ただ僕の目の前で死ぬだけでいい

 僕は思わず驚きの声を上げてしまった。いきなり家に呼ばれることになるとは予想外だった。

「念のために訊くけど、お父さんもいないんだよね?」

 家にお邪魔したらお父さんが飲んだくれていて、さあ今から殺しましょうなんてことになったら、たまったもんじゃない。そんな心の準備はできていない。

「父親はうちには住んでいないよ」

 京極さんは冷たく言い放った。目つきが少し険しくなっている。お母さんはお母さんと呼ぶのに、お父さんのことは父親と呼ぶというのは、やっぱり相当嫌いなのだろう。

 僕は話題を変えることにした。

「家までどのくらいかかる?」

「あの公園のすぐ近くだよ。心配しなくても大丈夫。別に取って食いはしないから」

 京極さんは口元に淡い笑みを浮かべた。僕は少しだけ安心した。少しだけ。

 そのあとは他愛もない雑談をしながら歩いた。期末テストのこととか、最近見たテレビの話とか。

 昼休みに会ったときのことを訊くべきかどうか迷った。彼女が涙ぐんでいたことについて。僕に呼ばれる前は他の女子と話していたみたいだけど、一体何があったのか。そして、僕との話が終わったあとはどうなったのか。

 とてもとても気になったけど、結局訊かないことにした。京極さんの方からもそれについては話さなかった。話す気がないのならそれでいい。彼女が話したくなったら聞いてやればいいだけだ。

 昨日行った公園の前を通り過ぎ、住宅街の十字路を右に曲がって少し歩いたところに京極さんの家はあった。二階建てのアパートでそれほど大きくはない、失礼な言い方をすればボロっちい家だ。

