幻の君

「ただいま」

 帰宅してリビングに入ると、台所にいるお母さんに声をかけた。

 僕の家は金持ちでも貧乏でもなく、まあ普通の家庭だと思う。リビングにはテレビ、木製のテーブル、黒いソファー、シルバーメタリックのMDコンポなんかが置いてあって、夕方のニュースでペットロボットが発売されたという話題が流れている。

「おかえりー。今日は友達と遊んでたの?」

「うん、そんなとこ」

「テスト近いのに大丈夫?」

「大丈夫だって」

 別に遊んでいたわけじゃないし、京極さんを友達といっていいのかも分からない。とりあえず生返事でやり過ごし、すぐに二階へ上がった。

 自分の部屋に入り、制服から着替え、ベッドに腰を下ろす。今日は慣れないことをしていたから、妙に疲れてしまった。

 そのまましばらくぼーっとしていると、自分の左腕――手の甲と肘のちょうど中間辺りに何かが付いていることに気が付いた。

 蚊がいるのだろうかと思って目をやると、そこにはなぜか一匹の蟻が息を潜めているかのようにじっとしていた。

 僕はその蟻に対して、不気味さのようなものを感じられずにはいられなかった。家の二階に蟻がいるだけでも普通じゃないのに、それがいつの間にか自分の腕に現れた。僕は半袖のTシャツを着ていて腕は露出しているのに、蟻が腕の上を歩く気配は全く感じなかった。こいつは手品のように、突然腕の中心に出現したのだ。

 しかし、得体の知れないことは確かだけど、京極さんの言う通りたかが蟻だ。捕まえて、ティッシュでくるんで捨ててしまえばいいだけだ。

 蟻をそのまま手で摘まもうとした。公園では石を使って蹂躙してしまったけれど、自分の腕にくっ付いている奴を潰すのはさすがに気持ちが悪い。今だけは事を穏便に済ませたい。

 右手の親指と人差し指でゆっくりと、赤ちゃんと握手をするときのように、優しく蟻に触れる。

 ぷちんっ。

 突然に、不自然な音が鳴った。まるで人間の体の筋が伸びきって千切れたかのような、小さいけど妙に耳に残る音が。

 それと同時に赤い液体が噴き出し、僕の右手の指と左腕に飛び散った。

 え……?

 大した量ではない。せいぜいトマトジュースを少しこぼした程度だ。

 だが呆然とした。この液体は、血にしか見えない。なんで蟻に触ったらいきなり血が噴き出したんだ?

 蟻が赤い血を出すなんて話は聞いたことがない。僕は今日公園で散々蟻を殺したじゃないか。その度に蟻が赤い血を出していたら、公園が真っ赤になってしまっている。

 いや、そもそもこの血はどう見たって蟻の体の体積より多い。これが蟻の血であるわけがない。

 じゃあ、

 そう思った瞬間、まさに血の気が引いた。

 これは僕の血なのか……?

 体のどこかが傷ついたり痛んだりしているという感覚はない。

 左腕の、赤い液体に濡れた部分に目を凝らしてみる。

 あれ……?

 僕は再び我が目を疑うことになった。

 蟻が、いなくなっていた。腕の表面にあるのは、謎の赤い液体だけだ。右手の手のひらを見てみても、蟻らしきものは欠片も存在しない。

 何なんだよ、これ……。

 額に汗が浮かび、鼓動がどんどん早くなっていくのを感じた。一体何が起きているのか、見当もつかない。

 混乱しながらも、まずはこの赤い液体を拭かなければならないと思った。できれば水で綺麗に洗い流したいけど、洗面所に着く前に家族に見つかったら何と説明すればいいのか分からない。

 ベッドの下の引き出しからタオルを取り出そうと思った。

 が、右足の膝の上に何かがくっついているのを見つけ、息が止まりそうになった。

 また、蟻だ。蟻が全く気配を感じさせることもなく、いきなり膝の上に現れた。

 パニックになり、ほとんど反射的に蟻を右手で払おうとした。

 ぷちんっ。

 右手が蟻に触れた瞬間、何かが千切れるような嫌な音がした。さっきと同じように赤い液体が飛び散り、蟻の姿は消えた。

 息を荒くしながら、呆然と膝を見つめる。赤い液体がゆっくりと脛まで垂れている。

 嫌な予感がして、もう一度自分の体を点検してみる。

 今度は右腕に蟻が現れた。声はなんとか押し殺しているものの、僕は半狂乱になって蟻をはたいた。

 ぷちんっ。

 謎の液体が、赤い花を咲かせるように噴き出した。その様を目でしっかり確認すると、血眼になって次の蟻を探した。

 奴らは一匹ずつ現れるようだ。集団で襲いかかってくるわけでもなく、どこかから歩いてくるわけでもなく、ただ一匹ずつ、僕の体のどこかに突然現れる。触れると、血のような液体を噴き出して消滅する。

