第弐幕之弐「初恋ト失恋」
》同日
自室での待機を命じられた。ベッドに潜り込み、
「『みだれ髪』」三人の
与謝野晶子著『みだれ髪』は六つの章からなり、まず第一の章題が、
『
となっている。その文字を見て、皆無はドキリとする。いつも璃々栖が履いていた
『その子
豊かな金髪を誇るように棚引かせ、颯爽と歩く璃々栖の姿。
『ゆあがりの みじまひなりて姿見に 笑みし
元ブラデヱトの前夜、せがむ璃々栖の肩に翌日用のショールを掛けてやった時の、璃々栖のはしゃぎっぷりと云ったら無かった。
『乳ぶさおさへ
「ぶっ。随分とあけすけやなぁ!」
四月二日の朝、初めて璃々栖の服を脱がした時には、緊張で頭が真っ白になったものだった。璃々栖は、最初の方こそ乳やら股やらを執拗に洗わせて挑発してきたものだったが、皆無が精通を経験すると、一転して恥ずかしがるようになった。最初の頃の挑発は、ひょっとしたら彼女なりの強がりだったのかもしれない。
いつの間にか。先ほどまで璃々栖に対して抱いていたはずの負の感情が、すっかり溶けて無くなっていた。
『おりたちて うつつなき身の
退魔の時間が終わった夜の公園で、牡丹の花を見つけて『綺麗じゃのぅ』と呟く璃々栖。
『つばくらの
璃々栖の金髪は、ベッドから出て来るといつも爆発している。それを整えるのがひと苦労なのだ。
どの歌も、日常の何気ない情景を繊細な筆使いで
夜空を舞う璃々栖の姿。朝日に照らし出される璃々栖の横顔。飯を食べる璃々栖。風呂に入る璃々栖。寝る璃々栖。街を闊歩する璃々栖。笑う璃々栖、怒る璃々栖、悲しむ璃々栖。
(僕、そんな、そこまで璃々栖のこと見とったんや……)
この一週間というもの、自分は璃々栖のことをずうっと目で追い、寝ても覚めても璃々栖のことばかり考えていた。璃々栖に夢中になっていた。
『人ふたり
恋。この歌集の、恋を扱う物の多いこと。だがそれも当たり前のことであった。恋はこの歌集の
(……恋、か)皆無は本を閉じる。喪失感の理由が分かったのだ。(そっか。僕は恋をしとったんか……そしてそれを、
初恋であった。四月一日の夜に始まり、今日終わったこの十日間の出来事は、凄惨なまでに鮮烈な、初恋体験だったのだ。
布団に潜り込んで、泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて眠った。
†
皆無は母親を知らない。母親のことを聞くと父は決まってはぐらかそうとするので、何となく、もう亡くなってしまっているのだろうと思っている。折しも皆無が生まれた年は神戸で
母が居ないとは云え、寂しくはなかった。父が居たし乳母も居た。皆無は士官学校で寮に入っていた時期を除けば、生まれてこの方ずっとここ、『
近所の同年代からの反応も同じようなもので、様々な術が使える皆無は、ちょっとした英雄的扱いを受けていた。近所の武器商の娘・マリアも時々遊んで呉れた。世界は皆無を中心に回っていた。
どうやら様子がおかしいぞ――そう気付いたのは六歳、皆無が
教師などを始めとする大人達が、妙に
皆無は物心ついた頃から【
子供という生物は、そういう
二年生に上がる頃には、皆無は結論を得ていた。つまるところ、大人達は偉大なる父・正覚に気に入られたいのだ。
皆無を罰しないのは父に目を付けられたくないが為。皆無を過剰なまでに褒めるのは、皆無の口から『何某という教師に褒められた』と父に報告してもらう為。つまり、大人達の誰一人として、皆無自身のことを見ては
それに気付いた時、皆無はひどく冷めた。皆無自身が努力しようがしまいが、それで大人達の自分に対する評価が変わるわけではないのだ。己の評価はただ『阿ノ玖多羅正覚の息子である』ということによって満点と結論付けられており、大人達から毎日々々呪いのように浴びせ掛けられる『偉いね』『賢いね』『頑張ったね』という言葉の数々は、自分ではなく父に対するものなのだ。
