第弐幕之弐「初恋ト失恋」

》同日二二二〇フタフタフタマル 自室 ――皆無かいな


 自室での待機を命じられた。ベッドに潜り込み、の匂いがして、カッとなって駆け布団とシーツを魔術で燃やした。代わりにこの一週間、床で寝る時に使っていた寝具で眠ろうとした。が、眠れなかった。部屋の中をうろつき、暇に飽かして本棚をあさってみれば、

「『みだれ髪』」三人の莫迦ぶかから押し付けられた歌集が出てきた。ベッドの中で本を広げる。「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて……恋愛……恋、恋、ねぇ」先ほどから、胸のあたりがひどく虚しい。

 与謝野晶子著『みだれ髪』は六つの章からなり、まず第一の章題が、

臙脂ゑんじむらさき

 となっている。その文字を見て、皆無はドキリとする。いつも璃々栖が履いていた馬乗袴うまのりばかまの色なのだ。女学生が履く袴と云えば海老えびちゃ色だが、璃々栖が履いていたのはもっと明るい色の物であった。妖魔と戦う間、月光の中で璃々栖が飛んだり跳ねたりする度に、その色が映えたものであった。かぶりを振って璃々栖の姿を追い出す。読み進めていく。

『その子二十はたち くしにながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな』

 豊かな金髪を誇るように棚引かせ、颯爽と歩く璃々栖の姿。

『ゆあがりの みじまひなりて姿見に 笑みし昨日きのふの無きにしもあらず』

 元ブラデヱトの前夜、せがむ璃々栖の肩に翌日用のショールを掛けてやった時の、璃々栖のはしゃぎっぷりと云ったら無かった。

『乳ぶさおさへ 神秘しんぴのとばりそとけりぬ ここなる花のくれなゐぞ濃き』

「ぶっ。随分とあけすけやなぁ!」

 四月二日の朝、初めて璃々栖の服を脱がした時には、緊張で頭が真っ白になったものだった。璃々栖は、最初の方こそ乳やら股やらを執拗に洗わせて挑発してきたものだったが、皆無が精通を経験すると、一転して恥ずかしがるようになった。最初の頃の挑発は、ひょっとしたら彼女なりの強がりだったのかもしれない。

 いつの間にか。先ほどまで璃々栖に対して抱いていたはずの負の感情が、すっかり溶けて無くなっていた。

『おりたちて うつつなき身の牡丹ボタン見ぬ そぞろや夜を蝶のねにこし』

 退魔の時間が終わった夜の公園で、牡丹の花を見つけて『綺麗じゃのぅ』と呟く璃々栖。

『つばくらのはねにしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪』

 璃々栖の金髪は、ベッドから出て来るといつも爆発している。それを整えるのがひと苦労なのだ。

 どの歌も、日常の何気ない情景を繊細な筆使いでもって鮮明に描き出している。そしてそのどれもが、皆無の脳内では璃々栖の姿をもって表現されるのだ。

 夜空を舞う璃々栖の姿。朝日に照らし出される璃々栖の横顔。飯を食べる璃々栖。風呂に入る璃々栖。寝る璃々栖。街を闊歩する璃々栖。笑う璃々栖、怒る璃々栖、悲しむ璃々栖。

(僕、そんな、そこまで璃々栖のこと見とったんや……)

 この一週間というもの、自分は璃々栖のことをずうっと目で追い、寝ても覚めても璃々栖のことばかり考えていた。璃々栖に夢中になっていた。

 ペヱジを繰ると、

『人ふたり 無才ぶさいの二字を歌に笑みぬ こひ二万年ながき短き』

 恋。この歌集の、恋を扱う物の多いこと。だがそれも当たり前のことであった。恋はこの歌集の主題テヱマそのものであるのだから。

(……恋、か)皆無は本を閉じる。喪失感の理由が分かったのだ。(そっか。僕は恋をしとったんか……そしてそれを、くしてもうたわけや)

 初恋であった。四月一日の夜に始まり、今日終わったこの十日間の出来事は、凄惨なまでに鮮烈な、初恋体験だったのだ。

 布団に潜り込んで、泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて眠った。


   †


 皆無は母親を知らない。母親のことを聞くと父は決まってはぐらかそうとするので、何となく、もう亡くなってしまっているのだろうと思っている。折しも皆無が生まれた年は神戸で虎列痢コレラが大流行した年であり、大悪魔モスが神戸港を襲った年でもある。

 母が居ないとは云え、寂しくはなかった。父が居たし乳母も居た。皆無は士官学校で寮に入っていた時期を除けば、生まれてこの方ずっとここ、『パリM.外国E.宣教会P.』神戸支部の屋敷に住んでいる。平時であれば、ここには老若男女様々な団員達が出入りするし常駐している。団員達からは可愛がられたものであった。

 近所の同年代からの反応も同じようなもので、様々な術が使える皆無は、ちょっとした英雄的扱いを受けていた。近所の武器商の娘・マリアも時々遊んで呉れた。世界は皆無を中心に回っていた。

 どうやら様子がおかしいぞ――そう気付いたのは六歳、皆無が尋常じんじょう小学校に入学してしばらく経った頃である。

 教師などを始めとする大人達が、妙に優しいのである。大人の親切な態度は皆無にとっては普通のことだったが、しかし皆無は、学校という少年達の集団の中で、ただ一人自分だけが特別丁寧に扱われていることに気付いた。

 皆無は物心ついた頃から【もんじゅけいがん】を常時耳目じもくに発現させる訓練をしてきた。そんな皆無だからこそ、相手の視線、声の上擦り、鼓動、発汗といった情報から、相手のことを過剰なほど敏感に感じ取ってしまう。

 子供という生物は、そういう依怙えこ贔屓ひいきを非常に敏感に察知する。皆無を嫌い、仲間外れにする向きは相当数居たが、皆無はその持ち前の術の力と武力でもって歓心を集めて一派閥の長であることが出来たし、事実皆無に腕っぷしで敵う者など、同学年、上級生はおろか教師においてすら居なかった。

 二年生に上がる頃には、皆無は結論を得ていた。つまるところ、大人達は偉大なる父・正覚に気に入られたいのだ。

 皆無を罰しないのは父に目を付けられたくないが為。皆無を過剰なまでに褒めるのは、皆無の口から『何某という教師に褒められた』と父に報告してもらう為。つまり、大人達の誰一人として、皆無自身のことを見てはれていないのである。

 それに気付いた時、皆無はひどく冷めた。皆無自身が努力しようがしまいが、それで大人達の自分に対する評価が変わるわけではないのだ。己の評価はただ『阿ノ玖多羅正覚の息子である』ということによって満点と結論付けられており、大人達から毎日々々呪いのように浴びせ掛けられる『偉いね』『賢いね』『頑張ったね』という言葉の数々は、自分ではなく父に対するものなのだ。

 それでも腐らずに済んだのは、同年代の子供達が皆無に付いて来てれたからである。子供達は、皆無が魅せる魔法の数々――壁を走って見せたり、小石を握って粉砕して見せたり、火の玉を出して見せたり、鋭い風で空飛ぶ鳥を落として見せたり――に夢中になり、皆無を崇拝し、大将たらしめた。

 四年生――九歳のある日、状況は一変した。

 肌寒い秋の日であった。昼休みに焼き芋をやろうということになって、皆無は子分達を引き連れて学校の庭に陣取っていた。落ち葉を集め、芋を放り込んで、さぁ火を付けようという時に、子供の一人が『でかい火が見たい』と云った。求心力不足に危機感を抱いていた皆無は、その希望に沿うべくヱーテルの限りの火柱を立ち上がらせた。


 火事になった。


 幸いにして死傷者は無く、家屋に延焼することも無く、ただ、学校の庭が焼野原になるのみで済んだ。

 悪童達は罰せられた。当然のことであった。教師から竹刀で何度も殴られ、額から血を拭き出す者や、気を失う者も出た。皆無もこの時ばかりは体罰を覚悟した――なのに。教師は、皆無にだけは手を上げなかった。

 上げてれればどんなにか救われたろうと、皆無は今でも思う。

 結局、この件で皆無を叱り飛ばし殴り飛ばしてれたのは、父たる正覚だけだった。

 その日を境にして、皆無の世界は一変した。大人達の露骨な贔屓を目の当たりにした子供達が、皆無から急速に離れて行ったのである。皆無は孤独になった。

 皆無はやがて学校に行くのを嫌がるようになり、父はそれをれた。

 代わりに父は、皆無に陸軍士官学校の試験を受けさせた。ヱーテル持ちは希少ゆえ、士官学校は皆無の如き児童にすらその門戸を開く。尋常小学校の六年間の内、義務教育にあたるのは前四年間だけなので、法律上も問題は無かった。

