第2話 訊ねる者

 湿った夜風の匂いに目を覚ますと、満天の星が俺を呑みこもうとしていた。主都にいた頃と違い、東の地平から西の地平まで遮るものがほとんどないため、余計にその星空の圧迫感が強かった。


「北斗七星だ……」


 空の主役だと言わんばかりの七つの輝きを、眼差しだけでなぞる。それだけで力尽きて、また、ゆっくりと瞼を降ろした。

 次に目を開けた時には、空はすっかり様変わりしていた。蒼天を背景に、白い雲が長閑のどかにたなびいている。


「まだ、生きてる……」


 両の手を握ったり開いたりして感触を確かめる。亀の皮膚よりもガサガサだったが、まだ動く。胃は相変わらず空っぽだが、砂漠の砂を丸呑みしたような渇きは消えていた。

 だが、次に何をしようか、考えは一向に浮かんでこない。

 ピーヒョロローと、トビが高い空を滑空して消えていく。このような何もない場所でも、空だけは昔とあまり変わらない。


 どれ程そうしていたろうか。

 ふと、他にも音がしていることに気が付いた。初めは小さく、次第にそれは大きくなった。

 ざっく、ざっく。ざっく、ざっく。

 地面に寝転がっているから、背中を伝って振動が直接響いてくる。誰かが土を耕しているのだろうか。


(こんな不毛の土地を?)


 この辺一帯は、もう随分昔にやってきた魔獣たちに散々荒らされ、住んでいた人間は逃げるか食べられるかしてもう誰もいないはずだ。食べる物がなくなった魔獣は既に去ったが、人間も安全な地域まで後退したまま、いまだ戻ってくる動きはない。

 文明の音がするのは不自然だ、とつくねんと考えた時、


 ざっぐ!


「ッ!?」


 すぐ耳元で、凶悪な音がした。飛び散った冷たい土が頬に当たる。

 まさかと、鈍っていた体を慌てて跳ね上げる。と案の定、目の前に鈍色の刃があった。更にその先に人影を見付けて、思わず何年も出していなかった大声を張り上げていた。


「……な、なにすんだ!」

「…………?」


 無様に尻餅をついた後、俺はやっと眼前の人物の顔を捉えた。

 無骨な鋤を握って直立していたのは、真黒な瞳が印象的な、まだ十代前半のような少女だった。しみとそばかすだらけの日焼けした肌をしており、紫外線ですっかり色が抜けてしまったような褐色の髪には、所々土が付いている。

 元は何色だったのか、畑仕事のせいか麻袋にしか見えない貫頭衣のような服からは、棒きれのような手足が覗いている。

 だが何より目を引いたのは、鋤を握る少女の右手の甲だった。


「焼き印……?」


 それは、かつて奴隷商が自身の商品だと分かるように付けていた焼き印であった。

 奴隷についてはその昔、当時最も多く人間を殺し、人間の国を滅ぼした魔者まものの集団を討伐に赴く際、選ばれた者たちが見返りに制度廃止を求めたことがあった。噂では、彼らもまた奴隷か、奴隷に関わりのある者だったという。

 だが彼らは、魔者全てを殺しきれずに消息不明となったため、その当時の廃止は実現されなかった。だが魔者の脅威が徐々に下火になっていくと廃止の風潮も強まり、数年後にはどの地域でも殆ど消えてなくなった。


 しかしそれも随分昔の話だ。奴隷は人身売買として法的に取り締まり、奴隷商などという職業も廃れて久しい。十代の少女に焼き印あるのは、とても不自然だ。だがそのみみず腫れは綺麗な円を描き、その内側の形も意味のあるものに思える。

 ざっと見たところ、この土地には他に人間はいない。奴隷だけがこの場所にいるのは、どこかから逃げて来たのか、或いは闇奴隷商の拠点などが近くにあるということになるが、ここに来るまでに行商の跡どころか、人が歩いたような痕跡もなかったように思う。


 思わず考え込んでしまったが、初対面の、しかも子供相手に、最初に焼き印のことを聞くのは流石に失礼だろう。ひとまず謝罪が先だろうと口を開きかけて、けれど声は出なかった。


「耕しています」


 ずっと静止したように俺を見下ろしていた少女が、突然脈絡のないことを言ったからだ。


「は?」


 すぐには意味が分からず、口を開けて少女を見上げる。焼き印について触れて気を悪くしたような様子は微塵もなく、その声はどこか機械的でさえあった。

 耕している。

 心の中で少女の言葉を反芻して、俺はもしかして先程の文句に対する答えなのではないか、と気が付いた。では今再びのこの沈黙は何であろうか。まさか、少女は会話をしているつもりで、俺の言葉の続きを待っているとでも言うのだろうか。

 他に可能性が浮かばなくて、俺はひとまず周囲を見回した。


 やはり、少女以外に人影はない。赤錆色に痩せ、荒涼とした大地は冷えた溶岩のように不規則に隆起し、大きな窪みなどは馬車が二つは軽く入るくらい幅がある。土くれ以外であるのは、砕けた石の塊や風化した木材など、かつてここに文明があったことを教えるだけの瓦礫くらいだ。植物は雑草の類さえ滅多になく、地中にはミミズやダンゴムシがいるのかどうかすら怪しい。

