第3話 黄色い花 6.白い光
「あ。思い出した」
スカイがポツリと呟く。
その声は、静まり返っていた裏庭に小さく響いた。
「俺、小さい頃この花で幻惑にかかったことがあったんだけどさ、あの時、確か母さんが……」
「らしいわね」
突如割って入ったデュナの声に、スカイが慌てて私の手を離す。
「もう、何でそういう大事なことを――」
スカイへ詰め寄りそうな勢いのデュナを、フローラさんがそっと止める。
「今はフォルテちゃんを……ね」
「そうね。母さんお願い」
デュナが脇へ避けると、フローラさんが私の隣、フォルテの頭側に膝を付いた。
ああ、そうか。
神官の扱う術の中には、幻惑を退けるような物もある。
しかし、幻惑という状態に陥ることが珍しいことから需要はほとんどない上に、確か……高度な術だったはずだ。
神に正式に仕えて修行を積んだ、神官でないと扱えないような類の。
この小さな村には教会もなく、神官も居ない。
用事の場合は、一時間で着く隣村カッシアの教会へ向かうようになっていた。
フローラさんは元聖職者だと聞いていたが、まさか神官の域だったのか……。
術の邪魔にならないよう、フォルテの真横から、足の方へじりじりと移動する。
私の手は、まだフォルテの両手にしっかりと握り返されていた。
つらつらと小さな声で祝詞を唱えていたフローラさんが、クキュっという変な音を立てて固まった。
「うぅ……舌噛んじゃった……」
涙を浮かべて、こちらを振り返るフローラさん。
プルプルと震えるその姿は、ええと、まるで生まれたての子鹿のような……。
「ラズ、あんま必死で返事考えなくていいぞ」
スカイが助言する。
「もう一度やるわね~」
フローラさんは、目の端に涙を浮かべたままふんわりと微笑むとフォルテに手をかざしなおし、祝詞をまた最初から唱え始める。
フローラさんはあまり早口な方ではない。というよりも、相当のんびりと話す人だ。
その口からスローペースに紡がれる神への祈りの言葉、……が……今、ループしたような?
「あら~? ごめんなさい、間違えちゃったわ……」
ぺろっと舌を出して困った顔で微笑むと、「もう一回……」と祝詞を唱え始めるフローラさん。
そんなやりとりを5回ほど繰り返した後、フローラさんは「メモを持ってくるわね~」と、パタパタ家へ駆け戻って行った。
フォルテは、相変わらずぼんやりと開けた目から涙を零し続けていた。
スカイがその目をそっと覆うと、フォルテは大人しく目を閉じる。
ちらと背後を振り返ると、デュナが腕を組み片足に体重をかけたような崩した姿勢で見下ろしていた。
「あの、さ、デュナ、フローラさんって神官だったの?」
こう言っては申し訳無いが、正直意外だった。
私の問いに、デュナがほんの一瞬だけきょとんとした顔をする。
いや、フローラさんの夫であるクロスさんが最上位職である聖騎士なのだから
そのクロスさんと同じパーティーだったフローラさんが一次職であるという方が
バランスからしておかしいわけだが。
なぜだか、フローラさんならそれもありそうな気がしていた。
「いいえ、母さんは昇級試験に通ったことが無いのよ。だから、今もクラスとしては聖職者ね」
肩を竦めてデュナが答える。
「そ……そうなんだ……」
「何せ、成功率がこれじゃあね……」
小さくため息をつくようなデュナの呟き。
それにはとても同意したかったが、フローラさんに失礼なことは出来ない。と堪えていると、パタパタと足音をさせながら、フローラさんがボロボロになった手帳を手に戻ってきた。
「ただいまぁ~」
にっこり微笑みかけられて、思わず「おかえりなさい」と返事をする。
家の裏庭で、この会話はどうなんだろうか。
「お待たせしちゃったわね。今度こそ大丈夫よ~」
うきうきとページをめくり、くたびれた手帳を膝の上に置くと
フローラさんはまた祝詞を唱え始めた。
祝詞は書き写し厳禁だ。表向きには。
実際のところは、書き写してはいけないというよりも、書き写せない。
文字にすることでも、口にする場合と同じように、祝詞が神様に認められてしまうようで、その文字達が意味を成した時点で昇華してしまうのだ。
旅に出る前、咄嗟に間違わないようにとメモを作って行こうとしたがダメだった。
フローラさんの膝の上に開かれた手帳を覗き見る。
そこには、ちまっとした丸い字で、何か物語のような物が書かれていた。
メモをするための手段としては、全く関係の無い物に関連付けるか、祝詞を分解して並べ替えたり、他の文章中に混ぜ込むかだろう。
どちらにせよ、神様に気付かれないよう祝詞を書き取るという行為が、神様に対して失礼だというのが神官達の考えだった……はずだが。
目の前で、現役を退いたとは言え聖職者が、メモを片手に難解な祝詞と戦っていた。
いや、手帳のくたびれ具合からして、フローラさんは冒険に出ていた頃からそのメモを手にしていたのだろうけれど……。
そんなことは、今の私にとって些細なことだった。
デュナに、スカイに、私に、じっと見つめられているフォルテは、ただ静かに閉じた瞼の端から涙を零している。
私の手を強く握り返していた手は、徐々に力を失いつつあった。
落ち着いてきた。と受け取る事も出来るのかもしれないが、私には、フォルテが生きる意欲を失いつつあるように思えて、怖かった。
長い長い祝詞が終わり、白銀の光がフローラさんの両手から溢れ出す。
