第9話 転地療養
将也が生まれ一層にぎやかになっていた大倉家のマンションだが、三歳の誕生日を過ぎ元気に育っていた詩織だが、ひどく咳き込み苦しむようになり、病院の小児科を受信し診断を仰いだ。
診断は小児喘息だった。各地でも公害が問題になり、東京の大気汚染もひどく、青空は見えないのが当たり前のようになっていた。詩織の喘息も無関係ではなかった。敬一が環境問題にかかわっていたのも皮肉であった。
敬一と美也子の夫婦に幸助と富士子の夫婦の四人は、詩織が小児喘息と聞いて集まった。
さて、どうしたものかとみんなで頭を抱え込んだ。医師は「あなたの親族に喘息の人はいますか」とか「原因はほかにもあろうが最大の原因は、この東京の空気の悪さだ」と言い切った。
四人が話している中で幸助が「小児喘息か、これは男の子がかかる病気じゃないのか。そう聞いたことがあるぞ」と何の根拠もなく流布された噂話を持ち出した。
その話にはみんな(そうかなー、しかし現実に詩織は小児喘息と診断されているではないか)と頭をひねった。
富士子も「私の実家にも喘息持ちがいると聞いたこともないし、田村の家系にもいないでしょ。ねえあなた」と幸助に言った。幸助は「勿論、大倉の家系にも、いないよな敬一君」振られた敬一は「はあ」と気のない返事をした。
敬一にとってその話はどうでもよかった。そんなことより今、目の前で(苦しむ詩織を早く楽にしてやりたい)と思っていた。
四人の中で美也子ひとりだけが他のことを思いついていた(そういえば…肇は小児喘息だったはず)またもや美也子の顔が曇った。
咳き込んでいるのは間違いないので喘息で間違いなかろうが、それなら小児喘息の権威ある医師にもう一度見てもらおうということになった。
四人の期待むなしく「男児に比べて比率は低いが、女児もかかる病気です」ということで納得せざるを得なかった。
診察の時付き添ってい居た美也子は医師から問診を受けていた「家族の中に喘息の人はいますか」と言われ「いません」と答えた。それは正しい家族会議でも「いない」という結果は出ている。美也子の頭に(肇が小児喘息だった)という悪夢がよみがえる。
治療を続けて半年がたっても思うように改善せず、空気の綺麗なところへの転地療養が勧められた。転地療養と言われても、また四人が顔をそろえた。
富士子を除く三人が転地として頭に浮かんだのは、姿子が暮らす三瀬村だった。
三瀬村と言えばダムの工事はまだだが着々と準備は進んでいる。幸助が「敬一君、まだ予備の段階だ。よしんば本体工事に着手しても、立ち退きまではまだまだ当分かかる。
少し遠いが三瀬村のお母さんに預かってもらうよう願いしたらどうだろう」とみんなが何となく頭の中に描いていることを具体的に言った。
幸助の提案に敬一が「そうですねー」と言って美也子と富士子を見た。美也子と富士子の二人は幸助が三瀬村の姿子に預けたらどうか? と言っていることだけは分かった。
「あそこなら空気も好いし、敬一君も美也子も安心だろう。姿子さんも、あの大きな屋敷に一人でいるより、少しは賑やかになって良いんじゃないか」と幸助が続けた。
富士子と美也子は、遠すぎると難色を示した。三瀬村が嫌だというのではない。いざ行くと言っても時間がかかりすぎる。しかし、長野にある田村家の親戚に「幼い病の子を預けられるか」となると疑問符が付く。
結局、詩織の祖母、三瀬村の姿子以外には適任者は見つからず、姿子に預けるという結論に至り富士子と美也子に二人も納得せざるを得なかった。
一方で三瀬村の姿子は、かわいい孫の詩織を預かることを承諾したものの、還暦に近くになって、もう一度子育てをするとは思ってもいなかった。
姿子自身は、まだ健康で体力にも自信はあるが、かわいい孫が喘息で苦しんでいる。
姿子には喘息のことは一般に言われている程度の知識しかない。不安で仕方なかった。
預かると決めた以上は、詩織とともに喘息と戦わなければならない。どうしたものかと姿子は悩んだ。悩んだ挙句、自分で考えてもはらちはあかない。こうなれば医師に聞く以外あるまい。
しかし、姿子は今まで大病もせず「医者にかかったことがない」というのが自慢の大の医者嫌いだ。それをよく知っている親戚の町医者に頭を下げるのはシャクだが仕方あるまい。ここは可愛い孫の為にと腹をくくった。
三瀬村の駅から電車に乗って久しぶりに街に出る。「立石医院(内科・小児科)」の看板がかかった医院までやってきた。
医院長の立石伸生は姿子の従姉妹の息子だった。事情を話し「喘息について教えてほしい」と頭を下げた。今まで見たこともない真剣さに、伸生は苦笑いしながら「向こうの先生から紹介があろうが」と前置きした。
立石医師は、姿子から聞いた詩織の症状を推測しながら、丁寧に説明してくれた。姿子は聞けば聞くほど心配になり「先生、夜中に発作が起きたらどうしよう」と言う「でもおばちゃんが、預かると言ったんだろ」と医師が言い「そりゃーそうだけど」という姿子の弱気に「いざという時には、私が行ってあげるから」と伸生医師が心強く言ってくれた。
続
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