第3話 息子の成長
ハッとして姿子は政次郎を見た。政次郎が真剣な眼差しで姿子を見ていた。目と目が合うと政次郎は、傍ら座っている姿子に近い右手を差し出した。
姿子の両手がしっかりと、差し出した政次郎の手をつかんだ。その手は冷たかった。
顔も血の気が引いていた。目の前で横たわる政次郎は、もはや此の世のものではない。今この手で繋がっている姿子、そして愛おしい息子に言い残す為、脳だけを覚醒させているように見えた。
「何もできないように手足を縛られた。アメリカ軍の国連軍統治下にあるとはいえ、虎視眈々と狙っている」と声を振り絞りながら政次郎は続けて「戦後処理とはいえ無念…戦死した部下や戦友に何と言えばいい」と充血した目を見開いた。
「あなたのせいじゃないわ」と姿子は目の前の遠い人に向かって叫んだ。
「姿子…敬一を頼んだぞ」と充血した赤い目で政次郎が声を絞り出した。姿子が眼力強くうなずくと政次郎は「姿子も休め…俺はもういいから」そう言った。姿子の眼から涙がこぼれた。政次郎は、それから目を開けることなくこの世を去った。
後を託された姿子だった。悲しみに暮れているわけにはいかないと、人前では気丈に振舞った。
気丈に振舞ったものの政次郎を亡くし、もう帰らない人の面影がぬくもりが思い出されて姿子の眼には人知れず涙が滲んだ。
姿子もそうだが嘉一郎とて同じこと、落胆の色は隠せなかった。戦争という状況下にあったにせよ「思うように期待できる婿を迎えることができたのに、自分より先に逝くことになろうとは…」と悔しがった。
姿子や嘉一郎それにヤエ、この三人の悲しみは、あどけない敬一の可愛いしぐさによって癒され救われた。
政次郎との約束、かわいい敬一の為に姿子は「大倉の家は私が守らねば」と自分に言い聞かせた。嘉一郎も、もう還暦過ぎだが「おいぼれの体に鞭打って何とかせねば」と気合を入れた。
そこには嘉一郎の「ただただ敬一の行く末を見たい」という一念があった。また政次郎亡き後を姿子は一人で敬一を育てなければならない。そんな、まだ若い姿子が嘉一郎とヤエは不憫だった。その姿子の為にも「自分がなんとかせねば」と思っていた。
戦後の混乱期のさなか己が食べんがため、のみならず戦後デモクラシーの渦中に人々は巻き込まれていった。そして人々は生きるすべを求め、それぞれが大なり小なり光と闇を抱え、そのはざまで自分の都合のいいように蠢いていた。
大倉家の人たちも例外なくその中にいた。大倉家にとって全盛期の威光は落ちたというものの嘉一郎の存在が、存在そのものが有形無形の力だった。
姿子はそんな嘉一郎や母ヤエの力を借りながら、大倉家を切り盛りして敬一を育てた。
世の中が落ち着き経済復興へ邁進する頃、敬一は大倉屋敷で祖父母に溺愛されていたが、姿子だけは厳しすぎるぐらい厳しかった。
色々様々な出来事に遭遇しながらも敬一は、大倉家の人々の期待にたがうことなく東京の名門校に受かり嘉一郎とヤエの祖父母は、もろ手を上げて喜んだ。
姿子の眼に、今まで祖父母に甘やかされ我儘放題で育った敬一が、東京の見知らぬ人の中で上手く生活できるだろうか。大学で盛んな学生運動のニュースを見るにつけ姿子の心配は尽きなかった。
そんな姿子の心配をよそに敬一は、大倉家の家族を喜ばせ見知らぬ東京へと三瀬村を後にした。
敬一の入った大学は丁度その頃、過激派に一部占拠され左翼の先導で一部学生や若者が躍るという闘争の激しい時だった。
元々矛盾の中に人間はどっぷりつかっている、それを受け入れている者や学生運動に加わることのない大部分の学生、その大部分の一般学生の中に敬一はいた。
あるとき敬一は、ヘルメット姿の過激派の集団に遭遇した。その時に祖父の嘉一郎の顔が浮かんだ。祖父嘉一郎は、三瀬村の九頭山山腹にある畑の、ひだまりでニコニコしていた。なだらかな傾斜の畑は、敬一少年が嘉一郎に連れて行かれた場所だった。
春の山菜取りに行った時、姿子の作ってくれたおにぎりを食べながら「お前の親父は、日本を守ろうと戦い戦死した」と言い「お前も親父に負けない立派な大人にならんとのー」と付け加えた嘉一郎の声が頭をよぎった。
そうした祖父の影響もあって敬一なりに国の安保に関心があった。目の前で起こっている闘争の在り方を全否定はしないが、敬一の考えるそれとはかなり違っていた。三瀬村でテレビや新聞の報道で学生運動の激しいさまを見ていた母親の姿子は、東京の大学にと決まった時「もしや敬一が」と一番心配していたことを敬一は知っていた。
敬一が東京で初めて知り合った女性は、伏木久美という同じゼミで顔を合わせる学生で、出身は東北のみちのく奥羽だった。
敬一の出身は中国地方で、お互いに東京では田舎者同士だった。二人とも東京へは時々着てはいたが生活するのは初めてで、なにかと戸惑いもあった。
顔を合わせる機会があったからと言えばそうだが、お互いに引かれっるものがあって、敬一が最初に声をかけ久美もそれにこたえ、時々会って話をするようになった。そんなときに東京育ちで恋人を自任する二人、田村美也子と柿崎肇に会った。
二人はサークル活動の仲間を探していた。美也子と肇が敬一と久美に「同じサークルで一緒にやろうよ」と誘われた。これと言って他に何の予定もなかった敬一と久美は、誘われるままにサークルに入った。
サークル活動もそうだが、活動外にも四人はなぜか行動を共にし親しくなった。
美也子と肇は恋人同士を公言し、それらしく振舞っていた。一方の敬一と久美は、南北に離れた中国地方と東北地方の出身、お互い初めての東京生活で、少なからずカルチャーショックを受けていた。
東京に詳しく無い敬一と久美にとっては、東京に詳しい美也子と肇の存在は何かと便利であったことに間違いはない。付き合いだして話をしてみると敬一は洗練された美也子に「やっぱり東京の女性は違うなー」と心惹かれる。美也子のほうも、田舎育ちで素朴な雰囲気を持つ敬一に興味を持った。
三瀬村から出てきたばかりの敬一は、東京育ちの美也子と話すときには、どうしても必要以上に気を使った。日にちが経つにつれて敬一は美也子と話すより久美のほうが、なんとなくテンポが合い話しやすい気がした。奥羽で育った久美も同じように言葉の違いはあるものの肇より敬一のほうが落ち着ける気がしていた。
いつからともなく敬一と久美は二人きりで会う機会を作り会っていた。接近した二人は、迷うことなく恋に落ちていった。
美也子と肇は、青春の恋を継続している。そこに敬一と久美が加わり、二組四人の恋人同士が居心地よく学生生活を送った。
続
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