第8話 秘め事ライブ
ただ階段を駆け下りたことだけは覚えている。その階段もどんな会談か覚えてはいない。ただひたすらその場から離れたかった。
外に飛び出しまだしまぶしい光があり、自分の身だしなみだけが気になりはしたが止まってゆっくりチェックなどしてみる余裕などない。走りながら後ろ前とざっと目を走らせた。
人目が気になって、誰一人自分のように焦りまくっている人間はいないことに気づく、落ち着かねば思いながらも動きは変わらなかった。
誰にも相談できず
そのことだけが頭の中で踊り、焦りだけが先走り、信じるものを亡くした頭の中の空洞を運めることはできなかった。
タクシーを拾い自宅マンションまでたどり着いた。鍵はかかったままなので、まだ富士子は来ていない。
(よかったー)と思うと同時に、素早く中に入り、もう一度、富士子が来ていないか確かめた。
居ないのを確かめ中から鍵をかけ、浴室に向かいそこで着衣を脱ぎすてた。
そして体中を洗いながら、とめどなく出てくる涙はシャワーの水と一緒に流れ落ちた。
脱ぎ捨てた着衣を一応まとめてゴミ箱に入れた。捨てるのは捨てるのだがこのままでは捨てられないと思った。富士子に聞かれるのが面倒だから、とりあえずゴミ箱に入れて自分のクローゼットに向かった。誰に見られても違和感のない普段着を身に着けた。
いったん気を抜くと薬のせいで眠気が戻りソファーの上で眠った。
どれほど眠ったろうか「美也子さん」と言う富士子の声でしぶしぶ目が開いた。
「その調子では今夜の用意はまだね。旦那様が早く帰る人だっらどうするつもりかしらねー」と口で𠮟りながら富士子の目は笑っていた。
敬一は早くても十時前に帰ることはなかった。重要会議が始まれば、これまでの答弁との整合性を調べるため徹夜で帰ってこない日もある。
そんな敬一を知ってか美也子の女性友達は「世間では徹夜の仕事、仕事って浮気する旦那が多いんですって、美也子のところはどうかなー」と言って「危ないわよー」と脅されても「私の旦那様は大丈夫。そんじょそこらの旦那と一緒にしないで」と本当に九十九パーセント本気で言っていた。
今回の肇は、それを完全にぶち破った。美也子が告発すれば肇は、完全に手が後ろに回る完全な犯罪行為である。それも重罪なのだ。
なんでそこまでしたのか、肇以外に知る由もない。向こうに渡って何かあったとしか考えられない。
肇の言い分で言えば、ついて来るものとばかり思っていた美也子が裏切ったから? それにしては自分が逮捕されても仕方のないことを簡単にできるなんて美也子が知っている肇では考えられない。
(こういうことがこの世に起きるんだ)とつらつら考え敬一にだって何が起こることか、美也子に起こったことが(みんなが言うように敬一だってわからんぞ)という思いに達し、そのタイミングで敬一が帰ってきた。
慌てた美也子は鏡を見てすまし顔づくりしていた。まだはい、っ家に入って来たばかりだと思っていた敬一がすぐ後ろで美也子の持っている鏡の中に入った。
「なにをやってるの」と小ばかにした笑いをした。
「見ないで…もう」と鏡を伏せてキッチンへと逃げた。
敬一はこの日。十時という早い帰りだった。美也子はさすがに敬一の顔をまともに見られなかった。敬一の周りでいつものように着替えの手伝いをし、いつものようにふるまった。
キッチン中でおぼつかない手つきで料理を温めている美也子の姿を見て敬一は(どうせ母親の富士子が来て作ったものであろうが、美也子は懸命匂い奥さんになろうとしている。まぁ長い目で見てやろう)そう思った。
美也子は敬一にたいするうしろめたさ、それを忘れるためにも(敬一に、なお一層尽くそうと思った。
美也子のそういう気持ちが敬一に伝わり、かわいく世話をしてくれる美也子に、敬一自身も美也子をやさしく愛することも忘れなかった。
肇との出来事がなければ、美也子と敬一は生涯の内に、この時ほど傍目に幸せはなかった。
その後体調の変化に気づき(もしや)と思いながら富士子に相談した。「そりゃあ、美也子さん間違いないわ」と言われ産婦人科を受診した。
この時点で美也子夫婦の前では言えないが「数年になるに『まだか、まだか』」と田村夫婦は、富士子と幸助は二人で美也子の懐妊を心待ちにしていた。
富士子は美也子から聞いた時に、(これは間違いないわ)と思っていたが、まずは確認してからと、ワクワクしながら待っていた。
美也子と一緒に妊娠と聞いた富士子は、天にも昇る思いを抑え電話口で一小さい声で幸助に爆発させた。波動は幸助に伝わり夫婦に喜びは頂点に達していた。
富士子にしては珍しく浮かれ調子で「あっ、そうそう敬一さんには美也子から伝えたほうがいいわね。そう美也子さんから報告するのよ」そういって美也子の肩をポンとたたき「さぁ、これから忙しくなるわよ」とまるで自分が産むかのごとき張り切りようだった。
