024  郷に入りては郷に従え



――魔法陣の中に入った瞬間、わたしの身体はふわっと浮いた。

同時に、手に持っていた荷物の重さを感じなくなる。


あわてて周りを見渡すと、アラビア文字のような紋様がわたしの周囲を球状に包んでいた。

その不可思議な紋様は、絶えず光を発して縦横無尽に動き回っている。


「この感じ…高層ビルのエレベーターに乗ったときに感じる浮遊感と同じだ」


身体の中身が浮かび上がっているような奇妙な感覚と、耳の穴が圧迫されているような違和感に、わたしは思わずぎゅっと目をつぶった。




「ユーナ、大丈夫ですか?」


エリオットの柔らかな声が耳朶じだに響く。


その声に励まされて恐る恐る目を開けると、わたしの顔を心配そうに覗きこんでいる澄んだ青い瞳が見えた。


「…エリオット?」


「はい?」


彼がこてんと首を傾げる仕草を見て、わたしはちいさく吐息をもらした。


よかった、夢でも幻でもない。

本物のエリオットだ。


「もう着いたんだ、早いね」


体感時間としては、一分も経っていなかったような気がする。


エリオットは頷きつつ、わたしが左手に持っていた重い旅行鞄を半ば強引に受取り、窓際のソファを指し示した。


「いろいろと疲れたでしょう?

お師さまが戻るまで、そちらのソファに座って休んでいて下さい」


そう声をかけられて、わたしは初めて自分が疲れていることを自覚した。


兄やエリオットにとっては七日前の出来事でも、わたしにとっては早朝から今までの出来事が、全部同じ日に起こっているのだから…。


「ありがとう。

でも、まだ平気」


わたしはそう言いながら、この部屋を…おじいちゃんの研究室の中をぐるりと見渡した。


柔らかなオレンジ色の光を放つ丸いあかりが部屋の中にいくつも浮遊していた。

灯りの動きを目で追っているうちに、高い天井に星図のようなものが描かれているのを見て取る。


視線を下に動かすと、床の飴色の木目がはっきりと見えるほど綺麗に磨かれていることに気がつく。

部屋の一番奥の大きな机の下には、たくさんの鮮やかな色の糸で織られたカーペットが敷かれていた。


右の壁際には天井に届くほど高い本棚が作りつけられていて、隙間なくびっちりと本で埋め尽くされている。

反対の左の壁際は引き戸の棚があり、その中には硝子製のような透明な器具が綺麗に仕舞われていた。


中央の広いスペースには何も置かれていない。

わたしが元の世界からこの部屋の中央に出現したということは、魔法陣用に開けてあるのかな?


書斎と理科室を合体させたようなこの部屋の中に、火の気のありそうな装置モノがないか探した。


んー、ガスコンロみたいな形状のものはないなぁ。

アルコールランプに似たものはあるけど、火力が足りなそう…。


「――ユーナ、何を探しているのですか?」


「ええとね、この中のお鍋を火にかけて、中のものを温めたいんだけど…」


わたしが右手に抱えている風呂敷包みを視線で示すと、エリオットは得心したように頷いて笑った。


「そのために必要な火なら、僕が用意できますよ」


「…?」


どうやって…とわたしが訊く前に、エリオットは宙に指を差し伸べて、うたうように呪文のような言葉を唱えはじめた。


「我が師グレアムの名において、我れは請う、請いて願う。

たけき火と豊穣ほうじょうの女神の眷属けんぞく、火の精霊たちの仮宿かりやどをここに!」


エリオットの声と共に、部屋の中央に『かまど』が突如として現れた。

オレンジ色とクリーム色、可愛らしい二色の煉瓦れんがで作られている。


始めからこの部屋の中に設置されていたような状態で出現した竈を前にして、わたしは言葉を失った。


「……。」


いや、なんかもう…驚くよりも先に呆れる。

今更ながら、ファンタジー世界って「なんでもアリ」なんだなぁ。



そんなことを考えながらぬるく微笑んでいたわたしに、エリオットが丁寧に説明してくれた話によれば、部屋の中の空間を効率的に利用するため、使わない設備は亜空間に『収納』してあるらしい。


必要なときはその都度おじいちゃんが設定した呪文で呼び出し、使い終わったらまた仕舞うという。


亜空間って…アレですかね?

未来世界の猫型ロボットのポケットと同じものなんでしょうかね?


