第5話 7/16(木)

七月十六日(木)


 最悪の目覚めだった。背中に汗をびっしょりかいていた。

 倫理の塚本先生の授業を思い出す。

「火事や炎に関する夢を見た人は、深層心理的に言えば、性的なことを考えていると言われているんだ」

 クラスがザワザワキャッキャしていたのを思い出す。

 最悪だ。彼氏ができたからってそんなこと考えてたのか、私。

 じゃない。違う。そうじゃない。無駄なこと思い出して時間取られてる場合じゃない。これが本当に予知夢だとしたら!

 時計を見ると、夢で見たのと同じ8時5分。

「まずいっ」

 私は全速力で着替えて水着を詰めて下に降りた。

「もうちょっと早く起こしてよ!」

 お母さんに向かって、少し怒気を孕んだ声を発してしまう。

「起こしたのよ?あなたが起きないだけで」

 急いでいる私はお母さんの言葉に反応しない。

「いったきます!」

 いただきます、と、いってきます、を一緒にしたような言葉を発して、トーストを咥えた。そのまま家を飛び出す。

「あ、ちょっと」

 お母さんの戸惑った声。

「行ってらっしゃい!」

 怒鳴るような「行ってらっしゃい」を背中に受けて、私は走った。

 これで微妙に時間が短縮されたはずだ。火事の現場に、夢の中の無能な私より1分でも1秒でも早く辿り着かないと!そうじゃないと、私が夢を見た意味がなくなっちゃう!

 視界の隅に、火を見つける。よし、身構えている分だけ夢より早く見つけられた。火もまだだいぶ小さい。

「誰か!誰かいませんか!」

 火事場に辿り着くより前に、叫びながら走り込む。鞄と水着袋を投げ捨てて、一番手前のペットボトルに飛び付く。手荒に手汗をスカートで拭って、キャップを握りしめる。奥歯がギリッと音を立てて、

「よし!」

 夢の中より格段に早く開いた。顔を出した隣の住人に、

「消防を!呼んでください!」

 叫ぶ。

 火はまだ玄関を侵食し始めたばかりだった。見たところ、火元は玄関の前に置かれた新聞紙のようだった。

 暑い。

 熱い。

 少しずつ集まってきた人達に、

「お願いします!手伝ってください!」

 叫ぶ。声の限り叫ぶ。

 集まってきた人達の中には、大学生らしき男の人も混じっていた。そうか。大学はもう夏休みに入っているのか。今更ながら思い当たる。じゃあ何で夢には出て来なかったんだろう?なんて考えてる暇は無い。とにかくみんなで水を掛ける。そして、火は夢の中よりずっと小さい内に鎮められた。

「はぁ……はぁ……」

 息が荒い。スマホを見る。8時35分。もう既に遅刻は確定だけど、1時間目にはもしかすれば間に合うかも知れない。学校に行かないと。

 もうすぐ消防が到着することを知っている私は、ここで何の躊躇をする必要もない。

「ありがとうございました!」

 協力してくれた人達に勢いよく頭を下げて、鞄と水着袋を持って、逃げる様にその場を去った。


 1時間目は水泳だから、早く学校に来て制服の下に水着を着なきゃいけなかった。と言うか、家で制服を着る時に水着を下に着ておけば良かったんだけど、余裕が無かったとは言え、失敗は失敗だった。SHR前の朝学習の時間帯だったから、女子更衣室は既に閉まっていた。そりゃそうだ。先生達が教室にまだ来ていないこの時間帯、変な輩が女子更衣室を物色しに来ないとも限らない。鍵をかけておくのは当然だ。当然なのだが……

「遅刻、バレたくないなぁ」

 私は、体育教官室に更衣室の鍵を借りに行きたくない。

「どうせ、誰も来ないか」

 体育館の横にある更衣室の前で着替えてしまうことにした。水着袋の中身をガサガサッと出してしまう。私の水着は上下が繋がっているタイプだから、一度全部脱がないといけないんだけど、時間もないしタオルも巻かずに全部脱いでしまった。普段ならこんなことしないのに。この時に限って。いや、こんな時だからこそかもしれない。予知夢とか火事とか、非日常を体験したせいで日常を疎かにしたのかもしれない。

