蟻を潰すデート

「えっ……」

 人が死ぬ瞬間に立ち会うなんて、滅多にあるもんじゃない。これを逃したら次のチャンスは永遠に来ないかもしれない。

 僕は迷った。が、すぐに冷静さを取り戻した。ひと呼吸してから、彼女に言った。

「人殺しなんて絶対ダメだよ。僕はそんな方法で魂を摂取しようと思ったことは一度もない」

「そうだね……そうだよね」

 彼女は寂しそうに目を伏せた。

 それで話は終わってしまい、僕たちはしばらくの間黙っていた。やがて僕は沈黙に耐え切れなくなり、マラソンに戻ることにした。頭痛もいつの間にか治っていた。

「僕、そろそろ戻るよ」

「うん。私もそのうち戻る」

 僕は軽く頷き、彼女のもとから去った。でも結局、体育の授業中に再び彼女の姿を目にすることはなかった。


 僕の禁断症状は徐々に力強くなっていき、頭痛は翌日になっても治らなかった。

 その日、給食の献立に食パンとチューブの蜂蜜があった。無意識のうちに、白い食パンの上に蜂蜜で「死」という文字を書いた。黄金色に輝く死。僕にはそれがとても美しいもののように見えた。

 食パンというのはつまるところ、小麦の死体をすり潰し、こねくり回し、焼くことによって生まれる料理だ。草だろうと植物だろうと死体は死体だ。だから「これは死体です」と誰でも分かるように、綺麗に、死という文字を書いてあげたのだと思う。

 机を向かい合わせている隣の席の女子が、死の食パンに気付いて目をパチクリさせている。しかし何も言わない。僕は気にせずに、食パンを口に運んだ。

 死という文字はとても甘かった。それが蜂蜜の甘さなのか、死という言葉に含まれた甘さなのか、区別がつかない。まあ、大した違いなどあるまい。僕は死肉に喰らいつく動物のように、あるいは死骸に群がる蠅のように、夢中で食パンを頬張った。

 死を食べ尽くすのにそれほど時間はかからなかった。腹には溜まるけど、死という文字では禁断症状は治まらない。当たり前だ。


 部活に入っていない僕にとって、放課後まっすぐ家に帰るのはいつものことだ。

 弱々しい足取りで歩いていると、毎日通る公園前の道に差し掛かった。横目でちらりと見て、ふと思い出す。小さい頃にはよくここで蝉を捕まえようとしていたと。

 僕は突如閃いた。禁断症状は、人間以外の死でも抑えることができるのではないだろうか。この症状が始まってから、虫や動物が死ぬ瞬間を見たことがあるかどうかは覚えていない。が、とにかくやってみる価値はあるかもしれない。

 広い公園の中に入り、景色を見渡す。滑り台やジャングルジム、ブランコに登り棒、砂場。色々な遊具が並んでいて、友達同士で遊んでいる子もいれば、親子連れもいる。

 隅っこへ行き、フェンス沿いに生い茂る植木の周りを観察してみる。すると、地面に蟻の行列を見つけることができた。彼らは暑い中、遠足をする子供たちのようにちまちまと進んでいる。

 直接触るのは嫌だから、適当な石ころを拾って蟻の行列の中に押しつける。数匹の蟻が潰れて死んだ。

 僕は目を閉じ、自分の体に変化が起きていないか感じ取ろうとした。でもダメだ。ヘヴンズ・アゲインは起こらない。鈍い頭痛は変わらずに僕の脳を撫でつづけている。

 蟻は体だけでなく、魂も小さいのかもしれない。数匹程度摂取しただけでは人間の魂と同じ効果は得られないのかもしれない。

 もっとたくさん殺そう。

 視界に入る蟻を全て潰すことにした。無心で石ころを地面に叩きつけていく。正直なところ、何の意味もなく無駄に命を奪っているだけのような気もするけれど、何かしらのミッションに励むことによって気を紛らわすことはできた。

 僕は蟻殺しに夢中になった。呼吸が荒く、目は血走っていたかもしれない。僕はおかしくなってしまったのだろうか。いや、きっと狂ってなどいない。

 その場にいる蟻をあらかた潰したところで、ようやく我に返った。気持ちを落ち着け、息を整える。すると、背後に人の気配を感じた。

 しゃがんだまま後ろを振り返る。そこには僕と同じ学校の制服を着た女子が立っていた。女子にしては背が高く、黒髪のおさげで、不思議そうな表情を浮かべている。誰だろう、どこかで会った気がする。

 彼女と目を合わせながら脳味噌の中をほじくり返してみると、すぐに思い出すことができた。昨日体育を見学していたときに話をした女子だ。父親を殺したいとか言っていたおかしな子だ。

