第4話 引っ越し②

 ちんけな感想を思い浮かべた。


 やっぱり先輩はかわいい、美しい。


 そして――本当にこの人のことが好きだ。


 パッチリと開いた目、長いまつ毛、血色の良い唇にそこからちらりと見える白い歯。

 ほっそりとした首に妖しく存在を主張する鎖骨。そこから下へ隠しきれない大きなふくらみがあり、ちらりと見える細いふくらはぎ。細い足首。


 先輩の服装は黄緑色のワンピースで、首元や腕の露出が多い。

 しかし足元はひざ下まで隠れていて、男に媚びるような服装にはならない。


 すべてがギリギリのバランスで保たれており、一つでも欠けたら崩れるような絶妙な土台の上に嘉瀬真理という人間は存在している。


 春風が僕たちを渦巻いていて、先輩の柔らかい女性のにおいが俺の鼻腔をくすぐった。


「あっ」


 何一つ気の利いたことが言えなかった。圧倒的な美貌の前に俺はただただ口を開けてしまっていた。


 ――まるで全身の細胞が彼女への恋愛感情を示しているみたいだ。抗いようのない、細胞単位での恋だった。


 先輩は俺の方を見て、また同じように目を丸くしている。

 まさか2か月前に自分を振った男がのこのこと自分の前に顔を出すとは思いもしなかったのだろう。


 沈黙が僕らの間を支配して、そして数十秒。

 先に行動を起こしたのは先輩の方だった。


「えっ」


 ――えっ? なにこのタイムラグ?


 俺の方は先輩に何を話したものかと試行錯誤していたが、先輩の方は俺の存在を認識するまでにこれだけの時間がかかってたのか⁉


「あの、先輩」


 そして先輩の反応に驚いてから俺がその言葉を言う頃には、ドアが閉まっていた。


「え?」


 ――。音もなく、俺の前から先輩の姿はいつの間にか消えていた。


 拒否された、と瞬間に思った。会いたくない、と本能的に反応されて会うのを拒否されたのだと思った。


 だけど、違った。


 バタン。ガッシャーンガシャーン。きゃーっ。


「……………………」


 思わず俺は相坂さんの方を向いた。顔を出しているはずがないと思ったが、この感情を誰かと共有したかった。


 だが幸運なことに相坂さんは、そこにいた。呆れて、ため息をついて、なんなら頭を抱えていた。


 いつもとは違い萎れているように見える相坂さんが新鮮でもう少し見ていたいと思ったが、その前に先輩が戻ってくる。


「な、なにか用だったかな、千太くん?」

「…………だ、大丈夫ですか?」

「な、なんのことかな?」


 髪は乱れているし、息遣いも荒くなっているし、汗もかいている。が、何事もなかったかのようにするらしい。


 その図太さというか神経の太さには恐れ入ったし、何より普通に髪が乱れた先輩もかわいかったので先輩の意図に乗っかって話を進める。


「あのう……実は、隣の部屋に引っ越して来まして……」

「え! 千太くんが隣の部屋に⁉」

「はい…………」


 何かしたわけでもないのに、なんか恥ずかしかった。こうやって口にされてみると、俺が先輩に会いたいがために隣の部屋に引っ越してきたみたいだ。

 いや、間違ってないけど会えるならラッキーとか思ってるけど‼


 妙な恥ずかしさから逃げるように、続きの言葉を言う。


「それでつまらないものですが、これおすそ分けです」


 そう言って、ビニール袋に入れたタッパーを先輩に見せる。

 自分が作ったものではないものを自分が作ったかのように見せるのは抵抗があったが、まあそれはそれとして。


 それよりも、俺にはもう一歩踏み込んで話さなければいけないという指令が下されていた。


「それでよかったら……昼ご飯、一緒に食べませんか?」

「い、一緒に⁉」


 俺がそう言うと、先輩は口に手を当てて驚いていた。

 どこか既視感があるというか、さっきどこかのだれかが同じ反応をしてたな。


「俺もお昼がまだなので、先輩が良かったら、にはなるんですけど……」


 絶対に下心に見えないように、それでもある程度の好意は見せるように。

 相坂さんに家を出る前にアドバイスされたことを念頭に置いて、俺はそう言った。少し言い訳のようになってしまったかもしれないけど。


 先輩は自身の真っ白な両指を合わせて、えっと、うんと、と考えているようだった。考えているというよりは迷っているのかもしれない。

 そんな先輩もかわいくて、一生見ていたいと思うほどだった。


「どう、ですか……?」


 タイミングを見計らってもう一度聞くと、先輩はえっ、えっ、えっ、と顔を赤らめる。


 さて、いいのか、悪いのか。おっけーか、のっとおっけーか。


 さあ、どっちだ……。


「ごめん……ごめんなさい、無理ですっっ‼」


 ババ―っと自分の部屋に逃げ込まれてしまった。


 ――ちょっとショックだった。



 ―――――――――――――――――――



「まーあればっかりは彼女が悪いですね」

「相坂さんが先輩のことをポンコツって言った意味が、ちょっと分かりましたよ……」


 断られた後、俺は相坂さんと一緒に二人で彼女の作ったおでんを片手に反省会を開いていた。


「というかこのおでんめちゃくちゃおいしいですね。大根とか味が染み込んでて、多分今まで食べた大根の中で一番おいしいです」

「え、あ、ありがとうございます……」


 そして相坂さんの料理は死ぬほどうまかった。

 仕事で練習しているからと言ってしまえばそれまでだけど、かなりの時間練習したんだなっていうのが分かる。

 お店で出てきても文句ないどころか、むしろお店の料理なんじゃないかってくらいおいしい。


「え、この卵もおいしい! おでんの味玉って、物によってこんな味が違うんですか?」

「分かりますか⁉ この卵はわざと皮に切り込みを入れて味がよく付くようにしてるので、そこらの味付き卵よりしっかりおでんのだしが染み込んでるんですよ!」

「お、おお…………」


 早口でまくし立てるように解説を入れる相坂さんに、俺も少したじろいでしまった。


「…………こほん、失礼しました」


 そしてその反応を見た相坂さんは、咳ばらいをして乗り出していた体を戻し正座をしていた。

 なんかいま一瞬だけ相坂さんの内面が見えたような……?


「それより、です」 


 相坂さんは冷静を装った仮面を身につけて話を進めようとする。


 が、相坂さんはちくわの中にチーズが入ったものを食べて、はふっ、はふっと熱がっていた。多分動揺して一気に口の中に入れちゃったんだろうな。

 あとチーズがこぼれて口の周りについていて、妙にエロかった。


 ――じゃなくて‼


「やっぱり先輩は一筋縄ではいきませんね……」

「ほうへんへふ(当然です)。……あなたが最初から告白を受け入れていればこんなことにはならなかったんですがね……」

「それは言わない約束でしょうが‼」


 こっちだってまだ先輩と付き合う覚悟も決めてないっていうのに。というか、本当に付き合えるんかこれ?


「ただあれほどまでにポンコツになっているのは予想外でした。……思った以上に告白を振られたことが彼女にとってトラウマになっているのかもしれません」

「先輩のことを臆さずポンコツっていうのやめたらどうです?」


 うーん、と思考を巡らせる相坂さん。


「まあこればっかりは時間をかけるしかないかもしれません。成瀬さんには長期戦を覚悟していただければ」

「はあ……」


 こうして、俺の不思議な一人暮らし生活は、先輩の拒否とおでんから始まった。

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