 悪かったと思う。

 ここでこんな軽々な判断をしてしまった私が。

 トイレで着替えようとか思わなかった私も。

 そして何よりも。

 タイミングが。

 一着の学ランが、教室棟の廊下を渡って曲がり角から顔を出した。

 それでも一つ救いようがあるとすれば。

 それが私の彼氏だったことだろう。

 彼氏より先に見知らぬ男に一糸纏わぬ姿を見られた女にならなくて良かったと思う。

 でも私は、どう考えたって私の方が悪いのに、

「キャアァァァァァ!」

 いきなり出てきた男に、手に持っていた物を投げつけた。

 これは当然と言えば当然なのだが。

 運の悪いことに。

 私が手に持っていたのは、私の水着だった。水着は、ストラックアウトみたいに、彼の顔面にヒットした。


 という訳で、

「ちょ、ちょっと、その水着、こっちに持ってきてくれる?」

 顔に被さってきた物が女子の水着であることを認識して固まっているカズミに声を掛ける。カズミはゆっくり顔を上げて、私の顔を見て安心した顔になった。

「良かったぁ。僕、変態になったかと思った」

 いや、全然安心できないから。そのままだとアンタまだ変態を抜け出せてないから。

「はい」

 水着が手渡される。絶対しっかり見てるはずなのに、全然動じてる感じがしない。いや、勿論すぐにタオルを拾って身体の全面部分は隠したんですけどね。見えたには見えたでしょ。絶対見えたでしょ。視力悪くあれー。そして仮に見えていないとしても動じろー。何だコイツ、ムカつくな。色んな意味でムカつくな。しょうがないから私も動じてないフリをして、

「ありがと」

 と言って水着を着る。そして、体育館の方へと立ち去ろうとするカズミの背中に問いかける。

「何?アンタ、私の裸見ても何も思わないの?」

「……何も思わない訳、ないだろ」

 振り返ったカズミの鼻から血が流れていた。

 満足感と喪失感という矛盾した感情を同時に味わって、何とも形容し難い気持ちになった私は、

「……あっそ」

 とだけ言って、制服を着て、鞄を持って教室に向かった。廊下で呟く。

「塚本のヤロー……」

 火事とか炎の夢を見た人は性的なことを考えてるだぁ?余計なフラグ立てやがって。こんな伏線、回収しなくたって良かったのにぃ!


 一時間目のプールは、いつになく気持ち良かった。

「極楽極楽……」

 そりゃそうだ。さっきまで熱い火に当たってたんだから。冷たい水が嬉しくて仕方がなかった。横目で男子の中にいるカズミの方を見た。カズミはあの後、SHRには顔を出さず、一時間目になってプールにひょっこり顔を出した。そんなカズミも何となく普段より気持ちよさそうにしている気がした。ほら、見たか。脱いだら腹筋割れてる系男子だぜ。

「よーし、四百メートル計測やるぞー」

 ムツ先生が声をあげる。いつもだったら「ええ……」って言ってるけど、今日は別だ。少しでも長く水に浸かっていたい。でも、だからってゆっくり泳いでたら、

「チンタラしてんなよ幸田ぁ」

 ムツ先生に怒られた。何だ、その全時代的な起こり方は。


 二時間目は古典だったけど、授業は何も聞いていなかった。完全に別のことを考えていた。

 私は何で予知夢が見えるようになったんだろう?何で私が?何の為に?そんなことは、別に考えたって分からない領域だろう。ハサミは「何故自分は物を切るんだろう?」とは考えないだろう。能力がある者は、それをどのように行使するかを一番に考えるべきだ。