 彼女は僕を見下ろしながら、平坦な声で言った。

「何してるの?」

 僕は臆することなく答える。

「蟻を、潰している」

「へぇ……」

 驚いているのか、呆れているのか、気持ち悪がっているのか、変わりのない顔と声からは読み取ることができない。

 彼女は僕の隣にしゃがんで、蟻の死骸が散らばる地面を眺めた。それから特にリアクションもせず、大きな瞳を僕に向け、インタビュアーのように訊いてきた。

「放課後はいつも蟻を?」

「いや、今日が初めてだけど……」

「初犯ですか。こんなことしてて楽しい?」

「……分からない」

 なぜか、楽しくないとは言えなかった。楽しくないこともないということになってしまうのだろうか。

 バツが悪くなったので、彼女に質問し返すことにした。

「君はどうして公園に来たの?」

「別に。ただ帰り道に通りかかったら、あなたが何かしてたのが見えたから気になっただけ。まさか蟻を潰してるとは思わなかったけど」

 彼女は動かぬ蟻たちを見つめたまま、静かな声で言った。

「もう全部殺しちゃったんだね」

「他の場所にも蟻がいるかもしれない。じゃあ、またね」

 僕は立ち上がり、彼女に背を向け、逃げるようにして歩き出した。あまり他人に見られたくないところを見られてしまったから。

 地面に目を凝らしながら、公園の端を歩いていく。今度はいくつかの蟻の巣穴とその周囲に群がる蟻たちを見つけることができた。

 しゃがんで石を拾い、蟻潰しを再開する。すると、彼女がまた僕の隣にやって来て、ゆっくりとしゃがんだ。鬱陶しいなと、ちょっと思った。

「何か用?」

「どっちがたくさん蟻を潰せるか勝負しようよ」

「えっ!?」

 驚きの声を上げる僕には目もくれず、彼女は石を拾って蟻を一匹潰した。

「あなた、名前は何ていうんだっけ?」

「霧島だよ」

 そう言って、僕も蟻を潰していく。

「私は京極桐子」

「あ、うん」

「私さ、実はあまり信じていなかったんだ」

「……何を?」

「あなたが人の魂を摂取するって話」

「ああ、そのことか」

「でも一人で蟻を殺しているところを見て、信じる気になれたよ。あなたは本気でんだって……。少なくとも、ヤバい奴だってのは間違いないね」

 京極さんとやらはくすくすと笑った。

「そりゃどうも。君に言われたくないけど」

 なんだか妙に気恥ずかしくなり、投げやりな返事をしてしまう。

 それから僕たちは黙々と蟻を殺した。一つの群れを潰し尽くしてしまうと、場所を変えて他の群れを潰しはじめた。公園は広く、殺す蟻には困らなかった。砂場に落ちていたバケツに水道の水を汲み、巣穴に流し込んだりもした。どちらがより多く蟻を殺せるか勝負していたはずだけど、それぞれが何匹殺したかなんて途中から分からなくなってしまった。

「僕と一緒にこんなことしてて楽しい?」

 僕はぽつりと小さな声で訊いた。

「蟻を潰すのが楽しいわけじゃないけど、必死に蟻を潰している男の子を見ているのは面白いよ」

「……僕たちは悪いことをしてるんだろうか」

「別にいいんじゃない? たかが蟻だし」

 京極さんは飄々とした調子で続けた。

「ああでも、犬や猫は殺しちゃダメだよ。可愛いから」

「そういうものなの?」

「そう。蟻や虫はキモいから殺してもいい。でも動物はダメ。可愛いものや綺麗なものだけ残して、キモい奴らだけを消すの」

「よく分からないけど、決まった誰かのことを言っているの?」

「そういうわけじゃない。でも……」

「でも?」

「私、たまに考えちゃうんだ。大きな怪獣になって、人間たちを一人ずつ踏み潰してしまいたいって」

「何か不満なことでもあるの?」

「そうなのかもしれない」

「何でもいいけど、僕のことは踏み潰さないでくれよ」

「……ごめん」

 京極さんは申し訳なさそうに俯く。

「大きくて強い者には、よ。だから、きっとあなたのことにも気が付かずに潰してしまうと思う」

 その声は、何か思い詰めているように聞こえる。

「ごめんね」

 眼下には逃げ惑う蟻たち。京極さんは獲物をついばむ小鳥のように、一匹ずつ確実に仕留めていく。

「そっか」

 そのあとの言葉が続かず、黙って蟻を潰しつづけた。

 やがて僕たちは、広い公園の地表にいる蟻を全て殺した。彼らにとっての恐怖の大王となり、蟻の世界は滅亡した。

 気が付けば夕方になっていて、西へ落ちる陽が公園を朱く染め上げていた。一つの世界が終わるのにふさわしい空の色だ。

 僕と京極さんはそろそろ家に帰ることにし、公園を出て数メートル先の十字路まで一緒に歩いた。

「私はこっちだけど」

 十字路の手前で立ち止まり、京極さんは向かって右側の方向を指差した。

「僕はこっち」

 僕の帰り道は彼女の指先と真逆の方向だ。

「そう。じゃあ、またね」

 またねという挨拶がなぜか不思議な言葉のように聞こえた。クラスが違う彼女と次に会うのがどんなときなのか上手く想像できない。

 前に話をしたのは体育の授業中だ。ということは、次会うのも体育のときということになるのだろうか。

 ふと、この前体育を見学していたときに話したことを思い出した。あのとき京極さんはとんでもないことを口走っていた。僕はそれがとても気掛かりで、今一度彼女の気持ちを確かめたいと思った。

「ねぇ、京極さん本気なの?」

「何が?」

「お父さんを殺すってやつ」

「……うん」

 京極さんは僕から目を逸らし、夕陽を眺めた。柔らかい光に照らされる彼女の横顔を、僕はとても綺麗だと思った。

 それからもう一度僕の目をまっすぐに見て、口を開いた。

「私はやるよ。あなたが

「そうなんだ……」

 何と言えばいいのか分からず、立ちすくんでしまう。すると、京極さんは薄っすらと笑った。優しさと切なさを重ね合わせたような微笑みだ。

「それじゃあね」

 小さく手を振り、今度こそ僕に背を向けて歩き出した。

 僕は言葉を返さなかった。またねとは言えなかった。京極さんと関わるということは、彼女の殺人に関わっていくのと同じであるような気がしたから。

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