第7話 悪魔のささやき
敬一が美也子と結婚するということは、将来の天下り先を確保したということになり、世間はともかく仲間内のやっかみや噂は敬一の耳にも届いた。中には気持ちを逆なでするようなものまでさまざま。
様々な人から噂されることは、敬一が美也子と結婚すると決めた時から覚悟はしていた。しかし(無垢な美也子には耐え難かろう)と思い美也子を、あらぬ噂から(守らなければ)と敬一は気を配った。
新居を決める際に「新居は東阪建設の持ちビルマンションに住めばよい」と幸助に言われ、美也子も「そうしようよ」と言ったが敬一は断わった。
これ以上、噂の餌食になることはない。新居はもちろん東阪建設の援助と思われるものは極力避けたいと舅の幸助にも申し出た。
親として愛娘の美也子夫婦に、してやれることは、してやりたいと思い色々と考えていた幸助だったが、自分の援助が、かえって美也子夫婦を苦しめては本末転倒になるになってしまう。
援助を避けたいと言ってきた敬一の話を聞き「田村幸助が結婚する娘の美也子に援助するのに誰はばかることはないと思うが、敬一君がそこまで考えてくれているのなら敬一君に任せる」と言い敬一の気遣いに感心し幸助は益々敬一が気に入った。
敬一が探したマンションで新婚生活が始まり敬一は出勤し夜は遅かった。当然美也子は実家と行ったり来たりの生活だった。しかし今までとは違いすべてを母親の富士子に任せるわけにはいかない。
美也子に呼ばれマンションに来るたびに富士子は「すみません、いつまでも子供で」と敬一に謝りながら楽しそうにだった。そんな富士子に何かと頼る美也子も、富士子に頼らず自分で何とかしようと一人で頑張る美也子も、敬一には微笑ましくも可愛かった。
敬一はその後、当然のことながら幸助と会う機会があり、最初のうちは遠回しに「ぼつぼつ来る気はないか」と幸助が東阪建設へ誘った。
幸助の思惑と敬一の思惑は、大筋では一致しているものの敬一は(やりかけの問題を片づけて東阪建設に移りたい)と、幸助との思いにずれが生じていた。
結婚して月日が経つにつれ「敬一君、東阪建設の身内ということで、庁内の居心地が悪くなっとりゃあせんか? どうだ、もうけりをつけて東阪建設にこんか」と幸助はダイレクトに誘いの声をかけてくるようになった。
こうなることは美也子と結婚すると決めた時から承知していたので、幸助の誘いに「そのうち期をみて」と答えていた。
帰りの遅い敬一と美也子の新婚生活は、それなりに楽しくも微笑ましいものだった。
一年はあっという間に過ぎて、二年目に入っていた。朝いつものように敬一を送り出して、ほっと一息ついた時だった。
待ち構えたかのように電話が鳴った。美也子が受話器を取って「もしもし、大倉でございます」と言うと「ほー、奥様ぶりも板についてきたじゃないか」そう冷たい声が帰ってきた。電話の向こうの声が肇だとすぐに分かった。
美也子は、動揺した。その動揺を気取られまいと(冷静に、冷静に)と動揺を飲み込んだ。
とっさに(もしも肇でなければ)という願望が働き(どなた様で)と言いかけたが「柿崎様ですね」と苗字で問いかけた。
「おいおい…美也子」と言って電話の向こうで肇が笑った。
そして「ハイハイ柿崎肇と申します。これでよろしゅうございますか、大倉夫人様」そういって肇は大笑いをした。
肇の大笑いを聞いて「茶化さないでよ、もう…」と美也子は以前の美也子に戻って怒った。
「それそれそれ、それだよ美也子。うん美也子らしくなった」そう言って、また肇が笑った。
美也子は肇が、今どこにいて、何をしているのか気になって聞いた。肇は一週間程前に帰国したことを美也子に伝え、何分初渡米以来日本にご無沙汰していたので仕事以外の各所への挨拶回りをしていたと言った
そして美也子には「もちろん私的には、一番先に美也子に会いたかった」と肇は、ストレートに言った。
聞いた美也子は(それを今言うか…その気持ちが少しでもあったなら、今まで六年余りもなしのつぶてで放り出し、そのままということはあり得ない)と思った。
美也子は受話器をもったまま笑い出した。笑いが止むと肇は「日本に居る間に会って話がしたい」と言った。
懐かしさはあるものの(今更会ったところで)と思いはしたが、美也子は「敬一と三人で会いましょう。敬一も喜ぶわ」そう答えた。
美也子の提案に肇は「敬一と幸せなんだなー。だけど俺と美也子は一度会って話をする必要がある。美也子の幸せを壊す気はなどないから」と言って「二人で会いたい」と譲らなかった。
おそらく肇は美也子がニューヨークに一緒に行かず、敬一と結婚までしたことを根に持っての要求だろうと美也子は思った。
そのことにこだわっているだろうことは受話器の向こうから伝わってっ来た。
美也子は気が重く暗い気持ちになった。
結婚して落ち着いた美也子に電話を入れてまで「会おう」と言ったが、言った後も肇は葛藤していた。
(いまさら美也子に会ってどうなるものでもあるまい。二人の為に…このままそっとしてやろう)自問自答しながら受話器を握っていた。
その一方で肇の頭に、肇の記憶の中にある美也子のすべてが蘇る。美也子の柔肌までも…(あの時点で美也子が愛していたのは、この俺だろう)と、あの美也子と別れてニューヨークに出発した時から肇の時間は止まっていた。
(見送りの時に見せた涙は嘘だったのか、あの美也子が敬一に抱かれている)肇の嫉妬は頂点に達していた。
美也子も思う。今になって肇に、とやかく言われることはなかろう。肇に放ったらかしにされて美也子がどれだけ苦しんだか。
経緯はどうであれ美也子はもう敬一の妻なのだ。肇は言った「美也子の幸せは壊さない」と。
美也子は肇の善意を信じて、昔なじみの喫茶店で待ち合わせた。その夜、敬一が帰ってきても肇から電話がかかってきたことは言わなかった。
言わなかったのではなく言えなかったのだ。
その夜、+一抹の不安を抱え寝室に入った美也子は、不安を払しょくするかのようにベッドの上でいつになく激しく敬一を求めた。
翌朝、美也子は指定された喫茶店に出かけて行った。喫茶店の前に一台の乗用車が止まっれいた。乗用車の運転席には肇が乗っていた。
その乗用車の後方に美也子の乗ったタクシーが止まった。美也子が降りて、四五歩歩いた時、止まっていた乗用車の助手席の窓から肇の声がした。
肇は、助手席に乗るよう促した。「なんで」と美也子が言うと「いいから、早く乗って」とややきつい口調で言った。
恋人時代に会っていた時の習慣で、何の抵抗もなく美也子は肇の乗用車に乗った。
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車は滑るように走り出した。走り出して美也子は、ハッとして「ちょっと待ってよ。変な所へ連れてゆくんだったら降ろしてよ」と言った。
肇は「馬鹿だなー、考えてみろ学生時代ともう違うんだぞ。君はもう環境庁のエリート、大倉敬一の奥様なんだぞ。そこいらのジャーナリスト気取りの口さがない連中につかまってみろ。何を書かれるっやら」座席の脇から小さなコーヒーのボトルを取り出しながら、そう言い終わった。
「これでも気を使ってやってんだぞ」と親切心いっぱいに『さぁこれでも飲んでのどを潤しな』と美也子の手に渡した。
美也子は’(しゃべりすぎてのどが渇いたのは肇のほうでしょ)そう思いながらボトルを見た。メードインUSAだった。
美也子が一口飲むと、間髪入れずに「どう、味は」と聞いた。その時の気味悪い肇の一瞬ん薄ら笑いを美也子は見た。
「肇、あなた…なんで、ここまでして…」美也子の記憶はここで途絶えた。
続
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