 人間が「何の為に生きているのか」を考えるよりも「生きている私は今何ができるか」を考えるべきであるように。

 学生が「何の為に学ぶのか」を考えるよりも「学んだ知識をどう活かすか」を考えるべきであるように。

 予知夢が見えるならば「何の為に見えるのか」よりも「見えることで何ができるか、何をすべきか」を考えるべきだろう。

 ならば答えはハッキリしている。

 私は、頑張れば今朝の火事を未然に防ぐことが可能だったはずで、また、そうすべきだった。

 私はこの能力を、事件・事故が起こらない様にする為に行使しなくちゃならない。私利私欲の為に乱用すべきではない。と、どうして私はこんな善人のようなことを考えているんだろう?自分に都合の良いことしか記憶せず、先生のお小言は機嫌を取って回避する。そういう、ちょっとセコい人間だったんじゃないのか?幸田ユメカは。ならばどうしてこんな殊勝な思考回路を手に入れた?答えは多分はっきりしていた。正義感の強い彼氏ができたからだろう。まだそんなに時間も経っていないのに、少しずつ影響されてるんだろう。お金のない人の味方になりたいような、彼女の裸を見て興奮したことを誤魔化さないような、正直で純粋な彼氏の隣に相応しい人間になりたいと、どこかできっと思ったんだろう。世間的には彼だってヤクザの二代目だってことであんまり良い印象を持たれてないかもしれないけど、そんなことはどうでも良い。大事なのは、私がどんな印象を彼に持っていて、その彼に似合う自分をどうカスタマイズしていくかだ。うん、悪くない。そんな私は嫌いじゃないぞ、私。ぜひ、新しい私の方針に則って、この力は正しいことに使っていくこととしよう。

 でも限界はあるだろう。今までの傾向を見る限り、どうやら私の意識が届く範囲の未来しか見れないようだ。あくまで、今までの夢をサンプルに考えたら、だけれど。あまりにもサンプルが少ない。

 それに、正確性にも欠ける。例えば、告白される時には夢には無かったシーンが……勉強を教えられるというシーンがあった。三度目の夢でも、勉強を教えて貰うシーンは無かったけれど、リアルでは勉強を教えて貰った。おじいちゃんおばあちゃんしかいないはずの火事場に、現実世界では大学生らしき若い男の人がいた。

 それでも、未来は変えられる。テストは解けるようになったし、彼氏の嫌がる言葉は避けて通ったし、火事も酷くなる前に終わらせた。

 だったら私は、未来をよりよくするべきだし、その為により正確な夢を見たいってのが本音だし、そしたらやっぱり予知夢のメカニズムの理解が多少は必要なのかもしれない。

 ……うーん、これ以上は私だけで考えてもどうにもラチがあかないな。専門家の意見がとても欲しい。でも……夢の専門家の知り合いなんていないなぁ。

 と、そこまで思考したところで、チャイムが鳴って二時間目が終わった。


 休み時間、カズミが私の席の横に来た。

「今日の一時間目は水泳だから早く来た方が良いよって言ったじゃん」

「ごめんねぇ、折角忠告貰ったのにねぇ。まぁ……色々あってさ」

「いや、別に良いんだけどさ……どうしたん?」

「火事があって」

「……火事?ユメカの家が?」

「いや、知らない人の家」

 カズミが訝しげな顔になる。

「まぁ、気にしないで」

 そう言って私は席を立ち、廊下にあるロッカーに教材を取りに行った。次の授業は塚本先生の倫理だ。そして、教科書と資料集を手に取った瞬間に閃いた。

 塚本先生は、夢の専門家じゃないか。倫理の教師であると同時に、スクールカウンセラーじゃないか。

 席に着いたらチャイムが鳴って、三十代前半ぐらいの、少し筋肉質な男性が教壇にあがった。低い、良い声でいつものように言う。

「はい、号令」

 塚本先生だ。


 授業を終えて廊下に出た先生を追いかけて呼んだ。

「先生!塚本先生!」

 塚本先生が振り返る。

「はい?」

「あ、あの……」

 発するべき言葉を考えていなかった。

「……助けてください」

 先生の目がスッと細くなる。

「昼食を持ってカウンセリング室に来なさい」

 私は、勢いよく頭を下げて、走って教室に戻った。戻ると、私の机のところにカズミがいた。

「ユメカ、ご飯……」

「ごめん、用事できちゃったから」

 机の横に掛けてあるお弁当を持って走って出た。


 カウンセリング室には、向かい合う形で二脚のソファーがあって、真ん中に一台の低いテーブルがあった。私は、カップラーメンにお湯を入れている塚本先生を横目にお弁当を食べていた。

「それで、どうしたんだい?」

 湯気の中から塚本先生の声がする。

「えっと……凄く信じられない話だと思うんですけど」

「信じられない話でも構わない。ゆっくり聞かせてくれ。4限はサボっても構わないから」

 合法的なサボり。よし、それを聞いて元気が出てきた。

「夢を見るんです」

「夢?」

「はい。ただの夢じゃなくて……予知夢を見るんです。予知夢と言うか、正夢になると言うか」

「……ほう、予知夢。それは……不吉なイメージの物を見たら不運な目に遭ったり、幸運なイメージの物が夢を出てきたら良いことがあったりとか、そういうことか?」

「いいえ」

 火事の夢を見たらラッキースケベがあっただなんて言わない。ラッキースケベって、見られた側が言う言葉じゃないのかな。

「もっと具体的な夢です。夢で見た光景が、ほぼそのまんま現実で繰り返されます」

 身振り手振りを大きくして熱弁する。

「ほう、例えば?」

「例えば……」

 あれ、人に話せるエピソードなんてあんまり無いな……カズミとの関係がバレるか、今日の遅刻がバレるか。

「例えば、数学の小テストの内容が見えました」

「ほう……」

 塚本先生は考え込んでしまった。3点リーダが空間に満ち満ちる。なので、

「先生、とっくに3分経ちましたよ……?」

「あ、やっべ」

 危うくカップラーメンが伸びるところだった。先生も「やっべ」とか言うことあるんだ。ちょっと面白い。カップラーメンを啜りながら、先生が質問してくる。

「予知夢が見えるようになったのは、いつからだ?」

「今週の月曜日です」

「あ、思ったより最近!」

 びっくりした先生は、ラーメン吹き出しそうになってむせた。私はスッと水を差し出す。

「おお、すまないすまない」

 塚本先生は、それを飲み干してから続けた。

「ということは、一番最近の小テストか?」

「はい」

「……なるほど」

 それからしばらく無言で麺を啜っていたけど、食べ終わったら、

「ちょっと出掛けてくる」

 と言って部屋を出て行ってしまった。けれど、本当にちょっとだった。五分ぐらいで帰って来ると、私の目の前に一枚の白い紙を突き出した。

「幸田の今週の数学の小テストだ。数学科に借りてきた」

 紙をくるっと回す。すると、私の解答が顔を出した。

「満点だ」

 私は思わずニヤッとして、

「いえーい」

「いままで再テストにならなかったことがないらしいな」

 ガッツポーズのままで固まる。

「まぁまぁまぁまぁ、そんなことは別に良いじゃないですか」

「別に良くはない」

 ちょっとシュンとする。

「お前が嘘を吐いていない証拠の一助になる」

 塚本先生ぇ!

 好感度急上昇だね、これは。

「他にはどんな予知夢を見た?」

「えっと……」

 もう本当に何も言えないけど……火事についてだったらお咎めもないかも知れない。何で言わなかったんだ、とかは言われるかも分からないけど。

「火事の夢を見ました」

「火事の夢……」

 塚本先生、フッと吹き出した。

 塚本のヤロー……!

 好感度急低下だね。

「実際、今朝、学校に来る途中で火事を見かけて鎮火活動を行いました」

「ほぅ……」

 塚本先生は少し考えてから、

「ちょっと出掛けてくる」

 また部屋を出て行った。私は、誰もいない部屋で4時間目が開始するチャイムを聞いた。

 そして、しばらくすると、若い男の人を連れて帰ってきた。

「あ」「あ」

 私と、その男の人の声が重なる。

「今朝は、どうもありがとうございました」

 一応、お礼を言わなければいけないと思って頭を下げる。その人は、火事の現場に居た大学生らしき人だった。

「いえ、こちらこそです」

 向こうも頭を下げていた。

「この学校の三代上の卒業生の、河西だ」

 おっと、呼び捨てにするってことは?

「塚本先生の教え子さんだったんですか?」

「ああ」

 ほーん、卒業生さんだったんですね。

「今朝の火事に一番に気付いて動いてくれた女の子がウチの制服を着てたって言うんで、火事があった家の人がお礼を言いたいっていうことで、河西が来てくれたんだ」

「良かったら、明日にでもお礼に来たいって言ってましたよ」

 柔らかそうな物腰で爽やかな声。見るからに良い人って感じだ。

「いや、そんな、お礼だなんて」

「会っておいた方が良い」

 そう言ったのは塚本先生だ。

「何かヒントが掴めるかも知れん」

 河西さんは、何を言っているのか分からないって感じの顔をしていたけれど。なるほど、一理あるかも知れない。

「でも、会うとしたら一時間目に出席できなくなってしまうんだが」

「ぜひ会いましょう」

 なぜか唐突に会いたくなってきました、私。

「じゃあ、自分も明日、同席します」

 と、河西が言った。

「では、また明日」

 河西さんは退出していった。


「という訳で、幸田」

「はい」

「遅刻届を提出しなさい」

「……はい」

 あーあ。結局バレた。

 塚本先生に渡された紙に学年・クラス・番号・名前を記入する。それを渡すと、

「幸田、今日の放課後は空いているか?」

 と聞かれた。

「……まぁ、空いていると言えば空いています」

 彼氏に引き止められなければ、だけれど。部活も引退しちゃった身なんでね。

「正直、今回の件は私の手に余る」

「……はぁ」

 随分潔いけども、あんまり簡単に諦められちゃ困る。

「だから、こういう時に役に立つ奴を紹介しよう」

 おお、さすが。先生は素晴らしい人脈をお持ちの様で。精神科のお医者様とかかな?

