第14話 朝の挨拶は大事


「いってきまーす! ほら、ハイタツくんも!」

「う、うん。いってきます」


 玄関の扉を開けながら、あぶな荘202号室に向かって挨拶をする制服姿の雨宮とスーツ姿の俺。


「制服そんなに珍しい?」

「いや、随分と緩いなぁと」

「あー、うちは都立だからねー」


 雨宮の制服姿は初めて見たが、白いワイシャツの首元にリボンをつけて、その上にピンク色のカーディガンを羽織っている。下は赤いチェック柄のプリーツスカートを膝上で揺らし、黒いハイソックスにスニーカーという、制服と私服の中間のような着崩しスタイルだ。

 俺は私立高校だから知らなかったが、都立高校の校則がゆるゆるという噂は本当だったのか。まるでアニメや漫画から出てきたみたいだった。


 なぜ俺達がこんな格好をしているのかと言えば、もちろん今日が平日であり、それぞれ会社と学校に行く必要があるからだ。


 色々な買い物をして、雨宮の手作りハンバーグを食べたのは土曜日のこと。

 次の日曜日は、雨宮があぶな荘202号室に住むための手続きをしているうちに終わってしまった。

 俺が一人暮らしを始める時もそうだったが、やっぱり引っ越しって手続きが面倒だよね。ボタンひとつで全部できればいいのに。


「どうしたー、ハイタツくん? ハニワみたいな顔しているぞー!」

「どんな顔やねん」

「えーっ、こんな顔!」


 雨宮は器用に目と口を丸く開き、まさにポカンという言葉がピッタリなアホっぽい表情を作る。

 俗に言う変顔というヤツなんだろうが、雨宮がやるとお茶目でかわいく見えてしまうから不思議だ。美少女ってズルイよね。


「ふふん、朝から尊ちゃんに見惚れちゃって。仕方のない25歳ですなぁ」

「23歳だわ!サバを読むんじゃないよ!」

「あはは、大正解!」


 懐から鍵を取り出して202号室の扉を施錠している俺の頬を「正解、正解」と言いながら、2回ツンツンとつつく雨宮。

 いったいなんなんだ。柔らかい指の感触にドキドキするからやめていただきたい。あと、距離が近いです。


「まーた、ハニワ。ほらほら、遅刻しちゃうぞ!」

「はいはい」


 朝からテンションの高い雨宮に気圧されつつ、「あたしについてこい!」とばかりに、ドシドシ歩いていく背中を追いかける。気分は王様についていく従者である。


 二人で階段を下りていくと、アパートの入り口で掃除をしている阿武名さんを見つけた。かわいらしい水色のエプロンをつけて、楽しそうにホウキで掃いている阿武名さんを見ると、無性に懐かしい気持ちになった。

 あの聖母のような慈愛に満ちた優しい笑顔こそ、阿武名さんの本来の姿のはずだ。


 ああ、優しい阿武名さん。いつまでもそこにあると信じていたのに。


 どうか、もう少しだけでも、優しい阿武名さんの笑顔を――。


「結衣さーん! おはよう!」

「あら、尊ちゃん。おはようございます」


 タタタッと阿武名さんに駆け寄っていき、その豊満な胸に飛びつく雨宮。笑顔で抱き合う二人は、相変わらず姉妹のように仲が良さそうだった。

 エプロンを押し上げていた阿武名さんの巨乳が、雨宮の顔を受け止めて変形していて、その姿はまるでスライムのよう。あのスライムは、いったいどれだけ柔らかいのだろうか。なんて刺激的な朝なんだ。


「あ、阿武名しゃん、おお、おはよう、ございまひゅ」

「………………おはようございます」


 さすがに俺も挨拶しなければと、勇気を振り絞って挨拶をしてみたわけだが、緊張のあまり噛み倒してしまった。なんだ、「ございまひゅ」って。

 そんな俺の言葉を聞いた阿武名さんは、スンと顔から表情を消す。そして先ほどまでの聖母スマイルが嘘だったみたいに、まるでゴキブリでもみるような視線で、とても不服そうに挨拶を返してくれた。なんて刺激的な朝なんだ。


 ああ、優しい阿武名さん。いつまでもそこにあると信じていたのに……。


「結衣さん、仕事は?」

「私の会社はフレックスタイム制なので、掃除が終わったら行きますよ」

「わー、すごい! デキる女って感じ!」


 雨宮に声をかけられると、ニッコリ笑顔に戻る阿武名さん。また二人でワイワイキャッキャと盛り上がっている。女の子ってこわい。


「あ、駅前で朝ごはん食べるんだった! 早くいかないと時間なくなっちゃう!」

「そうなんですね。いってらっしゃい、尊ちゃん。車に気をつけてくださいね」

「えへへ、ありがとう。いってきます、結衣さん!」


 頭を撫でられて顔を綻ばせた雨宮は、阿武名さんに一度ギューっと抱きつき、それから元気よく手を振りながらアパートの敷地外へ向かって走り去っていった。

 朝から元気だなぁ。俺はちょっぴり朝からセンチな気分だよ。


「何をボーっとしてるんだ――! ハイタツくんも早くこ――い!」

「はいはい」


 そのまま走り去っていくかと思ったが、途中で俺がついてきていないことに気が付いたらしい。急停止して振り返り、俺に向かって大きく手を振りながら、大声で俺のことを呼んでいる。

 まだまだ時間はあるため、走る必要はないのだが、これは急がないとうるさそうだ。


「あ、阿武名さん、いい、いってきます」

「………………いってらっしゃい」


 かなり間があったが、一応は挨拶を返してくれる阿武名さん。

 きっとまだ優しい阿武名さんの心が残っているんだ。心の底から嫌われていたら、完全に無視されるだろう。だから諦めないで、俺も心を強く持とう。


 優しい阿武名さんを、いつか取り戻すために……。


 そんな秘めたる決意を持って、俺は雨宮の後を追いかけていくのだった。

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