎮めるしかない。

 近い将来に死にそうな人は特に思い浮かばない。爺ちゃんと婆ちゃんは全滅してしまった。

 他に人が死ぬ状況で身近なことといえば、交通事故がある。駅のホームから電車に飛び込む人だっている。死者は毎日日本のどこかに現れる。だが、それに居合わせるなんてことは滅多にない。僕だって、以外には見たことがない。狙ってできることじゃないだろう。

 残された選択肢は一つしかない。僕は意識的に頭の中から除外していたけれど、それを検討しないわけにはいかなくなった。

 京極さんがお父さんを殺すということ――。

 僕が本気なのかと尋ねたら、彼女はうんと答えた。僕が魂を欲しても欲さなくてもやると言った。そう、どっちにしろ殺人を犯そうとしているんだ。なら、僕が彼女のお父さんの魂をいただいたところで何も変わらないのか?

 その場合、僕は彼女の殺人に協力しなければならないのだろうか。それは分からない。殺す理由だって、お父さんが色んな女に子供をたくさん産ませる異常者だからとしか言っていなかった。もちろん、そんなのは殺してしまうほどの理由にはならないと思う。

 もしかしたら他にも理由があるのだろうか。僕には話していない何かが。いや、仮にそうだとしてもだ。? 僕にはよく分からない。たぶん、大人の人でも分からないと思う。

 ともかく、京極さんともう一度話をする必要がある。僕がどうするべきなのかは、そのときに考えればいい。

 そこまで考えたところで、部屋から出て一階に下りた。

 今日は土曜の登校日だ。けど、念のために休むことにした。お母さんが何回か部屋に来たが、予想通り幻覚の子のことは見えていなかった。


 週明けになっても頭痛は続いた。けれど僕はおくびにも出さず真面目に授業を受け、休憩時間には友達と馬鹿話をして笑い合った。どこからどう見ても普通の中学二年生だ。人の死で快楽をキメるような奇人には見えない。今日の給食は食パンじゃなかったから、ジャムやハチミツで死という文字を書いて食べるということもなかった。

 昼休みの時間に、京極さんに会いに行くことにした。

 隣のクラスの後ろ側の出入り口に立つと、少し緊張した。たださえ他の教室まで行くのは珍しいことなのに、今日は女子を訪ねるのだ。そんなことをするのは初めてだ。

 開きっぱなしになっている引き戸からひょっこり顔を覗かせ、近くの席にいる男子に声をかけた。眼鏡をかけた背高のっぽで、去年同じクラスだった高田という友達だ。

「おーい」

「ん? ああ、霧島か」

 高田は立ち上がり、出入り口まで来てくれた。

「ちょっと京極さんに用があるんだけど、呼んできてくれないかな」

「京極ぅ? まあ、いいけど」

 高田は教室の一番後ろ側の窓際の机へ向かった。京極さんが席に着いていて、その周りに何人かの女子が立っている。なんだ、あの人にもちゃんと友達がいるのか、と失礼なことを思った。父親を殺すとか言っちゃう変な人だから、友達がいないのだと思っていた。休み時間はずっと一人で怪しげな本を読んでいるような。

 高田が京極さんの席に近づくと、彼女と周りの女子が彼を見た。高田が何かを言い、京極さんは立ち上がる。高田と女子たちはそれぞれ自分の席に戻っていき、京極さんは僕のもとへやって来た。僕は彼女の顔を見て、驚いた。

 京極さんは涙ぐんでいた。何かあったのだろうか。

 引き戸のレールを境に、僕は廊下、京極さんは教室に立っている。

 京極さんが静かな声で言った。

「こんにちは」

 僕の知っているどこか飄々とした調子ではなく、今にも消え入りそうな声色だ。

「あの……」

 僕は困惑した。ここで立っていたら、邪魔になってしまう。でも、場所を変えて人殺しの話ができるような雰囲気ではない。

「どうしたの?」

 手短に用件を伝えなくちゃいけない。

「例の話なんだけど……」

「え? ああ、あの話」

 彼女はすぐに理解できたようだ。察しのいい人で助かった。

「僕もその話に乗るよ」

「えっ?」

 京極さんは小さく驚きの声を上げた。僕も自分が言ったことなのに少し驚いた。本当はもう一度彼女の話を聞いてから決めるつもりだったから。

 でも実際に会って、彼女の零れない涙を見た瞬間、僕は確信した。彼女も何か大きな闇を抱えていて、救いを求めているのだと。この人も僕と同じなんだと。

 京極さんが本当に殺人を犯すのかどうかは分からない。けど、どんな形でもいいから彼女の力になってあげたい。要は、今目の前でなぜか泣きそうになっている女の子を、言葉だけでも元気づけてあげたかったんだ。

 背の高さが同じくらいである京極さんが、同じ目線の高さでまっすぐに僕を見た。それから、ほんの少しだけ顔を近づけて言った。

「放課後、校門の前で待ってて」

「え? ああ、分かった」

「じゃあね」

 それだけ言って、京極さんは引き戸をゆっくり閉めてしまった。はたして彼女を励ますことはできたのだろうか。

 僕は閉ざされた扉の前で一人立ち尽くした。やがて、背後に誰かがいて通行の邪魔になっていることに気付き、自分の教室へ戻った。朝から続いていた鈍い頭痛は、いつの間にか治っていた。


 放課後、誰とも無駄話をせずに校門へ向かった。僕の方が先に着いたので、校門の脇の目立たないところで京極さんを待った。帰りに女子と待ち合わせするのも初めてだったから、またもや緊張することになった。でも、汗をかいているのは暑さのせいだ。僕は夏の青空を眺めながら心を落ち着けようとした。

 ほどなくして京極さんも校門まで来た。すぐに僕のことを見つけ、声をかけてきた。

「とりあえず行こ」

 挨拶もなくそれだけ言って、スタスタと歩き出した。僕は慌てて彼女の横に並んだ。

「ど、どこに行くの?」

「うーん。落ち着いて話せる場所ならどこでもいいけど……また公園に行く?」

 先週公園で京極さんと会った。それから二人で蟻を大量に潰した。そのせいで昨晩蟻の幻覚に襲われたことを思い出し、僕は顔をしかめた。

「ごめん、公園はちょっと……」

 京極さんは僕を見て不思議そうな顔をした。

「そう? でもお金かかるところは嫌だしなぁ」

 そう言って頬に手を当て、うむむと唸る。

「じゃあ、私の家でいい? お母さんは仕事でいないから」

「えっ!?」

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