その光に包まれて、フォルテのふわふわのプラチナブロンドがゆらゆらと漂うように揺れる。
輝くフォルテに、水の中で見た光景を思い出す。
真っ白な光が消えるとともに、辺りを再び静寂が支配した。
「………………フォルテ……」
フォルテに呼びかける。その声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。
スカイは、声を掛けるでもなく、揺らすでもなく、ただひたすら腕の中のフォルテを見つめている。
私の後ろに立つデュナもそうだろう。振り返らずとも分かる。
フローラさんだけが、押し黙ってしまったような私達とは違う、優しい眼差しで、フォルテを見ていた。
小さなフォルテの手が、一瞬、私の手をきゅっと握る。
「う……ん……」
寝言のような僅かな声を漏らしながら、フォルテが寝返りでもうつかのように身じろぎする。
「フォルテ」
今度は、もう少し落ち着いた声で呼びかけられた。と思う。
反して、鼓動はどんどん速くなっていくし、みぞおちのあたりもギュウッと締め付けられるかのようだ。
……どうか……。
目を覚ましたフォルテが、今朝までのフォルテでありますように……。
私達を忘れていませんように。
そして、できることなら、悲しい事を思い出さないでいてくれますように……。
必死で祈る私の耳に、遠い昔、誰かに言われた言葉が蘇る。
『治癒術が使えない人なんてこの世にいないのよ。
自分じゃどうしようもなくなったら、誰もが祈る事しか出来ないんだから』
ああ、これは……。母の言葉だ……。
確か以前にも、この言葉を思い出したことがあったはずだ。
こんな風に、もう、どうしようもなくなった時に……。
ふっと、フォルテが目を開く。
ごくり。と喉を鳴らしたのは誰だったのだろう。
それはとても長い時間に思えた、一瞬の出来事だった。
「「「フォルテ!」」」
三人の声が重なる。
寝ぼけているような雰囲気のフォルテが、のそりと起き上がる。
それに合わせてスカイが草の上にフォルテを降ろした。
ふらふらとプラチナブロンドの頭を揺らしながら、数度ゆっくり瞬きをする。
涙で腫れぼったくなった目を、片手の甲で拭うと、フォルテはもう片方の手が動かないことにやっと気付いたようで、腕を辿ってこちらへと視線が動く。
フォルテの手は、まだ私が固く握り締めていた。
そのラズベリー色の瞳と目が合う。
私の事を……覚えているだろうか。
もし、その小首を傾げられてしまったら……。
息が、苦しい。
心臓が破裂しそうだ。
けれど、今、ここで目を逸らす事は出来ない。
じわりと何かが滲むように、表情の読み取れなかったフォルテの瞳が、悲しみに染まってゆく。
「……フォルテ……?」
フォルテは、涙を拭っていた手を真っ直ぐ私へ伸ばすと、そのまま抱きついてきた。
「ラズぅ……」
大きな瞳に、また大粒の涙が浮かんでいる。
その小さな頭を大切に抱き寄せて、震える背中を繰り返しゆっくり撫でる。
嬉しくて、嬉しくて、とても悲しかった。
フォルテは私達を忘れないで居てくれて、だからこそ、思い出してしまった辛い光景も、忘れることが出来なかった……。
そうか。
全てを忘れてしまった時のフォルテには、もう何も残っていなかったのか。
楽しかった記憶でさえも、悲しい色に染まって見えて、手放してしまったのだろう。何もかもを。
それは、言い換えるなら、今のフォルテには、忘れたくないと思える物が確かにあったと言う事になる。
辛い事実を突きつけられても、フォルテが守った物。
それが私達である事は疑いようが無い。
つまりは、今、フォルテを泣かせているのは私達で――……。
唐突に、頭を鷲掴まれて思考がストップする。
見上げれば、デュナが背後でなにやら威圧的なオーラを出していた。
あ、あれ……? 何か怒って……る……?
デュナにたじろいでいる私を、頬杖をつきながら眺めていたスカイが苦笑しながら言う。
「素直に喜んどけってさ」
「あ……。うん。そうだ……ね……」
言葉の終わりが、小さくかすれて震える。
デュナとスカイに微笑を返したつもりだった。いや、微笑みは返せたと思う。
ただ、唐突にこみ上げてきた涙が止められなかった。
デュナとスカイが苦笑する。
青い髪をほんの少し揺らして、困った顔で笑う二人は、とてもよく似ていた。
胸で泣きじゃくるフォルテの、小さく震える体が熱い。
服にじんわりと滲み込んでくる涙も、とても熱かった。
ああ、そういえば、フォルテが今びしょびしょにしつつあるこの服は、スカイの服だったっけ。
また全部洗濯し直さないといけないな。
そう考えてから、自分がとても落ち着いていることに気がつく。
涙はまだ止まらないが、これはきっと、心配しすぎていたところでホッとして決壊してしまった涙だ。
思うに、悲しい涙ではない。
……もしかしたら嬉し涙というのはこういう物なのだろうか?
今まで、自分は嬉し泣きというのをしたことが無いと思っていたが、これがそうなんだとしたら、確か前にも一度……。
いつだったっけ、あれは……。
「ラズ、中に入りましょう」
再度顔を上げると、三人が立ち上がってこちらを振り返っていた。
「うん」
頷きを返して、私達は短い旅からようやく帰宅した。
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