 果たして皆無は、筆記試験とヱーテル抜きの運動試験こそ凡庸な結果であったものの、ヱーテルを伴う術式や運動試験において、隔絶した成績で首位を取った。


   †


》同月十一日〇五四五マルゴーヨンゴー 神戸・生田神社 ――悪魔君主セア


 あるじたる殿下が皆無と一緒に暮らしていた屋敷の北。人間どもが『生田神社』と呼んでいるヱーテル溜まりにて。

「居たぞッ!」

 成人男性の声。境内に、二人の男性が駆け込んできた。皆無が普段着ている物と同じ紺色の軍衣ぐんいと、小銃――悪魔祓い師ヱクソシストどもだ。

 セアは今現在、主の左腕を務めている為、対応が出来ない。

「【隠者ハーミットは霧・イン・ザの中・フォッグ】!」主が認識阻害の魔術を省略詠唱する。すぐさま主の周囲に真っ白な霧が生じ、その姿を人間どもの眼からくらまそうとするが、

「「【オン・アラハシャノウ――もんじゅけいがん】!」」軍人達は迷うことなくこちらに迫ってくる。

「ちっ」主が本殿の裏手に広がる林へと飛び込む。

 セアは内心、歯噛みする思いである。せめて太陽が出ていなければ、あのような脆弱な人間どもに魔術を破られることも無いであろうに。ましてや主は今、己の印章シジルを持たない身なのである。

 セアが代わりに魔術を使うという手もあった。が、主は、生まれつきそれほど総量の多くないセアのヱーテルを、切り札たる【瞬間移動テレポート】の為に温存しておくようにとお命じになった。

「殿下、後方より来ております。尉官レヴェルが二」

「分かっておる!」

 セアは無意味な報告しか出来ぬ己の不甲斐無さを呪い、それ以上に、人間どもを――この一週間、散々神戸港を守ってもらっておきながら、ナッケに脅されるや否や、手のひらを返して主を捕らえようとしている人間どもを呪った。

「殿下! やはり皆無を連れて来ましょう!」

「ならぬ!」

「ですが――」

 その時、空から悪魔祓い師ヱクソシストの一人が降ってきた。林の中、主の行く手を阻むように立ち、小銃を向けてくる……が、

「糞っ……」引き金を引けないでいる。「何でこんな、こんな命令――」

「そなた、一昨日に死にかけておった……」

 セアにも覚えがある。毎晩の、退魔の時間の終わりに。主が皆無を従えて治療して回った軍人の中に、この顔があった。

「どうした、早く撃て!」背後からはもう一人が軍刀を抜刀しながら駆け寄ってくる。

 が、小銃を構える男は震えるばかりで撃とうとしない。

 主は大きく息を吸い込み、速やかに振り返り、すぐそこまで肉薄していたもう一人の軍人の顔へ、鋭く息を吹きかける。

 ヱーテルの乗った吐息が、脳内詠唱したのであろう【睡眠スリープ】を発現させる。軍刀の男は即座に気を失い、倒れ込む。倒れる寸前、怪我をしないように軍刀を蹴飛ばすあたり、実に主らしいとセアは感じ入る。

 主が振り向けば、小銃の男が銃口を下ろして泣きそうな顔をしている。

「すまぬな」主が男へ短く告げ、林を抜ける為に走り出す。

 主とセアは今、デウス家の家宝たる左腕――悪魔グランド・シジル大印章・オブ・デビルを探している。印章シジルというものは、ただ存在しているだけで魔力ヱーテルを喰う。ヱーテルが枯渇してしまうと、印章シジルは砕け散り、消えてしまう。

 だから印章シジルが隠されているとすれば、それは神社・寺・教会といった人間の信仰心アストラルを介してヱーテルが溜まりやすい場所か、もしくは天然の霊場である。だから主はまずは外国人居留地のすぐ北にあるここ、生田神社に来たのである。が、腕は見つからず、夜明けとともに認識阻害の魔術が弱まり、人間どもに追い掛け回される羽目になった。

 主は走り林を抜けた。そこに、


「お逢いしたかったですぞ、姫君」


 人形が、居た。仇敵ナッケが操る、主を模した金髪赤眼の人形が待ち伏せていた。人形の口から発せられるのは、ねっとりとして気色の悪い、しわがれた老人の声。

ナッケ……」主が、絶望に彩られた声で呻いた。


   †


》同日〇六〇二マルロクマルフタ 自室 ――皆無かいな


 状況は改善するどころか悪化した。

 考えても見れば、当然のことであった。士官学校に入ることによって、皆無を取り巻く人達の平均年齢がぐっと上がったのである。皆無の目から見れば、教師も生徒もみな等しく『大人』であった。心の拠り所であった子供達が居なくなった。

