第9話 仁科清香とはいったい
家に帰ると、すでに相坂さんは家にいた。
「なんか、我が家だと思ってません?」
「それは思ってませんが、あまり仕事場という感じもしませんね」
「でしょうね……」
彼女はお風呂上がりらしく、頭にタオルを巻いている。
服もさすがにお風呂あがってからスーツを着るのは嫌らしく、パーカーにスウェットとかなりルーズな格好だ。
彼女も男の部屋にいるということへの抵抗がなくなっているのだろうか。
そんなことを思いながら俺も参考書のどっさり詰まったバッグを下ろした。
「そういえば今日、デートに誘われてしまったんですよ」
「へえそうなんですか……って、今なんて言いました?」
「だからデートに誘われたんです。びっくりですよね。ただ断っちゃったんですけど」
「…………一回整理させてください」
ぽかんとした様子で相坂さんがこちらを見ている。
いや、そこまで驚かれるとショックなんですけど。
「今日、ですか?」
「はい」
頭痛がするといった様子で彼女はこめかみのあたりをぐりぐりと押し込んでいる。
「ちょっと詳しく教えていただけます?」
「え? まあいいですけど」
そう言って、俺は今日あった出来事について話した。
俺と同じ山丘高校の生徒であること、とてつもない美少女で少し先輩に似ていたこと、仁科清香という名前など。
「――塾で居眠りをした時に見た夢、ではなく?」
「いや、まさか、そんな塾でい、居眠りとかするわけないじゃないですか。現実です」
というか俺はどれだけかわいそうな男だと思われているんだ。
そこまで女に飢えているわけではないのに。あと居眠りはなんでバレてるのこれ? うまくごまかしたけど。
「でも、何も理由なしに美少女があなたにデートのお誘いを?」
「まあさすがに冗談だったぽいんですけど」
「お金目的? それとも財産目当て? いや、相続目的か……」
「全部お金ですし、最後のは僕死んでますよね⁉」
俺を勝手に殺さないでほしい。あともうちょっと他の可能性についても模索してほしい。
「まあなんにせよ、明日はやらなきゃいけないことがあったんで断るほかなかったですけど」
「それは?」
「補習です」
「はぁ……」
し、仕方ないじゃん! 1年の時の学年末テストの成績が悪かったんだもん!
「まあ仕方ないですね」
「ほっ」
「――じゃあ今日の分のノートを見せてください」
「あ」
バチコーンと叩かれてしまった。もちろんハリセンで。
そのあと俺はひたすら謝りながら相坂さんに数学を教えてもらっていた。めちゃくちゃわかりやすかった。
「それにしても、今日のはなんだったんだろうな……」
お風呂の中でふと、そんなことを考えた。
仁科清香、一体彼女は何だったのか。何者だったのか。
相坂さんに聞いても、知らない名前だと言っていた。偽名の可能性すらあるのかもしれない。
お湯の水面をちゃぽんと叩く。高い音がお風呂の中に響いて、その余韻が沈黙をもたらす。
――す、すみません! いきなり初対面の人とデートってのはちょっと難しいというか……。
――あ、ごめんごめん。デートっていうか、遊びに行こって感じだけど。そうだね、初対面でそれはよくない。ごめんごめん。
――いえ、誘ってもらえたのは嬉しいんですが……。
――じゃあ友達から、ってことでいいよね? 私も友達少なくて、よかったら……なんだけど。
あれから交わした会話はこんなものだっただろうか。
彼女が友達が少ないというのは嘘のようにも本当のようにも思えた。あれほど話上手なら友達がいないというのは嘘のような気もするが、あれほどの美人だとたしかに無意識に距離を取ってしまうような気もする。
あと初対面にしては距離感が近かったな。
まあとにかく、彼女は謎だらけだ。素性も分からないし、本当にうちの生徒なのかもわからない。
「でも、そんなことより今は」
分からない彼女のことより今は、先輩との距離を近づけることが優先だ。清香さんのことは頭の片隅に置いておこう。
そう言ってかっこよく湯船からザバンと立ち上がろうとしたが、筋肉痛のせいでうまく立てなかった。
「そういえば、次の月曜日の放課後は開けておいてください」
「何かあるんですか?」
いつも通り10時くらいに自分の部屋に帰ろうとしていた相坂さんは玄関で靴を履こうとしたところで思い出したように言った。
「嘉瀬真理の所属する部活に入ろうかと思いまして」
「また急ですね……」
いつものように聞いていないことがまた飛び出してきた。
「理由はちゃんとあります。というのも、今のままではお隣であるメリットが生かせません。次のステップに進むためにも、せめて彼女の部屋に入るか自分の部屋に呼べるくらいの親密度がないと」
「は、はあ、なるほど」
たしかに、引っ越してきた日に入ろうとしたがすげなく断られたのは記憶に新しい。
それは好感度の問題ではなく親密度の問題。なるほど、納得ではある。
「ちなみに先輩は何の部活なんですか?」
「文学部です」
「へー」
知らなかった。というか先輩が部活に入っているという話自体初耳だろうか。
「部員は今のところ3人」
「少ねえな‼」
「真理が部長ですので、みなさん入りづらいんじゃないですかね」
先輩の部活に入るというのは、先輩目当てだと思われやすいのだろう。
普通の生徒だとそうはならないが、先輩が所属している部活となるとどうしてもそうなってしまう。
「あ、一応私も部員だから4人か」
「ぜったい幽霊部員ですよね? 今までろくに行ってないやつですよね」
「放課後は少し用事がありますので」
なんとなくだが、その用事というのは大したことがないもののような気がする。
さしずめ見たいドラマが~とかな感じだ。俺も最近になって相坂さんのことが分かってきている気がする。真顔で嘘をつく相坂さんだが、堂々としているときはむしろ噓のにおいがする。
「ちなみに他部員ですが、一人は正真正銘のボッチで、もう一人は正真正銘のバカです」
「無茶苦茶な部活だな‼」
相変わらず口が悪い相坂さんなのでした。
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