それでも腐らずに済んだのは、同年代の子供達が皆無に付いて来て
四年生――九歳のある日、状況は一変した。
肌寒い秋の日であった。昼休みに焼き芋をやろうということになって、皆無は子分達を引き連れて学校の庭に陣取っていた。落ち葉を集め、芋を放り込んで、さぁ火を付けようという時に、子供の一人が『でかい火が見たい』と云った。求心力不足に危機感を抱いていた皆無は、その希望に沿うべくヱーテルの限りの火柱を立ち上がらせた。
火事になった。
幸いにして死傷者は無く、家屋に延焼することも無く、ただ、学校の庭が焼野原になるのみで済んだ。
悪童達は罰せられた。当然のことであった。教師から竹刀で何度も殴られ、額から血を拭き出す者や、気を失う者も出た。皆無もこの時ばかりは体罰を覚悟した――なのに。教師は、皆無にだけは手を上げなかった。
上げて
結局、この件で皆無を叱り飛ばし殴り飛ばして
その日を境にして、皆無の世界は一変した。大人達の露骨な贔屓を目の当たりにした子供達が、皆無から急速に離れて行ったのである。皆無は孤独になった。
皆無はやがて学校に行くのを嫌がるようになり、父はそれを
代わりに父は、皆無に
果たして皆無は、筆記試験とヱーテル抜きの運動試験こそ凡庸な結果であったものの、ヱーテルを伴う術式や運動試験において、隔絶した成績で首位を取った。
†
》同月十一日
「居たぞッ!」
成人男性の声。境内に、二人の男性が駆け込んできた。皆無が普段着ている物と同じ紺色の
「【
「「【オン・アラハシャノウ――
「ちっ」主が本殿の裏手に広がる林へと飛び込む。
「殿下、後方より来ております。尉官レヴェルが二」
「分かっておる!」
「殿下! やはり皆無を連れて来ましょう!」
「ならぬ!」
「ですが――」
その時、空から
「糞っ……」引き金を引けないでいる。「何でこんな、こんな命令――」
「そなた、一昨日に死にかけておった……」
「どうした、早く撃て!」背後からはもう一人が軍刀を抜刀しながら駆け寄ってくる。
が、小銃を構える男は震えるばかりで撃とうとしない。
主は大きく息を吸い込み、速やかに振り返り、すぐそこまで肉薄していたもう一人の軍人の顔へ、鋭く息を吹きかける。
ヱーテルの乗った吐息が、脳内詠唱したのであろう【
主が振り向けば、小銃の男が銃口を下ろして泣きそうな顔をしている。
「すまぬな」主が男へ短く告げ、林を抜ける為に走り出す。
主と
だから
主は走り林を抜けた。そこに、
「お逢いしたかったですぞ、姫君」
人形が、居た。仇敵
「
†
》同日
状況は改善するどころか悪化した。
考えても見れば、当然のことであった。士官学校に入ることによって、皆無を取り巻く人達の平均年齢がぐっと上がったのである。皆無の目から見れば、教師も生徒も
大人達は執拗なまでに皆無に付きまとい、父を紹介するようにとせがんだ。ここは退魔師達の巣である。父に対する熱量が違った。
皆無はその潔癖なまでの『生の自分を見て欲しい、認めて欲しい』という渇望を前面に出すのではなく、『英雄の子』としての立場を使って適量の甘い汁を吸いつつ、たまの休みに学友達を父と引き合わせるくらいのことはしてやるべきであった。そうすれば周囲に溶け込むことも出来たはずである。が、皆無はそういう割り切りをするには些か幼な過ぎた。皆無は自分で勝手に壁を作り、その中に閉じ
さらに、敵が出来た。陰口を云ったり、肩でぶつかってきたり、教科書を隠したり、石を投げてきたりといった
彼ら虐めっ子の正体は薩長閥の子弟であった。かつて錦の御旗を掲げて官軍として戦った彼らの親は、陸軍という組織において、ただ薩長閥であるというだけで栄達が保証されていた。
そんな彼らの聖域を荒らしているのが、皆無の父・正覚である。父は実力のある者なら薩長の生まれであろうが無かろうが、どころか商家や農家の生まれ、孤児出身者すら重用した。そんな、
