いもうと

澄田ゆきこ

 中学生になったばかりのわたしには、二歳の妹がいる。名前はるりちゃん。るり、と自分で言うことができなくて、自分のことをるいちゃん、と呼んでいる。

 わたしが中学受験のための塾に通い始めた年、お母さんのおなかからぽんと生まれた妹は、真っ赤な、小さなしわしわの顔で、びっくりするほど大きな声で泣いた。その日から、わたしの家の中心の軸が、全部、ぜんぶ妹になった。おやつがたまごボーロになった。塾の送り迎えの車の中も、家の中も、いつも、大きくて甲高いるりちゃんの泣き声がしていた。勉強をしなきゃいけない時でも、あかねー、とリビングから呼ばれると、わたしはるりちゃんを抱っこして、夕ご飯をつくるお母さんの代わりに面倒を見た。それでも時々、無理にお母さんのところに行きたがって、るりちゃんはわたしの腕から逃れようと、海老ぞりになって泣いた。

 るりちゃんはすくすくと大きくなった。丸くてぴかぴかのほっぺ。むちむちした腕や足。もみじみたいな手。かわいくて、非力で、ばかで、何もできない小さな妹は、なのになぜか全能感にあふれていて、怪獣みたいに家の中を荒らしまわった。おもちゃを散らかし、コップを倒し、気に入らないことがあれば、スーパーでも歩道の上でも、床に転がってぎゃんぎゃんと泣いた。家の中は、妹が動けるようになればなるほど、ぐちゃぐちゃに散らかるようになった。

 几帳面なお母さんも、片しても片してもきりがないことに嫌気が差したのか、そのうち完璧にきれいにすることを諦めた。「家にいるんだからしっかりしろよ、汚ねえなあ」とお父さんに言われた時は、お母さんはこちらが驚くほどの剣幕で怒っていた。るりちゃんの毎日の激しさは、その時のお母さんとなんだか似ている気がした。

 るりちゃんはなんでも自分でやりたがる。上手に飲めないくせに、コップで麦茶を飲もうとして、おなかの上にこぼす。靴下や靴を履くのも、一生懸命にやるけれど、裏返しだったり、反対だったり。手伝おうとすると、るりちゃんは大きく身をよじって「るいちゃんがやるの!」と泣き出す。泣くことじゃないじゃん、とわたしは困惑する。

 大人の真似もすぐしたがる。わたしが勉強をしていると、るいちゃんもやる、と私のひざにのり、テーブルの上でお絵かきをはじめる。そこまではいいのだけれど、少し目を離した隙に、宿題のプリントにボールペンでぐるぐると丸を書かれたことがあった。「ねぇね、みてー」というぴかぴかの笑顔は、上手だねと褒められることを当然のように待っていた。

「るりちゃん!」

 わたしは慌ててプリントを取り上げた。るりちゃんはわたしの大きな声にびっくりして固まっている。それから、大きな目にみるみるうちに涙がたまって、口を開けてわああああと泣いた。真っ赤な口の中が喉の奥まで見えた。提出しなきゃいけない宿題なのに。下手くそな、なのに自信満々な大きな丸。泣きたいのはこっちのほうだ。

 お母さんに相談したら、あなたがちゃんと見てなかったからでしょ、と言われた。

 るりちゃんはずるい、と思う。小さいから、なんでも許される。小さいから、無条件に存在を許されている。ご飯を全部食べたり、お母さんが洗い物をしているとき、プラスチックのお皿を「どーじょ」と持っていくだけで、褒められる。わたしのプリントに落書きをしても、わたしの制服をよだれでべたべたにしても、気をつけてなかったわたしのせい。るりちゃんはなんにもできないのに、わたしみたいに、テストで満点が取れなくて定規で手を叩かれたりもしない。

 ずるい。最初にそう思った時から、わたしはうっすらとるりちゃんが嫌いだ。

 るりちゃんがちょうど生まれたくらいの時期から、受験に失敗したらこのうちの子じゃなくなるようなプレッシャーが常にあった。「茜は勉強に集中しなきゃいけないの、わかるよね? それでもまだやりたい?」と言われて、ピアノをやめた。るりちゃんはそんなことは知らないから、平気でピアノをおもちゃにして、めちゃくちゃに鍵盤をたたいては、「ねぇね、みてー」と無邪気に笑いかけてくる。

