第4話 緑の丘 3.切られた堰

その日の空には、朝から重い雲がたちこめていた。


秘密基地に近付くにつれ漂うこの臭い……。

私は、これを知ってる。

今まで、何度も嗅いだ……。血の臭い、だ。

「クロマル!?」

ふいに走り出した私を、慌てて追うスカイ。

「おいっどうしたんだよ!」

木の枝に掻かれるのも構わず、強引に茂みを抜ける。


いつもクロマルが、ぷかぷかと丸い体を浮かべていた、基地前のちょっとした空き地。

広さにして十歩ほどの空間。


そこには、クロマルの残骸しかなかった。


「おい、ラズ!?」

私の後ろから飛び出して、文句を言いかけたスカイが、息を飲む。

辺り一面に飛び散った飛沫。

足元に落ちている、空気の抜けた風船のような黒い欠片を震える手で拾い上げる。

そこには、先日見たばかりの、やっと治ったとスカイが話していた、傷痕が残されていた。


「……モンスターに、襲われたのか……?」

スカイの微かな声が、脇を通り過ぎる。

「けど、この辺にはそんな凶暴な……」

独り言のように呟きながら、地面に手を伸ばしたスカイが、足跡を見つける。

それは、村の中でも見かけるような、犬の足跡だった。

その足跡が、跳んだり跳ねたりして大はしゃぎした形跡を残している。

何か、よほど楽しい玩具があったのだろう。

たとえば、ふわふわして、低空を飛行するような。

追いかければ逃げるような、捕まえればもがくような、一抱えほどのボールだとか。


「――っ! くそ!!」

スカイが、秘密基地の中へ入る。

テントのように布が張られた基地内は、子供が四人ほど入ればぎっしりと言う程度の広さだった。


スカイの背中を見送って、もう一度、手に残った黒い皮へ視線を落とすと、それに合わせてぽたり。と温かい水滴が黒い表面に一層黒い円を描いた。

どのくらいそうして立ち尽くしていたのか、空っぽだった頭の中が、問いかける当てのない疑問でいっぱいになった頃、重く垂れ込めていた暗雲から、パラパラと水滴が降ってきた。