 大人達は執拗なまでに皆無に付きまとい、父を紹介するようにとせがんだ。ここは退魔師達の巣である。父に対する熱量が違った。

 皆無はその潔癖なまでの『生の自分を見て欲しい、認めて欲しい』という渇望を前面に出すのではなく、『英雄の子』としての立場を使って適量の甘い汁を吸いつつ、たまの休みに学友達を父と引き合わせるくらいのことはしてやるべきであった。そうすれば周囲に溶け込むことも出来たはずである。が、皆無はそういう割り切りをするには些か幼な過ぎた。皆無は自分で勝手に壁を作り、その中に閉じこもって孤独に陥っていった。

 さらに、敵が出来た。陰口を云ったり、肩でぶつかってきたり、教科書を隠したり、石を投げてきたりといったいじめをしてくる輩だ。こう云う手合いには、皆無はその卓越した術の力で対抗した。ぶつかってきた肩を掴んで空高く投げ飛ばした。自分の持ち物には、誰かが盗もうとすると盗人に幻痛を与える術を仕込んだ。投げつけられた石は百倍にして投げ返した。

 彼ら虐めっ子の正体は薩長閥の子弟であった。かつて錦の御旗を掲げて官軍として戦った彼らの親は、陸軍という組織において、ただ薩長閥であるというだけで栄達が保証されていた。

 そんな彼らの聖域を荒らしているのが、皆無の父・正覚である。父は実力のある者なら薩長の生まれであろうが無かろうが、どころか商家や農家の生まれ、孤児出身者すら重用した。そんな、父の行いにほぞを嚙んでいる親達に命じられ、その子弟達が命懸けで皆無に挑んでくるわけである。とは云えそんな彼らも命は惜しかったらしく、数か月もすると、陰口以外の攻撃は鳴りを潜めるようになった。その陰口の内容と云うのが、


『父・阿ノ玖多羅少将に比べ、阿ノ玖多羅一年生はあまりにもふがいない』

『ヱーテル総量など、五、六千程度しか無いという。阿ノ玖多羅少将は二千万を上回ると云うのに』


 という具合であった。

 他ならぬ阿ノ玖多羅少将を貶めたいが為の一大作戦であるのに、その少将を引き合いに出して皆無を貶めようという、噴飯ものの内容であった。が、他ならぬ皆無がそれを真に受けた。

 六歳の頃から抱き続けてきた父に対する劣等感が爆発したのだとも云える。皆無は痛々しいまでに落ち込み、自身を追い込むような過酷な訓練に打ち込んだ。そんな風にして、飛び級に飛び級を重ねてたったの二年で卒業した十二の春、皆無は大日本帝国陸軍第零師団神戸連隊に入隊した。

 軍人となり、栄達すべく血眼になって任務に励む同僚達の中に叩き込まれ、生まれて初めて己より優れた同僚あいてと戦果を競い合うことになり、皆無の承認欲求は哀れなほどに先鋭化していった。

 入隊して半年ほど経ち、皆無の戦術がただただ『同僚よりも一歩でも先に敵の前に立ち、一秒でも早くその銃弾を敵の額に叩き込む――自身の損耗は顧みず』となっていた頃に、配置転換の辞令が出た。三人の、明らかに未熟な新兵を与えられ、第一線を退いて練兵をやれと云われた。皆無は、このあまりにも脆弱な三人の部下をどう扱うべきか悩んだ。

 部下達は、ありとあらゆる言葉と態度を使って皆無を持ち上げた。当然のことである。この年端も行かぬ上官は、自分達を死地へ飛び込ませる命令権を持っているのだから。

 そんな文字通り『必死』な部下達の姿を見て、初めて皆無は理解した。人はあらかじめ『立場』を与えられていて、その立場に沿って演じる責任を負わされていることを。部下達が皆無の顔色を伺うのと同様に、長年来皆無を悩ませてきた『大人達』が父の顔色を伺うのもまた、当然のことなのだ。

 なまじ【もんじゅけいがん】で心の機微を敏感に把握し回避して来ただけに、こと人付き合いに関しては、皆無は人よりも遅れていた。よわい十二の終わりにしてようやく、皆無は社交性を身に着けた生き物となった。


   †


》同日〇六三一マルロクサンヒト 神戸元町 ――セア


 南京町の裏路地にて。

「殿下、あと二回分しかありません」

「はは、参ったのぅ……」薄汚れた家屋の壁にもたれ掛かりながら、リリスが空笑いをする。

 こんな状況でも癇癪ヒステリーを起こさないあたり、流石さすがは主であるとセアは感じ入る。

 あれから三十分ほど、【瞬間移動テレポート】を駆使してナッケから逃げ回っている。

瞬間移動テレポート】の魔術は、実際に訪れたことがある場所へしか転移出来ない。退魔の時間や元ブラデヱトの際、セアは主と共に神戸港や元町を色々と訪れたが、その範囲はせいぜいが外国人居留地、第壱から第よん波止場近縁、そして元町周辺程度。。それが、日本国においてセアが転移出来る範囲の全てである。四月一日の夜、神戸港に【瞬間移動テレポート】することが出来たのは、セアの【グランド印章・シジル】が過去に神戸港を訪れたことがあったからである。