 わたしがお母さんの自慢の娘なのは、わたしがしっかりしていて勉強ができるから。塾の難しいクラスに入って、中高一貫の私立の中学校に、合格することができたから。お宅の茜ちゃんはえらいね、と他のお母さんやお父さんから褒めてもらえるから。全部、条件つきだ。

 るりちゃんは甘えん坊で、素直で、傲慢で、わたしの欲しいものを全部持っている。「しっかり者だから」「お姉ちゃんだから」我慢しなきゃいけないわたしと違って、全身で叫ぶように感情を表に出す。だからわたしは羨ましい。羨ましいから、嫌いだ。


 ある日の夜、お父さんとお母さんが、久しぶりに派手な喧嘩をした。るりちゃんはわたしの傍で、ぎゅっと身体を固くしていた。わたしもるりちゃんを抱きかかえて、聞いていないふりをしながら、手で蛙をつくった。るりちゃんが指を突っ込んでくる。ばくっ、と手の蛙が指を食べると、るりちゃんはくすぐったそうに笑う。お母さんはたくさんの言葉をお父さんにぶつけまくって、カッとなったお父さんが、お母さんを手のひらでばしんと叩いた。その音にびっくりしたるりちゃんが、きゅっと肩を強張らせる。

「もういい。あなたとはもうやっていけない」

 お母さんの声。お母さんが引き出しから緑色の紙を出す。半分書いてあるから残りは書いて出してちょうだい。離婚届。とっくに準備していたのだと、その口調からわかる。今までも、ここまではひどくないけど、似たようなことはあったから。

「茜、外出る準備しなさい。瑠璃にジャンパー着せて」わたしが蛙を解くと同時に、「子どもは連れてくなよ。関係ないだろ」とお父さんが怖い声を出した。

「じゃあ茜の学費はどうするんだよ。稼ぎもないくせに。そっちこそ育てられないだろ」

 お父さんとお母さんの喧嘩はまだ続く。「瑠璃、おいで」とお母さんがこっちに向かって言う。顔に表情はない。

 わたしは、呼ばれなかった。

 わたしは大きいから。世話がいらないから。お金がかかるから。

 気づくとるりちゃんが、わたしの膝にぎゅっとしがみついていた。

「ねぇねもいっしょ?」

「お姉ちゃんはね、行かないのよ」

 るりちゃんはぶんぶんと頭を振る。涙がうるうると瞳を満たしていく。「瑠璃!」とお母さんが無理やり引きはがそうとすると、るりちゃんはびっくりするくらい強い力で、一生懸命にわたしにしがみつく。

「ねぇねも、ねぇねもいっしょにいくのー!」

 声が大きすぎて耳が痛い。ぴかぴかのほっぺたを涙がぼろぼろと落ちていく。こんなに小さいのに、何が起ころうとしているのか、すっかり理解しているみたいに、るりちゃんは激しくわたしにすがりつく。

 るりちゃんの剣幕に圧倒されて、お母さんはイライラしながらも、少し困っていた。そのうち、お父さんが大きな溜息とともに、ドアをばたんと閉めて部屋に戻った。

 一時休戦、だった。お母さんは眉間をぐりぐりとほぐし、わたしの脚に抱きついてしゃくりあげているるりちゃんの頭を、それからわたしの頭を、優しく撫でた。るりちゃんが顔をあげる。鼻水がてらてらと光っている。ティッシュで鼻水をふいてあげると、るりちゃんは、にまぁっ、と笑って、鼻水をまだ拭ききれていない顔を、すりすりと擦り付けてこようとする。

 この子はわたしがお姉ちゃんだから、わたしに懐いているのだろうか。あったかいるりちゃんの身体を、わたしもぎゅっと抱きしめる。緊張して冷えていたからだが、ゆっくりと溶けていく感じがする。

 明日も早いんだからもう寝なさい、とお母さんが言った。その日るりちゃんはわたしと同じ布団で眠った。るりちゃんは天然のゆたんぽみたいに熱かった。

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