「ラズ、中に入れ」

腕を掴まれて振り返ると、スカイが俯いたまま立っていた。

スカイに腕を引かれるまま基地の中に入り、そのままずるりと木にもたれて座り込む。

外を濡らす雨が、基地の上に掛けられた布や枝に当たっては音を立てている。

それが次第に連続的になり、あっという間に土砂降りに変わる。


スカイは斜向かいで膝を抱えてじっと蹲っている。

顔を上げなかったのではっきりとはわからないけれど、スカイも、ずっと顔を伏せていたようだった。

どちらも何も話さないままに、雨の音と、時折しゃくり上げる私の声だけを聞きながら

どれくらいの時間が経ったのか。

テントの中は、まるで時の流れが止まっているかのように現実味の無い空間となっていた。


「……帰るぞ」

聞きなれない音がした。

それが、スカイの声だと気付くのに、数秒かかってしまう。

「ラズ、帰るぞ」

先程よりもうすこし語気の強い、僅かにかすれた声が頭上から降ってくる。

声につられて顔を上げる。

視界は涙でぼやけていた。

「日が暮れる」

言われて、基地内の暗さに気付く。

雨雲の薄暗さだけじゃない、本当の闇が近付いてきていた。

けれど、帰ろうという気は全く起きなかった。

むしろ、立ち上がろうという気すらない。

スカイに向けて上げていた顔を、また地面に向ける。


それを見て、スカイも静かに、元の場所に腰を下ろした。

彼が怒鳴らなかったことが意外だと気付くほどの余裕もなかった私は、まだ必死で、胸に溢れてくる「どうして」を掻き集めていた。


それが、小さな自分をただ追い詰めるだけの行為だとしても。



薄暗かった周囲は、もう完全に闇に包まれている。

雨は相変わらず降り続いていて、月の光が差す事も無い。


鳥の声も、虫の声すら止んでしまった静かな静かな夜。


それでも、心の中は余計な雑音だらけで煩いほどだった。

間近でガバッと空を切るような音がする。


「俺……寝てたか!?」

それは、座り込んでいたスカイが飛び起きた音のようだった。

涙はいつの間にか止まっていた。

いや、枯れてしまったと言う方が正しいのかもしれない。

「真っ暗じゃねーか!」

スカイが焦りで声を荒げる。

「こ、こんな遅くまで、連絡も無しで、ラズを連れ出して……」

震える手で顔を覆いながら、呟くスカイの声が恐怖の色に染まってゆく。

「俺……ねーちゃんに……どんな目に遭わされるか……」

一瞬の沈黙の後、物凄い勢いでスカイが肩を掴んできた。

「おい、ラズ帰るぞ! すぐ帰るぞ!!」

ガクガクと、音が聞こえるほどに揺さぶられて、やっと、どこか遠くに思えていたスカイの声がほんの少し近付いた。

「こういう時はとにかく一秒でも早く帰った方がマシなんだ! 遅くなればなるほど酷い目に……」

スカイの方へと顔を上げるも、視点はその向こうで結ばれたままでピントが合わない。

けれど、もうスカイの顔をはっきり見ようという気も起きなかった。

そのまま、ぼやけたスカイに向かって口を開く。

「スカイ君だけ帰って……」

「は!?」

スカイの声には突き刺さるほどの棘があった。

「何言ってんだお前」

「私、もういいよ」

「何が」

「生きるの、もういい……」

「――っ馬鹿なこと言うなよな!?」

肩を掴んでいたスカイの手が、強引に襟元を掴んできて、私の体は急激に引き上げられた。

そこでようやく視点がスカイに合う。

「俺達が、どれだけ心配したと思ってるんだ!!」

至近距離で見るスカイの瞳は、暗闇で色こそ分からなかったが、その真っ直ぐな感情に合わせて、燃えているかのように揺らめいた。

「お前が、このまま死んじまうんじゃないかって、

 母さんも、姉ちゃんも、気が気じゃなかったんだぞ!?

 それを……っ」

「だって、私のせいだもん!!」

言葉が溢れた。

「皆が死んじゃうの、私のせいなのっっ!!」

ずっとずっと溜めていた何かが、堰を切って溢れ出す。

「はぁ!? 何でだよ!!」

スカイが突き放すように私の襟元から手を離す。

軽くよろけた後、スカイに向き合うようにして立つ。

お腹の底から湧き上がってくる感情が、そのまま声になる。

「クロマルと、昨日、約束したの。

 また、明日来るねって。

 そしたらクロマル、ちゃんと返事してくれて……」

スカイが睨むようにじっとこちらを。私の目を見ている。

「クロマル、もうきっと、空まで飛べたんだよ!

 犬からだって、ほんとは逃げられたの!!

 けど、私が、来るって……言ったから……

 空に上がっちゃったら、もう降りて来れないから……っっ」

「そんなのわかんねぇだろ」

「分かるもん!」

「お前の思い込みだってんだよ!!」

「違うよ!!

 お母さんだって、私……」

声が震える。

頭の中が母の姿でいっぱいになる。

「わ、私……が、いなかったら、死ななかったんだよ!!!!」

全ての思いを吐き出すように、ありったけの声で叫ぶ。


私を見るスカイの顔が、怒ったような表情のまま固まる。

ただ、そのラベンダーの瞳だけが、とても淋しそうな色をした。

「……わかったよ! もう勝手にしろ!!」

吐き捨てるような台詞と同時に、スカイが私を突き飛ばす。

基地のほとんどを支えていた巨木に、小さな背を打ち付けられる。

痛みは感じなかった。

けれど、スカイに突き放されたことが衝撃だった。

足元が崩れて行くような、そんな感覚。

それが感覚的なものではなく、現実の物だと気付いたのは、地鳴りが聞こえてからだった。


元々土砂崩れの跡にあったからか、この雨でぬかるんだ地面は、今、また崩れようとしていた。

ズズズズズ……と何かを引き摺るような、低い振動が足元を包み込む。

ゆっくりと、けれど私達を押し潰すには十分な早さで、

基地を支えていた巨木がその身を滑らせる。


「スカイ君、危ないっっ!!」

状況が飲み込めずオロオロと辺りを見回す青い髪の少年を、潰れかけた基地の出口めがけて力いっぱい突き飛ばす。

衝撃に、こちらを見るそのラベンダー色の瞳が大きく見開かれる。

違うよ、スカイ君。

突き飛ばされたお返しに、突き飛ばしたとかじゃないんだから。

我ながら、場違いな言い訳に思わず笑みが浮かぶ。

青い髪をなびかせて遠ざかるその少年が、基地の外へ倒れこむのを見届けるよりほんの少し早く、私の視界は木の葉と土砂に埋め尽くされた。


一際大きな地響き。

巨木が地面にめり込んで防波堤にでもなったのか、土の流れが止まる。

「ラズ! ラズ!!!」

遠くか近くかよくわからないところから、スカイの声が聞こえる。

返事をしようにも、私は指一本動かせなかった。

息も吸えない。

吐くことも出来ない。

ああ、生き埋めってこういう事か……と納得した途端、頭上の土が取り除かれた。

「ラズっ!!」

スカイ君。と返事をしようとするのだが、まだ体が挟まれているせいか息が吸えない。

スカイが物凄い勢いで私の周囲の土砂を取り除いてゆく。

その、怒ったような怖い顔が、なぜだか今にも泣き出してしまいそうに見えて、私はハラハラしながら見上げていた。

スッと。酸素が肺に送り込まれる。

背中に乗っていた大きな岩を、スカイがどけた瞬間だった。

「あっ……!!!!」

途端に、今までただ重くて冷たいだけだった体中から痛みを感じる。

どっと溢れる脂汗。

先程までとは違う涙が目の端から滲んでくる。

スカイ君は?

スカイ君はどこも怪我をしてないんだろうか。

痛みにぎゅっと閉じてしまった目を、なんとかこじ開ける。

目前にスカイの顔。

心配そうにこちらを覗き込む、その青い髪が、血に赤く染まっている。

「スカイ君……その、頭……」

「ん?」

スカイが、泥にまみれた手の甲でこめかみの辺りを拭う。

「なんか痛いと思ってたけど、血出てたのか。

 こけた拍子にぶつけたみたいだな」

それを聞いた途端、サアッと血の気が引く。

スカイがこけたのは、私が突き飛ばしたからだ。

鮮血は、今もスカイの顎をつたい、ポタポタと地面に痕を残している。


私の……私の、せいで、スカイ君まで死んじゃったら……。


最悪の想像は簡単にできた。

スカイ君が死んでしまったら、フローラおばさんも、デュナお姉ちゃんも、すごく、すごく泣くだろう。


お母さんが死んだとき、お父さんの涙をはじめて見た。

お父さんは、何があっても泣いたりしないんだと思ってた。

クエストで、あちこち怪我したり、骨を折ったりすることがあっても、お父さんはいつも苦笑いだった。

痛そうにしても、泣いたりしなかったのに……。


あの時、お父さんはお母さんの冷たい体を抱えて泣いてた。

叫ぶみたいに泣いて、それから、私をすごく悲しそうな目で見た。


悲しい人を増やしてしまう。

私のせいで。また。


「スカイ、君、じっとしてて……」

左手はまだ引き抜けない。

力を入れようとすると、余計に全身がミシミシと嫌な音を立てた。

動かせる右腕を、なんとかスカイへ伸ばす。

大丈夫。片手でもできるはず。

お母さんが言ってたから。

治癒術が使えない人なんて、この世にいないって言ってたから。


「このくらい大した事ねーよ、それよりお前は……」

また土を掘ろうと移動しかけたスカイを必死で止める。

「行か……ないで……」

言葉を口にする度に、何かが上がってきそうになる。

息をする度に、肺がごぽごぽと嫌な音を立てた。

自分の体がどうなっているのかは分からなかったけれど、今、ちょっとでも気を抜いたら、きっと気を失ってしまう。それだけは分かっていた。


母が父に唱えていた通りの祝詞を口にする。

「お前、治癒術が出来るのか!? まだ職にも就いてないのに!?」

スカイが何か言っているけれど、頭に入ってこない。

正確に、正確に……。

あとはとにかく、神様に助けてくださいって祈る気持ち。

お願いです。神様、スカイ君を助けてください。

スカイ君の血を止めてください。

スカイ君の怪我を治してください。

お願いです。神様。

私はこのままでいいから。


「……その、聖なる御手を、翳し……傷つきし者に、救い、と、安らぎを……」


言えた。

最後まで言えた……。

右手から、白銀の光が溢れ出す。

スカイの頭をするりと包み込むと、見る間に、零れ続けていた血が止まる。

一瞬痛そうに顔をしかめたスカイが、次の瞬間目を丸くする。

「すげぇ!! ちゃんと治った!!」

そっか、スカイ君はいつもフローラおばさんに治癒をかけてもらうから、私が何をしてるのかも分かってたんだね。

「よかった……スカイく……」

そこまで言って、強烈にこみ上げた咳を止められず、激しく咳き込む。

「ラズ!! どこか痛いんだろ!? 今引っ張り出すからな!!」

体中痛くて、どこが痛いのかわからないけれど。

慌ててスカイが立ち上がる。と、私の顔をちらと見たその目が恐怖に染まる。

口元を押さえた私の手は、スカイの頭には触れていないのに、真っ赤に濡れていた。


「お前っっ!!」

スカイが言葉を失う。


あ、スカイ君、泣きそうだ。

何か……何か言ってあげないと……。


「いいんだよ……私は……死んだほうが、いいの……」


だからもういいよ、スカイ君だけお家に帰って……。


後半は声に出来なかったけれど、咄嗟に口をついた言葉は、紛れも無く、私の本心だった。


「そんっっなわけあるか!!」


スカイの怒号を遥か遠くに聞きながら、私の意識は暗闇へと沈んでいった。

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