 訪れたのはセア自身ではなく、先代セア――先王の従者であったセアの母である。先王――璃々栖父の兄は百年ほど前、弟に王位を譲ってから世界各地を旅した。

 旅の主目的はセアも知らない。道楽であったのかもしれないし、何某かの目的があったのかもしれない。とかくもその副目的としては、先王と共に旅をしたセアの母が背負った【グランド印章・シジル】が、まさしく今回の叛逆のような事態の際、任意の場所に転移出来るよう転移先を覚える為にあった。

 先王の死と共にセアの母は隠居し、セアが母から『悪魔君主セア』の名を襲い、【グランド印章・シジル】を継いだ。

「殿下、意見具申をお許しください」

「ならぬ」

「皆無を連れてくるべきです」

「ならぬと云ったじゃろう」

「皆無を戦力とせねば、この状況は打破し得ません!」

「ならぬ!」珍しく、主が声を荒くする。「あやつはの頼みを断ったのじゃ」

「無理矢理にでも従わせれば良いではありませんか!」

「それで、あやつに寝首でも搔かれたらどうするのじゃ!?」云いつつも主が涙ぐんでいる。

 幼少からこの主を見守り続けてきたセアは、実のところ主がそれほど強くはないことを知っている。皆無に断られたことが、随分とこたえている様子であるのを見抜いている。


「こんなところにおられましたか」


 上からナッケの声。見上げれば、路地裏に人形が飛び降りてくるところであった。

「【瞬間移動テレポート】!」


   †  †  †


》同日〇六三五マルロクサンゴー 自室 ――皆無かいな


 皆無は術式、勉学、運動等において人よりも圧倒的に出来る自分を誇りながらも、圧倒的存在たる父と比べられ落ち込んだ。父には敵わない、絶対に。それが皆無の限界であり絶望だった。最初から絶対に超えられない壁が存在していることが、皆無の世界を詰まらなくしていた。

 そういう世界の中で、騙しだまし生きていくしか無いのだと――そう割り切り始めていた、まさにその時に。


 皆無は、出逢った。


 父をして心胆寒からしめるヱーテル総量五億単位の悪魔デビルが神戸港に降り立ち、皆無はその使い魔となった。皆無の日常は、璃々栖を中心に回るようになった。

 皆無にとって、璃々栖はとてつもなく大きな存在だった。己の心臓を握られている? 己の体を無理矢理動かすことが出来る? それはある。が、それだけではなかった。親を失い、国を失い、腕を失い、圧倒的窮地に立たされておりながら、それでも絶望せず、笑顔を絶やさず、必死にあがいている少女。

 圧倒的精神力。

『ふむ。父親がおるだけ良いではないか。余なぞ昨日、二親ふたおやを始めとする親族を嬲り殺しにされたのじゃからのぅ!』そう云って己の不幸を嗤い飛ばした彼女の姿は、皆無には途方もなく大きく見えた。

 己の悩みの、絶望の、何と矮小わいしょうたることか! 璃々栖は、皆無のちっぽけな世界観をぶち壊してれたのだ。


   †


》同日〇六五一マルロクゴーヒト 神戸元町 ――セア


 海岸通りに近い公園に身を潜めるも、ナッケの人形にあっさりと見つかった。ヱーテルが残り少ない。己の死を覚悟しないならばあと一回、死を覚悟するならあと二回の【瞬間移動テレポート】が限度だ。

「はぁっ、はぁっ」主が息を切らして走る。その背後からは、

「どうしました、姫君?」セアの人形が追ってくる。わざと翼ではなく足を使って。楽しんでいるのだ。「もう【瞬間移動テレポート】はしないのですかな?」

「殿下! 皆無を――」

「ならぬ!」

「優先順位をお考え下さい! 祖国の復興と、皆無の命――」

「ならぬならぬならぬ!」

「殿下の強情者!」セアは生まれて初めて主の意にそむいた。「【瞬間移動テレポート】!」


   †  †  †


》同日〇六五二マルロクゴーフタ 自室 ――皆無かいな


 いつの間にか、眠っていたらしい。皆無はベッドから降り、「ん~ッ!」

 伸びをした、まさにその時。


「助けてれ、皆無!!」


 突然、目の前にセアが現れた。





   † 





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