 反面、少女の後ろには、まっすぐに伸びた土の盛り上がりが、左右に規則的に広がっていた。土の色は同じだが、それだけで荒れ果てたという雰囲気が消え、明らかな意図が感じられる。

 俺は幾つかの情報から導き出された答えを呑み込むと、最も重要なことを確認することにした。


「……誰かに命令されてるのか?」

「プロウはプロウなので、耕しています」


 プロウ、とは名前なのだろうか。

 奴隷商の間では、本名から素性が辿られる危険性を排除するため、本来の名前を奪うことも多かった。この言い方では本人の意思のように聞こえるが、この辺は人里からはかなり離れている分、一日も歩けば魔獣の棲息地が出現し始めるような地域だ。そんな場所に、望んでいたがる者がいるとはとても思えないが。


「目的はなんだ」


 もしや人間に見せかけた魔者まものだろうか。

 荒廃を始めた頃、大陸ではあちこちで理性を失い、変質し、人を襲う獣が出現し始めた。研究者の一部では、その獣は一様にある種の瘴気に触れたことで凶暴化したのではないかという仮説が立った。俗にいう「魔化まか」である。

 そしてそれは、人間にも同様の影響をもたらした。

 瘴気――研究者の間では仮の呼称として「魔気まき」と呼んだ――は地中から滲み出していて目に見えず、命あるものに等しく影響を与えた。特に都会や工業地帯など人口密度の高い場所や、限界まで人の手が加えられ、最後には放置された土地などに濃度が高く、生き物は無意識のうちにそれらを取り込んだ。

 魔気は毒素や花粉のように気付かぬうちに体内に蓄積し、ある日突然生き物に変化を及ばす。その変化を、獣ならば魔獣、植物であれば魔草、そして人間ならば、魔者と呼んだ。


 そして最も人間に打撃を与えたのもまた、魔者であった。

 魔者の半数は、理性を保ちながらも魔気に抗えない衝動を持つのが通常だった。彼らは時に魔化していない人間を攫い、奴隷や間諜として使ったりもした。もしそうであれば、少女を保護するか、最悪始末する必要が出てきてしまうのだが。


「…………?」


 少女は、意図が分からなかったのか、そもそも目的はないのか、首を傾げるだけだった。黒い瞳からはどうにも感情が読み取れないが、少なくとも警戒して口を閉ざしている風ではなさそうである。

 ではどう聞けばこの少女の正体を特定できるだろうか、と考えていると、「……目的、は」と声がした。


「耕して、緑にすること、です」

「…………」


 今度は、こちらが沈黙する番であった。

 魔化した生物が通った後は、その生物が取り込んだ魔気が零れ出るのか、体内で無限に魔気が作られるのか、大地は穢され、植物などは健やかに育ちにくくなるのが常だった。変種になったり、毒を持つ物も増える。

 加えてここ一帯には、所々炭化したものや焦土となった場所がちらほらある。火を使う魔者がいたのか、はたまた逃走時の時間稼ぎに人間側が火を放ったか。途中にあった森も焼け野原に成り果てていたし、とても鋤を入れ種を撒いただけで大地が再生するとは思えない。


「不可能だ……」


 思わず、本音が零れていた。

 すると今度は、少女がそれまでと打って変わったはっきりとした声で断言した。


「『不可能はこの世にはない』」

「……な、ん……?」

「『本気でやる方法を探さないか、可能にする前に諦める者がいるだけだ』と、ご主人様は言っていました」

「『主人』……」


 突然の力強い声に少々驚いたが、最後に出てきた単語にやっと得心がいった。

 やはり彼女には仕える相手がいるのだ。

 俺は気合を入れ直して質問した。


「その主人はどこにいる」

「分かりません」

「……隠しているのか?」

「……分からないものを隠す方法が分かりません」


 無理かもしれない、と思った。先程は随分明確な返事をしたから希望を見出してしまったが、やはり最初の見立て通り、少女は会話が苦手のようだ。

 俺は致し方なく、様々な言葉を駆使して情報を聞き出した。

 何往復も実りのない問答を続けた末、「主人」にはもう随分前に捨てられたこと、現在は誰の所有物でもなく、耕しているのは鋤を見付けたからで、本当に他にしたいことがないからだと、何となく理解した。

 そして魔獣の棲息地のすぐそばを選んだのも、人里近くは人間が耕せるからというだけのことだと、少女は拙い言葉で語った。魔獣の危険がある場所は人がおらず、放置されるがままになっているから、と。

 だがそれも当然の話で、人間はまだまだ残された生活圏にしがみつき、文明と種を守ることに必死だ。少しでも金か土地があれば、自ら危険地域の不毛地帯に踏み込みたいとは思わない。


 では君は一体何なんだ、とは益々思ったが、質問にかまけている間に、既に日が沈み始めていた。

 俺も久しぶりに長々と会話をしたことへの疲れもあり、それ以上の疑問は翌日に持ち越すことにした。

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