 左足の太ももに、次の蟻を見つけた。きっと触らなきゃいいんだろうな、ということは理解している。それでも僕は触らずにはいられなかった。蟻が視界に入ると、殺さずにはいられなかった。左足の太ももの蟻も、赤い液体を散らしながら消え去った。

 順番に現れる蟻を狂ったように消していく。今この部屋で何が起きているのかも理解できぬまま。

 ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。

 蟻の血爆弾が次々に破裂していく。

 ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。ぷちんっ。

 気付けば体中が真っ赤に染まっていた。血の入れられた水鉄砲で撃たれまくったような気分だ。

 それから、ふと思った。

 もしかしたらこの蟻たちは、昼間に公園で殺したのと同じ数だけ現れるのかもしれない。一体何匹殺していただろうか。何匹潰せるか京極さんと勝負していたけれど、途中から数えるのをやめてしまっていた。こんなことになるなら、ちゃんと数えておけば良かった。

 ぜえぜえと肩で息をしながら次の蟻を探す。体の隅々まで点検する。すると、蟻がどこにもいないということに気が付いた。背中や脇の間にもいなさそうだ。

 もう全部倒してしまったのだろうか。

 僕はベッドの上であぐらをかき、足指の間も調べることにした。こんなところに現れたら、手で触るまでもなく潰れてしまいそうだが。馬鹿馬鹿しいと思いながら、十本ある足指の股を順番に手で開いていく。

 いない、いない、いない、いない。

 右足の指の股にはいない。

 続いて、左足の指の股も開いていく。

 いない、いない、いない、いない――。

 ガチャン。

 突然、物音。部屋の出入り口の方角からだ。俯きながら自分の足を見ていた僕の耳に、何かと何かがぶつかったような音が聞こえた。

 今度は何なんだよ――。

 僕は頭を上げてそれを確かめることを躊躇した。目線を上げたら、そこに何かがいるという予感があった。邪悪な気配を肌で感じ取り、体が震えそうになっていた。

 額に脂汗が滲んでいく。だが、いつまでもこうして俯いているわけにはいかない。

 やがて僕は意を決して顔を上げた。そして、目を見開いた。

 部屋の隅に、小さな女の子がいた。おかっぱ頭、肌は白っぽく、目が虚ろで……体中が血塗れだ。背格好は小学校低学年くらい。白いトレーナーと水色のスカートを身に纏っているけれど、大部分が赤く染まってしまっている。

 僕は心臓が飛び跳ねそうなくらい驚き、息を吞んだ。でも同時に、この不可解な現象の正体を理解した。

 これも禁断症状の一つで、ただの幻覚だ。そう確信した。

 なぜなら彼女はかつての友達で、僕に禁断症状が起こるきっかけとなった子だからだ。名前はみどり。でも死んでしまった。僕らが小さい頃、彼女は潰されて死んでしまったのだ。公園の蟻たちと同じように。

 みどりは口を半開きにして、光の宿らない瞳で僕を見た。

「助けて……」

 消え入りそうな声で呟く。

 みどりが死んだときのことを思い出した。彼女が潰されたとき、僕はすぐ近くにいた。でも、何もできなかった。彼女を助けることはできなかった。

 やがて、目の前にいる少女が小さな足をゆっくりと動かし、僕に近づいてきた。

「助けて……」

 どうするべきか迷った。蟻と同じように、みどりに触れればこの悪夢を終わらせることができるのかもしれない。でも今までの現象から考えて、なんて簡単に想像がつく。

 一歩、また一歩と彼女はすり足で歩み寄ってくる。

 幻覚とはいえ、この子は人間だ。蟻なんかじゃない。、はたして僕は許されるのだろうか。

「助けて……」

 壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返す。みどりはもう目の前に迫っていた。ベッドの上にいた僕は、部屋の角に追い詰められる。それから、赤い液体を撒き散らしながら消えた蟻たちを思い浮かべた。

 やめろ、来ないでくれ――。

 みどりは血に濡れた手を、僕の顔へ伸ばそうとする。

 どこにも逃れることができず、心の中で叫んだ。

 やめろおおおっ!

 みどりの指先が、僕の頬に触れた――。

 次の瞬間、彼女の姿はふっと消滅した。テレビの映像をリモコンで消したときみたいに。

 僕は呆然とした。自分の体を見てみると、血のような赤い液体も全て消えていた。服やベッドにも飛び散っていたのに、今はすっかり元通りになっている。

 深呼吸をして、乱れた息を整えようとした。鼓動がまだドクドクと強く脈打っている。シャツは汗でびっしょりだ。

 ベッドの上に座ったまましばらくじっとしていたけれど、もう何も起こらなかった。禁断症状による幻覚が一旦治まったのだと理解し、ベッドに倒れ込む。お母さんが一階から晩御飯の呼びかけをしてくるまで、そのまま横になっていた。

 その晩は幻覚を思い出してしまい、なかなか眠ることができなかった。真っ暗な部屋の中、ベッドの傍らに血塗れのみどりが立っているような錯覚に陥り、僕の精神は緩やかに蝕まれた。

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