 薄汚れた階段を上り、いくつかある扉のうちの一つの前に着くと、京極さんはこちらを振り向いた。

「遠慮せずに上がって。古臭い家だけど」

 まるで僕の考えていたことを見透かしたかのように言った。僕は肯定も否定もせずに「お邪魔します」とだけ言って、彼女にあとについて行った。

 僕たちはリビングにある木製のテーブルの席に着いた。真夏だから屋内もじんわりと暑い。京極さんはエアコンをつけ、グラスに冷たい氷と麦茶を入れてくれた。

「今日暑すぎだよね」

 そう言って僕の向かい側の椅子に座り、麦茶を一口飲んだ。

 それから僕たちは少し黙った。ゆっくり話ができる状況になったものの、何から話せばいいのか分からない。部屋の中で、古いエアコンの送風音だけが妙にうるさく聞こえる。

「私の話に乗るって言ってたけど」

 先に口を開いたのは京極さんだった。

「急にどうしたの?」

 彼女は僕の顔を見ず、麦茶のグラスを眺めながら言った。

「うん、実は……」

 僕は少し言い淀んだ。この話を女子にするのは少し気が引ける。

「金曜日の夜、酷い幻覚を見たんだ」

「幻覚?」

 京極さんはようやく視線を上げて、僕の目を見た。

「どんなの?」

「僕の体のどこかしらに一匹ずつ蟻が現れるんだ。で、触ろうとすると血みたいな液体を出して消える」

「……キモ」

 京極さんはあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。期待通りの反応だ。

「それだけならまだ良かったんだけど、蟻をたくさん消したらいつの間にか現れなくなったんだ。でも、そのあとに女の子が現れたんだ」

「女の子の幻覚? ラッキーじゃん」

「いやいや。その子も血塗れだったんだよ」

「……幽霊的な?」

「幽霊ではないと思う。前にも話したけど、僕は禁断症状が起こるんだ」

「やっぱりその話だよね」

 京極さんは僕の話をちゃんと覚えてくれていたようだ。

「うん。今まで色んな禁断症状があったけど、あんなにはっきりとした幻覚を見たのは初めてだった」

「それで、その女の子はどうなったの?」

「僕に近づいてきて、僕に触れた瞬間に消えた……」

「そうなんだ……。公園で蟻をいっぱい潰したから、バチが当たったんじゃない?」

「神様なんて信じてないけど」

「ふうん……」

 どこか含みを持たせたような相槌を打つ。それから、グラスの氷をカラカラと鳴らし、また話し始めた。

「ねぇ」

「何?」

「その女の子って、あなたの知っている子なの?」

 驚いた。察しのいい人だとは前から思っていたけれど、そんなことを言い当てるとは思わなかった。

「そうだよ。僕の友達だった」

「だった?」

「小さい頃に交通事故で死んじゃったんだ」

「そっか……」

 京極さんは寂しそうな顔をしてくれた。

「僕と二人で家の近くを歩いてるときに、車の轢き逃げに遭ってさ。小さい頃だったから、車のナンバーを見るとか、そういうことも思いつかなかった」

「うん」

「車は一旦止まったんだけど、しばらくしたらどこかに行ってしまった。目撃者は僕しかいなかったのに、怖くて何もできなかった」

「分かった、分かったよ」

 優しくなだめるように言った。数秒だけ何かを考え、続けた。

「とにかく、あなたは蟻とか死んだ友達とか、そういう幻覚を見てしまったから、早く魂を摂取しなきゃいけないんだね」

「うん……」

「いいよ、黒月くろつきの魂を貰っても」

「黒月?」

「ああ、父親の名字。結婚してるわけじゃないから、名字が違うの」

 京極さんは何でもないことのように言った。それにしても、娘が父親を名字で呼ぶというのは奇妙なものだ。

「そ、そうなんだ」

「うん。私が黒月を殺す。そのあとは煮るなり焼くなり出汁を取るなり、好きにしていい。あなたがどうやって魂を摂取するのか知らないけど」

「別に特別なことは何もしなくていいんだ。

「そう。じゃあ、本当にただいるだけでいいんだね」

「そういうことになる」

 話の流れから考えて、僕が殺人を手伝う必要はなさそうだ。

「でもまあ、黒月を殺す計画を一緒に考えてくれたら助かるかな。殺人がバレたらあなただって困るでしょ?」

「それは、もちろん……」

 僕も京極さんも捕まるわけにはいかない。作戦をきちんと考えるのは僕だってやらなきゃいけないことだ。僕がやらなくても彼女は一人で勝手にやる。だからこれは、仕方のないことなんだ。

 心の中で決意を固めようとしている僕のことを、京極さんがじっと見た。

「もしかして、まだ迷ってる?」

「大丈夫だよ。それより、京極さんのお父さんってどんな人なの?」

「別に体格は良くないよ。背は私と同じくらいだし、筋肉質ってわけでもない」

 どんな人だと訊かれたら、普通は性格や職業の話をすることが多いけれど、京極さんはお父さんの体の特徴だけを話した。殺す計画に必要な情報だからなのか、あるいは、単純にそれ以外のことは話したくもないということなのだろうか。

「じゃあ、身体的には大きく不利ってわけでもないんだね」

「うん。私も別に取っ組み合いをするつもりはないけど」

 そりゃそうだ。いくら背丈が同じくらいといっても、大人の男に力では勝てないだろう。

 それから、二人でこの家に向かうとき、京極さんが気になることを言っていたのを思い出した。彼女にとっては話しづらいことかもしれないけど、これも計画に必要な情報だから訊いてみることにした。

「さっき、お父さんはこの家に住んでいないって言ってたけど、会うことはできるの?」

「できるよ。今月は二十五日にうちに来るから」

「今月は?」

 何か不穏な気配を感じ、眉をひそめた。

「あいつ、『巡回』って言って、月に一回ずつ自分の妻子たちの家を訪ねるんだ。籍も入れないし、家にお金も入れないくせに。特に何かするってわけでもないんだけど、それで今月うちに来るのが二十五日ってわけ」

 啞然とした。やっぱり異常な家庭だ。妻子たちというのが一体何人いるのか気になったけど、今の時点で計画に関係なさそうなことはとりあえず訊かないことにした。

「なら、あと三週間くらいあるね」

「それまで我慢できる?」

 禁断症状のことだろう。期限付きなら耐えられないこともない。京極さんの問い掛けに僕ははっきりと頷いてみせた。

「うん。それくらいなら何とかする」

「わかった」

 京極さんは少し安心したかのようにニヤリと笑った。

「黒月を殺す計画をこれからじっくり考えよう。私たちのそれぞれの目的のために」

 僕にはまだなかった。人を殺そうとしているという実感が。それは物語のように現実味が薄く、タチの悪いおままごとのようにも思えた。

 けれども、緩やかな坂を転がる石の球のように、彼女との時間はゆっくりと着実に進んでいく。

 一九九九年の夏、こんなふうにして運命の日々が始まったのであった。

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