わたしは途中で思考を放棄して、順応することこそが一番大事なのだと考え直す。


「郷に入りては郷に従え」、こちらの世界でコレが当たり前のことなら、わたしが慣れるしかない。

魔法を使った便利な収納システムなのだと思えばいい。


わたしは風呂敷の包みを解き、カレーが入ったお鍋を丸くて平べったい石の上に置いた。

周囲の煉瓦とは違う、大理石に似た白っぽい石が竈の上に三つあったので、多分ここが熱くなる場所なんだと思う。


「エリオット、お鍋を置く場所はここでいいのかな?

これ、どうやって火をつければいい?」


「あ、はい、場所はそこであってます。

火力はどれくらい必要ですか?」


「温めるだけだし、強すぎると焦げちゃうから、弱火でお願い」


「わかりました」


エリオットはわたしの注文に難なく頷いて竈に手をかざす。

その際、一瞬だけ彼の顔から表情が薄れた。


わたしはお鍋のふたを開け、カレーをお玉でゆっくりとかき混ぜながらエリオットに尋ねた。


「――ひょっとして、エリオットは火の精霊さんとお話して火力を調整してるの?」


「ええ、そうですけど…よくわかりましたね。

まだユーナにはこの竈の仕組みを説明していなかったのに」


「うん、なんとなく…?

さっきのエリオットの顔も、今みたいに変な感じだったし」


「変、ですか?」


「うん、エリオットはすごく表情が豊かなのに、精霊さんとお話してるときは無表情になってるの。

集中してる顔に見えた…とか、真剣な表情だったね…って言うほうが聞こえはいいんだろうけど、エリオットの素の状態を知ってると、なんかすごく違和感があるって言うのが一番わたしの真情に近いかな」


「…そう、ですか。

そんな風に言われたのは、はじめてです。

ユーナは周囲の人の表情や感情の機微きびを、読みとるが得意なタイプですか?」


「えー…、それはどうだろう?

親しい人や、気になっている人のことだけしか解らないかも…」


あんまり関わりのない人や、興味がわかない人のことなんか、どうでもいいし。

生まれ育った世界の『日常』でも、兄の『病気』を刺激しないように振舞うので精一杯だったし。


わたしはジャガイモを崩さないように、ゆっくりゆっくりとかき混ぜる。

かき混ぜるたびに、お鍋のふちにぷくぷく浮いてくる泡が消えるたびに、カレーのスパイシーな香りが部屋の中に充満してゆく。


よし、そろそろいいかな。


わたしはカレー鍋からエリオットに視線を移した。


「…?

エリオット、顔が赤いけど……どうかした?」


「え?

いいえ別にナ、何でもないですっ」


何でもないと言うわりには、今、舌を噛んでたような…?


「そう?

…あのね、もう温まったから、火を止めてください」


エリオットは無言のままコクコクと頷き、また竈に手をかざした。


「おじいちゃん…グレアム師は、またこの部屋に戻ってくるの?

もしすぐに戻ってこないのなら、ふたりで先に食べない?

わたし、お昼寝していたから、朝ごはんのあと何も食べてなくて…お腹減ってるの」


ご飯の支度が整った途端、空腹感が増した気がする。

切実にお腹が減っていることを強く訴えたくて、わたしはエリオットを上目遣いで見つめた。


お腹へったよー。

ひもじいよー。


切ない思いを込めて見上げていたら、なんか瞳が潤んできた。

視界の中のエリオットが揺らいだのは気のせいかと思ったら、本当に後退している。


「――エリオット?」


どうしたんだろう?

身体の具合でも悪いのかな?


「…ユーナ、それ反則ですから」


「こっちの世界では、お腹減った…って口に出しちゃだめなの?

お行儀が悪かった?

ごめんなさい」


わたしがしょんぼりしながら謝ると、エリオットはすごい勢いでぶんぶん頭を振って否定した。


「いえ、そうではなく……そうじゃなくて…」


「…?」


エリオットの瞳にはどこか思いつめたような光が浮かんでいる。


そうじゃないって、どういうことなんだろう?

それにしても、お腹へった…。


エリオットが逡巡しながら口を開けたのと同時に、研究室の扉が開かれる音がした。


「――姫、遅くなって申し訳ない。

こいつらを見つけて事情を一通り説明するのに、ちぃと手間取りましてのぅ」


おじいちゃんのよく通る声が聞こえた途端、エリオットはびくっと身体を震わせた。


わたしが後ろを振り返って見ると、そこにはおじいちゃんと…背の高いふたりの男性が立っていた。

たぶんこのひとたちが「本当に信頼のおける仲間」なんだろう。


エリオットの兄弟子の魔導士さんと、エリオットの二番目のお姉さんの義弟で剣士さん…だったよね?

ふたりとも(うちの兄ほどではないけど)、それぞれタイプが違う美青年なんですけど…。



もっと普通っぽい人はいなかったのかなぁ…? (遠い目)





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