「何でも屋だ」

 ……何でも屋?

「アポ取っておくから、また放課後にここに来ると良い」

 ああ、それから。と、付け足す。

「親御さんに、今夜の夕食は要らないと伝えておくと良い」

 おっと、奢ってくださるんですかね?


 四時間目終了のチャイムが鳴るのを聞いて、私はカウンセリング室を出た。教室に戻ると、カズミが私の所に来て、

「どうした?大丈夫?」

 と聞いてきた。何やら心配を掛けたみたいだ。

「大丈夫だよ」

 ああ、そうだ。先に言っておいた方が良いか。

「今日は放課後残れなくなっちゃった」

「そ、そっか。うん、しょうがないね」

 やっぱり、具合が悪いと思われてるらしい。

「大丈夫だよ、体調崩してる訳じゃない」

「そ、そうなんだ」

 カズミは不思議そうな顔をして、五時間目の準備へと向かっていった。

 ……カズミを見習って、少しは真面目に授業を受けてみようか。どうせ今何か考えたって何かが進展する様な気もしない。

 五時間目は世界史だった。範囲は近現代で、アメリカ同時多発テロについての授業だった。ビルに飛行機が突っ込んでいく映像は、私も見たことがあった。その2001年9月11日の映像を、先生がプロジェクターを持って来て映し出していた。

 六時間目は政治・経済の授業で、金融の仕組みについての授業だった。借金と利子、多重債務や自己破産についての授業だった。1929年10月24日のニューヨーク株式市場での株価の暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」が授業の題材として取り上げられていた。二つ前の男の子は、珍しくとても背筋が悪かった。

 真面目に授業受けてると意外と時間って早く過ぎてくモンだな、とか思いつつ、チャイムが鳴ると同時に鞄に荷物を詰め込んで机を下げた。嘘です、チャイムが鳴る前に荷物をまとめました。細かいことは良いじゃないの!階段を一段飛ばしで駆け下りて、一回のカウンセリング室の戸を開ける。けど、誰もいなかった。

「……あれ?」

 とりあえず中に入って辺りを見渡す。

「おい」

 後ろで声がして、ビクッとする。

「私だって授業があるんだ。そんなに早く来られたって居ない」

 授業で使用したらしき倫理の教材を抱えた塚本先生が立っていた。


 塚本先生の支度が終わるのを待っている間にお母さんに、

「今日の夕飯は要りません」

 とメッセージを入れる。

 先生の支度が終わったので、一緒に先生の車に乗り込む。先生の車は、スタイリッシュなハイブリッドカーだった。助手席に座ってシートベルトを締める。

「で?これからどこに行くんです?」

「居酒屋だ」

「居酒屋!」

 教え子を!女子高校生を!そんな所に連れて行くんですか!と、キラキラした目の私を軽く睨んで付け足す。

「言っとくが、呑ませないからな」

「はいはい、分かってますよ」

 て言うか、車で行ったら先生も呑めないじゃないですか。まぁそんなん私には関係ないからね!

「しゅっぱーつ、しんこー!」

 先生の車に乗せてもらった私は、かなりはしゃいでいた。


 私の家とは反対方向に十分程走ると、飲み屋街みたいな所に出た。先生は有料駐車場に車を停めて、目的の店へと歩き始めた。私もそれについて行く。その店は「枯れ椿」という、料亭と大衆居酒屋の中間みたいな店だった。いや、まぁ、カテゴライズとしては大衆居酒屋なんだと思う。赤い暖簾をくぐると、かなりの客入りだった。一番奥の御座敷席に、一人で呑んでいる細っこいおじさん。塚本先生は、その人の所に歩み寄って行った。

「よお、丹羽」

「お、塚本。久し振りだな」

 これが、丹羽さんとの最初の出会いだった。丹羽さんねぇ。『丹』って書こうとすると、どうしても『舟』って書いちゃうんだよね。ウチのクラスにも丹羽ちゃんがいるからさ。いっつも申し訳なくなる。余談ですが。