美也子は美也子にしかわからない疑惑を持った。(もしや肇の子)(いや、そんなはずがない)と打ち消しても打ち消しても頭の中から湧いて出た。
不安そうな美也子を見て富士子は「初めの時は不安なものよ。でも大丈夫よ美也子さんにはママがついていますからね」と自分に言い聞かせるように笑顔でうなずいた。
美也子は、勇気づけようとする富士子の声を上の空で聞きながら(私には産まない選択だってある)そう思った。
(そうだ。子供はできることは分かったのだから、今回は堕胎してもいいのではないか)頭で美也子はそんなシナリオを描き始めていた。
その夜敬一は、いつになく上機嫌で帰ってきた。美也子は敬一に、少し恥じらい気味に「あなた、私…できちゃたみたい」と言うと敬一はニコニコしながら「そうらしいね」という答えが返ってきた。
今日昼間の富士子の調子なら、黙っていられなくて、つい喋ったとも考えられる。不審げな顔で美也子が「もう知っていたの」と聞くと、敬一は「あぁ、珍しいことに、父さんから電話があったよ。おめでとうって」という敬一の答えだった。
美也子は一人で抱え込む重圧を感じていた。美也子の思いを通そうとすればはじ肇に触れなければならなくなるだろう。それは絶対にできない。
(祝福されている。みんなが望んでいる。この子を)と美也子の手が自分の上に子宮に行っていた。
これでは美也子の考える最悪のシナリオになるではないか。しかし(肇のことは誰も知らない。私しか知らない。黙っていれば分かりはしない。待て待てまだあの時の子供だと決まったわけではない)
美也子は自分にそう思い込ませ、その場で耐えていた。
十月十日の予定日を待たず、三千二百グラムの女の子を美也子は出産した。(それ見ろ予定日だって)と美也子な内心すべて否定しょう否定しようと思った。
「詩織」と名付けられ、まだどんな運命に翻弄されるかも知らず無邪気に目を見開き手足を元気に動かしている。
詩織はすくすく成長していた。八か月が過ぎ一歳にを迎えようかという頃、内々に祝おうと田村邸に美也子が詩織を連れて来ていた。
初孫を始めて見に三瀬村から出てくる姿子を、敬一が東京駅まで迎え田村の邸宅に連れてきた。
これは遠くに住み、めったに会うことのでいない姿子に初孫を見せたいという、美也子を除く田村夫婦と敬一、三人の計らいでもあった。
中国山地から電車を乗り継ぎ乗り継ぎの東京への旅は、姿子にとっても安易な旅ではなかった。
敬一に迎えられて久しぶりの言葉が「東京は空気が悪いねー。こんな所によく住めるわ」だった。敬一への当てこすりにも聞こえなくもないが、敬一自身も誰もが思ってることなので、敬一も返す言葉がなかった。
初孫見たさに誘われてやってきた姿子を加え、主役の詩織を囲んで、詩織の誕生を喜び祝った。
美也子もその輪の中にいて、皆が笑えば美也子もぎこちないつくり笑顔だったが、心ここにあらず頭の中は(血液型は肇も敬一も同じ)そんな言葉が巡っていた。
強いプレッシャーの中で、月日というものは人間を大胆にさせる。美也子に刺さった棘は疼くが、当初あれだけ(医師や病院の誰かわかっていて)とか(もし誰かに分かっていれば)と色々怯えていたものが、一年が経つ今(私さえ黙っていれば、わかりゃーしないさ)に変わった。
可愛さを増していく詩織を中心に、何事も起こらず幸せな日々が続いていた。
詩織が生まれて二年後に、美也子は二子を授かった。間違いなく敬一の子供だ「将也」と名付けられ順調に育った。
環境庁が環境省に格上げされたときは、もうすでに東阪建設に天下り、専務取締役次期社長としてバリバリ仕事に精出していた時期だった。
そして、幸助と富士子の夫婦にとって将也の誕生は、詩織の時と違った意味での喜びだった。
孫二人可愛くて仕方ないらしく、用事がなくても何かに託けて敬一夫婦のマンションを訪れた。
勿論遠く離れた三瀬村に住む姿子とて幸助や富士子と同様によら媚喜びの日々だった。
特に幸助は子供が美也子ひとりで男の子に恵まれなかった為、ことのほか喜び可愛がった。
可愛いあまりに、出先で珍しい玩具を見つけたと言っては買ってきた。買ってきたのはいいが、それを使うのには幼すぎて使うことができず「少しは考えなさい」と叱られていた。
そんな両親を微笑ましく見ていた美也子だが、詩織の顔を見ると心に刺さった棘が疼く(詩織の顔は私や母の富士子に似ており、決してあの時の子供ではない)そう思いたくて美也子自身が自分に向けている疑惑を打ち消そうとしていた。
続
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