第5話
喫煙所を出て購買部前のベンチの前に戻る頃には、喧騒は嘘のようになくなっていた。
「そうか、もう四限始まってる時間だったか。っても後一限分暇も潰さなきゃなんねぇのか……いっぺん帰るか?」
自分のカリキュラムを思い出しながら独り言を呟く。確か次に控えている講義は……ボソボソ喋る教授の現代社会学論だったか。
正直話はあまり面白くない。全くと言って良いほど自分のアンテナと合わないのだ。それでもこの講義をとっているのは、興味ねぇことでも耳にしといて損はないだろうと言う思考が働いたからだ。そんな風に受けた講義だから別に今日は自主休講にしても良いかだなんて考えてみたんだが、どうにも本井と匠の話が気になって帰るのに踏み切れずにいた。
再びお馴染みのベンチに腰掛けながら、カバンを横に置いて一心地つく。単純にダラダラするのも良いが、こんな時にこそ読書に勤しむべきではないかと思うのだ。
最近読み始めたのは、とある人物の自叙伝だ。様々に名言を残している独立の父。私生活の全てが荒れ果てていたオレには到底考えも及ばないものだったが、そう言う知見を得るのもためになるだろうと思って、50年以上前に翻訳されたものを読み進めていた。
でも読書ってさ、読むだけで『自分が万能になった』ような気持ちにさせられるのから厄介だとオレは思ってる。
その人の人物の生涯を、たかだか300くらいのページにまとめたもので、何を理解できるって言うんだろう。
だからその度にこう考えることにはしている。いつだって自分の腹の中に落とし込んでみて、そして実践してみてこそ分かるもんだって。
今はその練習期間みたいなもんだ。つまりなんだろう……読書とか知識を溜める行為っていうのは栄養摂取みたいなもんなんだろうな。
なんだかひどく格好つけた感じになっちまったけど、心の底からそう思ってんだから少しは見逃しといてくれよ。
そうそう。この本の中ですぐに実践できそうな学びがあったよ。
『自分がいつでも正しいなんて、それこそ愚か者の考え方だ。どんな立派なやつでも、間違うことがあるってことは知っておけよ』
原文はあまりに難しすぎるから、オレなりの要約だけどな。
そのまま読書を続けてると、また辺りが騒がしくなり始めてきた。
鞄の中に入れていた携帯に目をやると、時刻は講義の終わりの時間を示していた。まだまだ雨降り止みそうもないから、購買部に人が集まってくるのは致し方ないことだろう。正直人だかりは好きじゃない。時間も時間だし講義室に移動でもすることにするか。
読んでいた本を鞄にしまい、ベンチを立ち上がったのは講義の始まる5分ぐらい前。鞄の中から鈍い振動が響いた。
「やっほ、コウちゃん!」
お日様を思わせる、どこか惚けたような匠の声だ。
「……なんか掴んだんか?」
まともに取り合うのもしんどくなってしまいコンパクトに言葉をまとめると、カラカラと匠が笑う。
「いやいや、もう少し世間話でもしようよ。一応友達なんだからさぁ。あーでも『掴んだ』っていうのはその通りかな。出来れば直接会って話したいところだけれど、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないって感じだね」
そう言ってくれるのは話が早い。オレは一言「そうだな。でも詳しく頼むわ」と返した。すると冗談めかした声色はどこかに消え、匠が静かに話し始めた。
「あれの件、大体は聞いた?」
「あぁ。噂はあるけど被害者が全然見えてこねぇってことと、噂を信じなかったら、ソイツが被害にあうだとかは本井のヤツから聞いた」
「なるほどね。体育会系でも同じ感じの噂が流れてんのね」
匠は得心がいったという風に声を上げる。どうもそこに違和感を覚えてしまうな。
「……つうことは、なんか違う情報を掴んだんか?」
試しにそう尋ねてみると、スピーカーの向こうからでも分かるくらい嬉しそうに匠がこう呟いた。
「そうね……被害者だーっていってる子、見つけちゃったかな」
その声に自然と身体が起き上がる。おもむろに前に向いて購買部の出入り口に視線が向いてしまう。もう講義も終わって少し過ぎた時間だからか更に人は増えていく。その中に女子の集団が大声でこちらに歩いてきていた。
「どうする? すぐにでも話聞けるようにセッティングするけど?」
「あ、あぁ。そうだな」
そう尋ねてくる匠の声に反応しなければならないと、そう思いつつもその女子の集団の事がどうしても気になって目で追ってしまう。
理由は簡単だ。その中に一人、気になる人を見つけてしまったからだ。
正直なんの変哲もない、大学デビューしたような少し髪色の明るい、背の小さい女性だった。それだけなら気にはならないだが、彼女の頬に痛々しく見えるガーゼを見つけてしまったからだ。
「あ、あぁ、そうだな。頼むわ……急ぎでな」
すれ違っていく彼女たちの声が聞こえてくる。
どうしても気になったのだ。通り過ぎていく彼女たちのいっていた言葉「結局犯人見てないんでしょ?」「あの噂って本当だったんだね?」という言葉がどうしても気になったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます