第5話 嫌いじゃないけど
美也子の決断に許された時間はあまりなかった。肇は好きだから一緒に居たい、だからと言って両親に会えなくなるような遠く外国まで行ってもよいものだろうか。迷った。
この時、美也子に(私が両親と離れられないことは肇にもわかっている。肇は三年と言った。肇が私を愛してくれているならば、きっと帰ってくる。三年たてば一緒になれるじゃない)と言う楽観的な思いが増幅していた。
美也子が迷い態度を決めかねている間に、「会社の都合で予定が早まった」と言い肇は「美也子、俺…先に言って待っているわ」と言った。
唖然としている美也子に「待てなくて、ごめんな。美也子にもいろいろと準備があるだろうに」と肇の頭の中は(美也子は自分とニューヨークに来る)と確信しているようだった。
肇にそう言われ頷いて、気持ちが伝えられない、もどかしさに悲しくなった。涙目の美也子を見た肇は、美也子のうるんだ眼を誤解して、今までにない愛おしさを感じて美也子を抱きしめた。
肇が美也子の気持ちを一人で勝手に決め込んで、ニューヨークへ旅立って数日が経った。肇が美也子も準備と言ったが美也子はニューヨーク行きの準備などしていなかった。
ろくに話し合いもせず、美也子の気持ちおも勝手に決めて、自分の目的の地へと肇は飛び立って行った。美也子には美也子の気持ちも家庭の事情もあるのだ。
しっかりとした跡取りの長男がいて、何所にでも飛んでいける次男坊の肇のように身軽ではないのだ。別れた後の寂しさと腹立たしさが日増しに増し、誰かに聞けるものなら「肇と私、どっちが悪い」と聞いてみたい気がした。
肇は準備と言ったけれど美也子が行くと決めれば、すぐにでも済むのだ。三年間で「帰れると思う」と言う肇の曖昧な返事を盾に「ごめんなさい。三年間は本当に寂しいけれど私は、日本で待つことにします」とニューヨークの肇に手紙を送った。
採りようによっては関係の終わりとも採れる手紙を送ってしまった。望みの三年という期間はあるものの美也子は(取り返しのつかないことをしてしまったのではないか)と思った。
肇との月日は、そんなに簡単に思い出の世界に追いやることはできなかった。想像通り肇からの返信はなかった。日々寂しさは募り美也子は街に出かけた。肇と歩いた思い出の街並みを、ふらふらさまよい日にちだけが過ぎて行った。
華やかな夜の街はずれに小綺麗な「翼」と言う居酒屋があった。美也子が初めて肇と二人で来た店だった。そののち敬一と久美が加わった思い出の場所でもある。
肇からは相変わらず音沙汰なしで、年月が経ち季節は巡り物悲しい秋だった。十時と言うめったにない早い時間に仕事から解放された敬一は、昔を思い出して居酒屋の「翼」にふらりと寄った。そこに美也子が来てるとは思ってもいなかった。
居酒屋「翼」は学生時代美也子、翼それに久美と敬一の四人でよく来た店だった。よく来たと言っても学生のこと、三、四か月に一回程度で四人のうち誰かが口実を作っての飲み会だった。
当時と変わらぬ店内だった。そのカウンターに一人で座っている女性が目に入った。見たことのある後ろ姿は田村美也子だった。学生時代もおしゃれだったが、それに一段と磨きがかかったようで、やや長めのヘヤースタイルと洋服のコーディネートはすっかり大人の女性だった。
「ここ開いていますか」と敬一が声をかけると「開いています」と言って美也子は振り返った。一瞬驚きの表情をしたが「なんだ大倉敬一か」と少し笑顔になった。
「その大倉敬一ですが、へー令嬢の美也子さんが一人で、おっさん飲みするんだ」と言い薄手のコートを店員に預けながら敬一は、美也子の横に座った。「これ、おっさん飲みって言うの、嫌みな奴」と美也子は笑った。
お互いの状況は分かっていたので、近況には触れず「田舎のお母様お元気かしら」と美也子は敬一の母親の姿子のことを聞いてきた。学生時代二年の夏休み四人で旅行しようということになり、三瀬村に敬一が渋々連れて帰ったことがある。
久美は田舎に帰ったのに敬一は、東京で就職してしまった。それで美也子は姿子を思い出したらしい。「あそこも水没することが決まって、これから大変だろうな」敬一は他人事のように言った。
美也子は敬一を見て「水没って言った」と聞き返した。「そうダムができるの」と敬一が言うと「噓でしょ、自然いっぱい。緑の中を涼しい風が吹いていて素敵なとこだったのに」美也子が残念そうに言って「あっ、それって環境庁あなたの出番でしょう」と言った。
敬一はグラスを口に運びながら「ふふ、自然環境を守れ、ですか。なにせ建設省のほうが強い。只今環境庁は大気汚染や諸々の公害で手一杯。なんて言ったらアウトだね」と美也子の顔を見た。
「お母様はなんて」と美也子が聞いた。敬一は「大手製鉄会社の誘致とセットだから泣いても笑ってもダメ。それに御父上の会社東阪建設も一枚かんでいるはずだよ」と言った。「私、父の仕事のことは知らないの」と美也子が言う、さもありなんと敬一も了解し、それ以上ダムの話はせず、学生時代の思い出話をした。
偶然「翼」で再開したのち美也子と連絡しあい時々会うようになった敬一だが、高度経済成長期、公害もあちらこちらで発生し、健康被害が出始め人々の目が環境行政に向かうようになり、対応に追われる行政のさなかに敬一はいた。
仕事が忙しければ忙しいほど、解放され一人の部屋にポツンと居ると、いたたまれなくなり美也子に電話した。敬一の仕事柄、帰りも不定期なので美也子のほうから電話することはなく、敬一からの電話を待った。
美也子と敬一の二人は恋人に去られ、東京に残された者同士と言う寂しさを共有し親密さを増していった。月日の経つのは早く、いつしか二人はお互いになくてはならない人になっていた。そして美也子は、敬一の部屋に来るようになった。
奥羽の伏木家から美也子に結婚式の招待状が届いたのは、敬一と美也子が関係をもって半年が過ぎたころだった。
美也子は迷うことなく早々に敬一の部屋に行き「久美から来たわよ」と結婚式の招待状を敬一に見せた。
敬一は何も言わず美也子の手から招待状を手に取った。確かに伏木久美と相手の名前、丹沢道夫と書かれてあった。
美也子は敬一に「あなたに連絡はあったの」と一見無神経に聞こえる美也子の問いではあるが美也子の性格からして、それは決して嫌味ではなかった。
奥羽の伏木家から来た久美と道夫の結婚招待状一通は、敬一と美也子を一時的に、あの居酒屋で再会した時まで時計の針を引き戻させた。
そしてあの時に喉元まで出かかっていた言葉をまた思い出させ、敬一は美也子の瞳の中に肇を見て取り「肇は今頃どうしているかなー」と無意識につぶやいた。
美也子は敬一の口から出た「肇」と言う言葉に動揺している自分が分かった。敬一は自分の口を吐いて出た言葉に美也子が動揺しているのが手に取るように分かった。
そして今一度美也子が口を開いた時、敬一のつぶやきは無視して「未練残して別れた元カレに招待状はないか」とカラカラと笑った。
続
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます