第4話 緑の丘 2.夢の中
小さな私が、この部屋の隅で膝を抱えている。
部屋にはまだベッドも無く、小さな私は床に敷かれた布団から、
毛布を手繰り寄せて、それに包まるように部屋の隅っこで蹲っていた。
これは……私がこの家に置いていかれて、十日程経った頃だろうか。
食事こそようやく少しずつ食べるようになったものの、依然として誰とも口をきかず、ふさぎ込んでいた。
カーテンの無い窓……いや、ここには確かカーテンがかかっていた……けれど、私がこの部屋をあてがわれてすぐに、駄目にしてしまったんだっけ。
窓の外には白く輝く月が、静かに部屋を照らしている。
小さな私の虚ろな瞳からは時折、思い出したかのように、ぽろり。と涙が零れていた。
うーん。これは夢だなぁ……。
あんな話しをした後だったからか、寝る前に思い出していたのが、丁度このあたりだったからか。
思い出したくも無いのに、こんな夢を……。
次第に月の光は薄れ、空が白み始めてくる。
フローラさんがトレイに朝食を持ってきてくれる。
それにほんの一口だけ手をつけて、まためそめそと毛布に包まる小さな私。
ああ、そういえば、この家に来た当初は、フローラさんの料理が口に合わなくて……というか、今でもそうなのだが、フローラさんの料理が成功する確率は極端に低く、ひと月に一度、美味しい物が出ればマシな方だった。
といっても、人の食べられないような物が出るわけでなく、……とても辛かったり、甘すぎたりするとき以外は。
ただ、どうにも食べる気のしない味がするのだ。
その料理を口にする度、いつも美味しいご飯を作っていた母を強烈に思い出して、当時はその都度凹んでいたなぁ……と、ぼんやり思い出す。
しばらくして、食器をデュナが下げに来る。
当時十四歳で学校の最上級生だったデュナは、あの頃、とてもお姉さんだった印象が強かったが、こうして今見ると、また違う印象だった。
肩の下で切りそろえられたサラサラの青い髪を、左右でおさげにしている。
デュナは十七歳で旅に出るまでずっと長い髪だったんだよね。
眼鏡は、既にこの頃からかけていたけど。
デュナは小さな私に二、三声を掛けて、その無反応さにしょんぼりと俯いたまま部屋を出て行く。
そういえば、デュナが眼鏡をかけていない頃って、記憶にないなぁなどと思っていると
小さなスカイが、勢いよく部屋に駆け込んできた。
バタンっと盛大な音を立てた扉に、小さな私がビクッと肩を縮ませる。
「ラズっ!!」
怒鳴りつけるようなその声に、幼い私が怯えながらも視線を上げる。
……ああ、小さいスカイ。可愛いなぁ。
デュナも可愛いなぁと思いながら眺めていたけれど、十一歳のスカイは、半袖半ズボンから生えるまだ伸びきらない手足に、くりっとした瞳、デュナより鮮やかな真っ青な髪がとても目を引く少年だった。
「……スカイ君……」
やっとのことでスカイの名を口にする小さな私。
そうだった。
この頃の私は、スカイを『スカイ君』デュナを『デュナお姉ちゃん』と呼んでいたんだっけ。
「お前、体はどこも痛くないんだろ?」
何だか怒ったような口調のスカイの問いに、虚ろな瞳のままコクコクと頷く小さな私。
それを見た途端、スカイは毛布に包まった私の手を強引に掴むと、靴を履く間も与えないほどの勢いで外へと連れ出した。
「……ど、どこに行くの?」
掴まれた手を振り解けないまま、半ば引きずられるようにして歩く私が、勇気を振り絞って尋ねる。
「いいとこだよ」
ぶっきらぼうなスカイの答えに、不安が募る。
「ね、ねえ待って。スカイ君歩くの早いよ……」
季節柄か、鬱蒼と木々の生い茂った林の中を、スカイに引かれるままに歩く。
騒がしい虫の鳴き声が耳に飛び込んでくる。
ここしばらく、全くもって動かなかったせいか、早足に息があがってしまう。
このままでは、息が出来なくて死んでしまうかも知れない。何て事が頭を過ぎって、お母さんの所にいけるなら、いいな……と傾いた頭が判断した頃、前を歩くスカイが足を止めた。
「秘密基地だ」
「え……?」
突然の言葉に頭がついていかず、聞き返す。
「俺の作った秘密の隠れ家だって言ってんだよ!」
強く言い返されて、半歩後ずさる。
「誰にも言ってないんだから、お前も内緒にしとけよ」
スカイがそっぽを向いて言う。
今見れば、それは赤い顔を見られないための照れ隠しなのだと分かるのだけれど、小さな私は全く気付いていないどころか、恐怖に顔を引きつらせていた。
小高い丘の裏側。
小さな土砂崩れがあったような跡地に、土砂崩れでか、根こそぎ倒れた大木。
その木にぐるぐる巻きつけたロープと小枝と布で屋根が作ってある。
それが、スカイの秘密基地だった。
そこへ、いつの間にか手を離していたスカイが入って行ったかと思うと、すぐさま小さな黒い塊を抱えて戻ってくる。
黒くて丸い、風船のようなふわふわ軽い体。
大きくてつぶらな瞳。
スカイの腕の中で、その黒い塊は「キュィィ」と小さく鳴いた。
「わぁ……」
思わず小さな歓声が漏れる。
「子クジラだ……」
「可愛いだろ?」
スカイが小さな胸をいっぱいに張って、誇らしげに腕の中の子クジラを差し出す。