 丹羽さんは、お顔ツルツルの塚本先生と違って、ジョリジョリした髭が生えていた。少し白髪混じりの長髪を、後ろで一つに括っていて、荒れた筆みたいになっていた。格好こそ白シャツにスラックスだったけど、そうじゃなけりゃただの浮浪者に見える様な人だった。

「紹介しよう。今回の依頼人だ」

 そう言って塚本先生は私を指し示した。

「……え?依頼人?」

「おい、こりゃまた若くて可愛い子連れてきたもんだな」

 あら、可愛い子ですって。私のことですね。

「塚本先生、この人が、その、何でも屋さんですか?」

「何でも屋とは、随分な紹介してくれたな」

 そう言って丹羽さんは愉快そうに笑う。

「俺は塚本の大学時代の同級生で、丹羽トウリってモンだ。透明な理由って書いて透理だ。何でも屋ってのは職業じゃねえよ。俺がやってんのは」

 ニヤッと笑って、自らの仕事への誇りをたっぷり混ぜて言葉を吐き出す。

「探偵さ」

 探偵……実在してたんだ。

「で?塚本は今日は呑めるのか?」

「いや、終わったらこの子を家まで送らなくちゃいけない」

「そうか。そりゃ残念だ。また今度、今度は純粋に呑みに行こう」

「そうだな」

「お嬢ちゃん、何が食べたい?遠慮なく注文しな。金出すのは塚本なんだから」

「あ、本当ですか!?じゃあ、遠慮なく!」

 焼き鳥と唐揚げと磯辺揚げを注文して、私達の会合はスタートした。

「で?嬢ちゃん、名前は?」

「あ、幸田ユメカと言います」

「ユメカ?どういう字だ?」

「夢が叶うと書いて、ユメカと読みます」

 分かり易い様に、生徒手帳を提示する。

「良い名前だな」

 ありがとうございます。

「で?幸田ユメカちゃんは何にお困りなのかな?」

「えっと、実は……」

 って、話の内容も話さないでこの人呼んだんですか?丹羽さんの塚本先生への信頼度って半端ないんだな。

「夢を、見るんです」

「……夢?」

「はい。予知夢と言うか、正夢と言うか」

「ふぅん……なぁ、塚本。これ、俺の管轄外じゃないのか?」

「管轄内だろうが外だろうが、お前なら何とかできるだろ?」

 ああ、違った。逆なんだ。塚本先生から丹羽さんへの信頼度が半端じゃないんだ。

「予知夢ねぇ……具体的には?」

「テストの内容が分かったり、火事が起こることが分かったりします」

「予知夢を見るようになったのは最近?」

「今週の月曜日の夜からです」

「最近も最近じゃねえか……」

 丹羽さんは少し考えこんで、

「その話、もっと詳しく聞かせてもらえないかな……」

 うへぇ……嫌だなぁ。でも、初対面の知らない人だからこそ別に何話したって良いかもなぁ。まぁ、隣に塚本先生いるんだけど。遅刻のことはもうバレちゃったし、彼氏いるんですって言っても問題ないかも。

「分かりました……えっと……最初の予知夢は」

「ああ、いや、今じゃなくて良い」

「……はい?」

「ノートに書き出してくれないか。日記として」

「……はぁ」

「出来れば数日前から、正夢を見るようになった日の昼間辺りから詳しく教えて欲しい」

「分かりました」

「何を見て何を感じたかまで、事細かく書いて欲しい」

 何だそれ、小説みたいじゃないか。

 ……しょうがない。腹括るか。

「また明日、放課後にここで会えるかな?」

「まぁ……多分、大丈夫です」

 カズミに拗ねられないかなぁ。アフターフォローしておかないと。


 という訳で、ご飯を食べ終わった私は先生の車に乗って家に向かっていたんだけど、

「あの、先生」

 どうしても気になることがあった。

「ん?どうした?」

「探偵さんに、今回の件を依頼した訳ですよね?」

「まぁな」

「ってことは……お金、かかりますよね……?」

「ああ、心配するな」

「……え?」

「アイツは、現金収入以外でも依頼を受ける」

 ……え、後で「身体で払え」とか言われないよね?

「アイツは、主に食事代で依頼を受ける」

 ああ、今日の食事代とか?