『父・阿ノ玖多羅少将に比べ、阿ノ玖多羅一年生はあまりにもふがいない』
『ヱーテル総量など、五、六千程度しか無いという。阿ノ玖多羅少将は二千万を上回ると云うのに』
という具合であった。
他ならぬ阿ノ玖多羅少将を貶めたいが為の一大作戦であるのに、その少将を引き合いに出して皆無を貶めようという、噴飯ものの内容であった。が、他ならぬ皆無がそれを真に受けた。
六歳の頃から抱き続けてきた父に対する劣等感が爆発したのだとも云える。皆無は痛々しいまでに落ち込み、自身を追い込むような過酷な訓練に打ち込んだ。そんな風にして、飛び級に飛び級を重ねてたったの二年で卒業した十二の春、皆無は大日本帝国陸軍第零師団神戸連隊に入隊した。
軍人となり、栄達すべく血眼になって任務に励む同僚達の中に叩き込まれ、生まれて初めて己より優れた
入隊して半年ほど経ち、皆無の戦術がただただ『同僚よりも一歩でも先に敵の前に立ち、一秒でも早くその銃弾を敵の額に叩き込む――自身の損耗は顧みず』となっていた頃に、配置転換の辞令が出た。三人の、明らかに未熟な新兵を与えられ、第一線を退いて練兵をやれと云われた。皆無は、このあまりにも脆弱な三人の部下をどう扱うべきか悩んだ。
部下達は、ありとあらゆる言葉と態度を使って皆無を持ち上げた。当然のことである。この年端も行かぬ上官は、自分達を死地へ飛び込ませる命令権を持っているのだから。
そんな文字通り『必死』な部下達の姿を見て、初めて皆無は理解した。人は
なまじ【
†
》同日
南京町の裏路地にて。
「殿下、あと二回分しかありません」
「はは、参ったのぅ……」薄汚れた家屋の壁にもたれ掛かりながら、
こんな状況でも
あれから三十分ほど、【
【
訪れたのは
旅の主目的は
先王の死と共に
「殿下、意見具申をお許しください」
「ならぬ」
「皆無を連れてくるべきです」
「ならぬと云ったじゃろう」
「皆無を戦力とせねば、この状況は打破し得ません!」
「ならぬ!」珍しく、主が声を荒くする。「あやつは
「無理矢理にでも従わせれば良いではありませんか!」
「それで、あやつに寝首でも搔かれたらどうするのじゃ!?」云いつつも主が涙ぐんでいる。
幼少からこの主を見守り続けてきた
「こんなところにおられましたか」
上から
「【
† † †
》同日
皆無は術式、勉学、運動等において人よりも圧倒的に出来る自分を誇りながらも、圧倒的存在たる父と比べられ落ち込んだ。父には敵わない、絶対に。それが皆無の限界であり絶望だった。最初から絶対に超えられない壁が存在していることが、皆無の世界を詰まらなくしていた。
そういう世界の中で、騙しだまし生きていくしか無いのだと――そう割り切り始めていた、まさにその時に。
皆無は、出逢った。
父をして心胆寒からしめるヱーテル総量五億単位の
皆無にとって、璃々栖はとてつもなく大きな存在だった。己の心臓を握られている? 己の体を無理矢理動かすことが出来る? それはある。が、それだけではなかった。親を失い、国を失い、腕を失い、圧倒的窮地に立たされておりながら、それでも絶望せず、笑顔を絶やさず、必死にあがいている少女。
圧倒的精神力。
『ふむ。父親がおるだけ良いではないか。余なぞ昨日、
己の悩みの、絶望の、何と
†
》同日
海岸通りに近い公園に身を潜めるも、
「はぁっ、はぁっ」主が息を切らして走る。その背後からは、
「どうしました、姫君?」
「殿下! 皆無を――」
「ならぬ!」
「優先順位をお考え下さい! 祖国の復興と、皆無の命――」
「ならぬならぬならぬ!」
「殿下の強情者!」
† † †
》同日
いつの間にか、眠っていたらしい。皆無はベッドから降り、「ん~ッ!」
伸びをした、まさにその時。
「助けて
突然、目の前に
†
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