その拍子に、愛らしい瞳をきょろきょろさせていた子クジラと目が合う。
「キュイーッ♪」
甘えた声と共に子クジラが身を乗り出してくる。それを慌てて両手で受け止める。
しっとりとした水風船のような黒い肌。ぷよぷよとしている割に、重さはほとんど感じない。
「俺が見つけて、こっそりここで飼ってるんだ」
僅かに目を細めて子クジラを見つめるスカイからは、先ほどまで感じていた棘のような物は消えていた。
「けど、子クジラは羽が生えたらお空に帰らないとダメなんだよ?」
腕の中、気持ち良さそうに撫でられている子クジラの背には、小さく渦を巻く羽が生え揃っていた。
「そいつ、見つけたとき怪我しててさ……」
言いながら、スカイが起用に子クジラをひっくり返す。
抵抗なくお腹を見せた子クジラには、大きな傷痕があった。
「あ……」
痛々しいその痕に言葉を詰まらせる。
と、スカイがまたクルリと子クジラをひっくり返した。
「今は、もうすっかり治ったから」
「そっか……よかったね」
「ああ、それで、こいつもそろそろ空に帰るんじゃないかと思ってさ」
「うん……」
スカイが青い頭を掻きつつ話す言葉を半分ほど聞きながら、ぼんやりした頭で子クジラを撫でる。
子クジラはうっりと目を細めて、腕の中で伸びきっている。
……こんな気持ちは、本当に久しぶりだ……。
「その前に、ラズに見せてやろうと思ってたのに、お前、全然部屋から出てこないじゃないか」
語気こそ荒かったものの、当のスカイが眉を寄せて俯いてしまったもので、怖く感じると言うよりも、申し訳無くなってしまう。
「……スカイ君、ゴメンね……」
ぽつり。と謝ると、スカイがじっとこちらを睨んできた。
う。やっぱり怒ってる……?
とても長く思えた、ほんの少しの沈黙の後、スカイは私から目を逸らして、ぶっきらぼうに言った。
「ご飯は、残さず食えよ」
「うん……」
「夜はちゃんと寝ろ」
「うん……」
「それならいい」
完全に向こうを向いてしまったスカイの後ろ頭を見上げる。
青い髪に透けて、ちらりと真っ赤な耳が見えた。
「スカイ君、耳、痛い?」
「なんでだよ」
「赤いよ? どこかにぶつけ……」
「う、うるっさいなぁ!!」
突然の怒鳴り声に、身が竦む。
胸元で子クジラも体を強張らせた。
重たい静寂。
「くそ……っ。ここで待ってろ!」
スカイは苛立たしげにそれだけ言い捨てると、こちらをチラとも振り返らずに、巨木の向こうへ姿を消した。
……なんで、スカイ君はいつも急に怒るのかなぁ……。
私、何か悪い事言ったっけ?
それまで、同世代の子達とほとんど遊んだことが無かった当時の私には、スカイが不機嫌になる理由なんて全く思いつかなかった。
「待たせたな。ほら、帰るぞ」
数分ほど待っただろうか。
そう遠くない場所からスカイが出て来る。
先程より、ずっと落ち着いたようだった。
何してたんだろう。……トイレだったのかな……?
スカイの耳は、もう赤くなかった。
ちょっと掻いただけだったんだろう。そう納得する。
「スカイ君、子クジラは?」
「その辺に放しとけば大丈夫だ」
「そっか……」
言われて、そうっと子クジラを空中に放す。
子クジラは、ほんの少し目の前で沈み込んでから、ふんわりと浮き上がった。
それを見て、下に差し出しかけていた手を引っ込める。
「もう、飛べるんだね」
「ああ」
子クジラを見つめるスカイの目は、どこか淋しそうにも見えた。
帰り道、膝丈ほどの草を掻き分けて進むスカイに
「子クジラには名前をつけてないの?」
と聞いてみる。
「付けてない」という返事の少し後に、
「付けたいならお前が付けてもいい」という言葉が付け足された。
「じゃあ、えっと、えーっと……黒くて丸いから、クロマルっ」
「それじゃ、子クジラは全部クロマルじゃないか」
そう言ってちらりと振り返ったスカイが、思いがけず笑っていたので、私もつられて笑顔になる。
それから、こんな顔をしたのがもう半月ぶりだったことに気付いて、また小さく苦笑する。
なんだか、笑ったら急に肩の力が抜けてしまった。
すとん。と膝から地面について、予想外の自分の動きに思わず目を丸くしてしまう。
「ラズ!?」
前を歩いていたスカイが慌てて引き返してくる。
「どうした!? 大丈夫か!!」
「う、うん……。ちょっと、気が、抜けちゃったみたい」
「は?」
スカイがまるきり理解できないというような顔をする。
その間抜けな顔に、うっかり笑いがこみ上げてくる。
「あはっ。あはは、スカイ君変な顔……っっ」
ぽかんと私を見下ろしていたスカイの顔が見る間に赤く染まる。
あ。これはまた怒鳴られるかな、と思った途端、その顔が鮮やかな微笑に変わった。
困ったような、それでいて嬉しくてたまらないような、眉をよくわからない形に歪めて、スカイは小さく呟いた。
「やっと笑ったな」
次の日も、その次の日も、私達は二人でこっそり、クロマルの様子を見に行った。
私達が秘密基地に近付くと分かるのか、クロマルはすぐに飛んで来た。
……けれど、その翌日は違っていた。
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