「出張費用とか、手土産とか、とにかく自分にとってプラスになる物なら何でも良い」

「……何でも屋さんですね」

「そうだな」

 そういう意味じゃあないんだけども。

 そう言って先生は笑った。

「そして、探偵にとって一番欲しい物ってのは何だと思う?」

「……達成感?」

「当たらずとも遠からずだ」

 ニヤッと笑って、自分の事の様に自慢げに。

「難解な謎さ」


 そんな話をしている内に、家に着いた。

「あ、ここです」

 車を停めてもらって、降車する。

「ありがとうございました。あ、あと、ごちそう様でした」

「いやいや、気にするな」

 車の窓に肘を掛けて先生が応える。

「ああ、そうだ。明日、一時間目が始まる前ぐらいにカウンセリング室だ。遅刻しないように」

「火事があった家の人と会うからですね。遅刻は……気をつけます」

「何か手土産、場合によっては現金を持ってくるかも知れない」

「……そうなんですか」

「『ご丁寧にありがとうございます』と、気持ち良く受け取りなさい」

「え、受け取って良いんですか?」

「受け取ってもらった方が収まりがつくし」

 少し言いにくそうに、歯切れ悪く。

「丹羽への依頼費用の足しにする」

 ……なるほど。

「分かりました。では、また明日」

「ああ、ゆっくり休めよ」

 そして私は家に入った。


「ただいまぁ」

「おかえり。ご飯食べてきたの?」

「うん」

「ふぅん……ご飯食べて来るって言うから、帰りは遅くなるのかと思ったけど、随分早く帰ってきたのね」

「ああ、まぁね」

 時計を見ると、まだ七時にもなっていなかった。水着を洗濯機に突っ込んで部屋に上がって制服を脱ぎ、今日は青い袖なしパーカーを着る。そして、扇風機の電源を入れて、机に向かう。いつぶりだろ、部屋の勉強机使うの。

「ええっと……ここら辺に使ってないのが……あった、あった」

 机の上の小さな棚から、まだ白紙の大学ノートを取り出して、筆箱からシャーペンを取り出して、悩む。丹羽さんに、

「出来れば数日前から、正夢を見るようになった日の昼間辺りから詳しく教えて欲しい」

 と言われたから、机に向かって記憶を絞り出す。何を見て何を感じたのかまで書いて欲しいとは、それじゃあやっぱり、まるで小説じゃないか。

 記憶力は良い方じゃないと思う。勉強でも暗記は苦手だ。まずはプロローグから始めようかな。そういうのが日記に必要なのかはイマイチ分からないけど、自分の人生のエピローグは自分じゃ書けないわけだしね。一生日記付けるのかはちょっと疑問……どころか、多分私は続けられないと思うんだけど。

 予知夢を見るようになった日の昼間って言うと……月曜日か。何の変哲もない朝と何の変哲もない学校生活を過ごした、という記憶しかない、よく晴れた月曜日だった。いや、一つだけ、個人面談があったのは覚えている。先生と2人で成績とかのことについて話し合って、お小言なんか貰うアレだ。それじゃあ、その個人面談のことから書き始めよう。さて、今夜は徹夜かもな。


 徹夜かもな、とか思っておいてなんだけれど、女子更衣室の前で「遅刻、バレたくないなぁ」と言ったところで寝落ちしてしまったらしい。情けないなぁ。

 という訳で、私は今夜も夢を見た。

 いや、むしろ、寝落ちして正解だったのかも知れない。少ないサンプルのデータを取るよりも、一つサンプルを増やす方が有意義であるはずなのだから。

 夢の舞台は、体育教官室だった。


 私がいない世界だった。

 音も存在しなかった。

 そこにいたのは、体育教師とカズミだった。カズミは鼻血を出していて、ティッシュを貰っていた。鼻にティッシュを詰めたカズミは、ムツ先生と一緒に体育教官室を出て、体育館に来た。体育館にも人は居なかった。体育館も通り過ぎて、これまた人のいない廊下に来た。そして、学ランを脱いで、内ポケットから何か封筒の様な物をムツ先生に渡した。ムツ先生は、カズミに必死で頭を下げていた。中身は、飛行機のチケットの様だった。しばらく二人で話していたけれど、何を話しているのかは聞こえなかった。カズミは詰めていたティッシュを外して、血が手に付かない様に摘んでトイレに入った。出てきたカズミとムツ先生は体育館の方へと帰って行って。


 そして、目が覚めた。

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